啐啄(そったく)

すっかりご無沙汰で時間が空いてしまった。No6を書き終えNo7を書き出す間になんと世の中は新しい年がスタートしているではないか・・・。と言うことは「新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくごひいきにお願いいたします。」

私にとって2002年は激動の1年だった。あれもありこれもあり・・・。これ以上のことはもう今後ないやろと思えるくらい○○だった。

しかしこう見えても私はまだまだ厄年ではない。冒頭の写真を見てから生年月日と比較すると えっ・・・?と言う声が聞こえそうだがそう、これからが厄本番なのだ。昨年以上にこれからもっと“凄い事”が起こるのであろう・・・。しかし凄い事と思っていたことでも後々になるとありがたいもので経験として語り伝えたりそれ以降の人生の矯めになったりするものだ。ありがたく受けいれよう・・・くじけずに。

伝わらなかったこの気持ち

新しい職場に来て早いもので一サイクルが終ろうとしている。今週で後期の授業も終わり後は定期試験と成績付け。慣れない教員生活の一年の締めである。

私はこう見えても実は高校、中学の保健体育の教員免許を持っている。体育系の大学を卒業すれば誰でも取れるものなので以外と身近に教員免許を持っている人は多い。しかし、だからといって即、教員になれるものではない。教育委員会と言う日本の教育をつかさどる機関がその本人を審査する。それにパスしないと教師として活動が出来ないのである。

残念ながら私は18年前に難解な質問をプリントで出され返事を求められた。その返事の答え方は確か指定の丸いところを塗りつぶして伝えるものであったように記憶している。しかしながらどうも教育委員会にうまく私の思いが伝わらなかったのか教師としての活動を許してもらえなかった。しかしそれが、今日では教壇に立ち能書きを喋っているのだから世の中は怖い。「お前に何が出来るんや?」と言う言葉を今年1年さて、何回聞いたことか・・・。

教育実習

大学4回生の時、教育実習のため母校の高校にお世話になったことがある。3週間ほど3年生、2年生の体育の授業と保健体育の授業を実習した。そして放課後はサッカー部の指導。どちらかと言うとサッカーの指導がしたいという思いのほうが強かったようで放課後ばかり張り切っていたような気がする。後から実習生にはあまり無い事だと聞いたがちょうど実習期間が県総体の最中であり、宿泊を伴いながら総体に参加するサッカー部の臨時コーチとして帯同を許可され出かけて行ったこともある。サッカー部の顧問先生はいたのだがサッカーの経験が無い先生であったため校長先生が特別に許可を下さったと聞いた。顧問先生もとても良い方で、たいして指導経験も無い私を立てて頂き、やり易い環境を作って頂いた。

そもそも当時サッカーの指導者になりたいと考えていた私にとっては本当に貴重な経験であった。当時はサッカーの指導でメシが食えるなんて思っても見ない時代であった。故にサッカーの指導をするには学校の教員しかないと思い込んでいた頃の出来事である。

恩師の教え

そんなある日、小学校の恩師を訪ねた。現在もご健在だがもう80歳を越えられている。女性の先生で小学校時代の恩師なのだが一度も担任を持ってもらったことはない。しかしものすごく担任になってもらいたかった先生だった。中学、高校時代に家を訪ねて遊びにいくわけでもなくただ漠然とそう思っていただけだったのだがなぜかしら教育実習中に家を訪ねていった。

私はその先生に実習に来ている事、採用試験を受ける事、指導者に成りたい事など色々話しをしたと記憶している。先生はただじっと聞いてくれて最後にこんな話しをしてくれた。
「“そったく”という言葉を知っている?これはね私がとても大切にしている言葉なのよ。この言葉の意味はね卵から孵ろうとしている雛の手助けをしている親鳥の様を表す言葉なのよ」と。

続けてこう話しをしてくれた。
「卵から孵ろうとする雛は一生懸命中から殻を割ってるでしょ。まだ弱いくちばしで一生懸命。それを親鳥は強すぎず弱すぎず外から雛と同じ力で殻を割る手助けをしてるのよ。強すぎたら雛が傷つくし弱すぎたら割れないし・・・。」・・・と。

つまり指導者たるもの子供達と同じ目線に立って考えてあげることが大切なのだということを教えてくださったのだ。本当はこのコラムの名前を“そったく”にしようと思っていたくらいである。

そったく同時

人に物を教える時、教師が子供にそうするように我々は日頃から“そったく”の機会が沢山ある。目の不自由な人に出会ったらどうする?障害者に対して心を同化させ、労わりの心を持つ。これも“そったく”の心である。

我々指導者、あるいは選抜の指導者達・・・どうしてこれが出来ない?  と怒っていない? 初めてトライする事にどうしてもこうしても無い。出来ないから練習をしているのである。言ったことをすぐさま出来るのに時間がかかるのが人間である。ましてや各チームの選手を集めた選抜チーム(様子も良く分からない選手達なのである)ともなれば時間がかかるのは目に見えている。サッカーのシステムだ戦術だの言ってもなかなか出来ないのはあたりまえである。それよりも後々の戦術に対応するためのしっかりとしたボールタッチ、ボールフィーリング、判断力を限られた時間ではあるが指導しなければならないのが選抜チームなのである。月2回程度の練習でどれだけ向上するのかは知れたものかもしれない。しかし選抜の意義というものは大きく責任あるものなければならない。

神戸FA 選抜チーム

協会としての選抜活動の考え方はサッカー選手としての技量、理解力の向上もさることながらいわゆる物事の考え方(人との関係などヒューマンな部分やメンタルな部分)とか、サッカーという物の考え方(相手の裏をつくにはどうするか相手を引っ張り出し守備の綻びを作るにはどうしたらよいか等戦略的な部分)だとか、サッカー通じて(・・・いや、利用してという言い方や媒体としてという言い方のほうがよいのかもしれない)何を学ぶかの修行の場であると私は考えている。もちろんサッカーのチームであるからしてサッカーという競技として当然勝利を目指すのは言うまでも無い。ただ、方法論を間違えてはいけないのである。無茶な方法で勝つよりも選手達が理解をしてトライして負ける方がよいのかもしれない・・・、極端な例えだが・・・。

選抜チームにも様々な年齢がある。小学生から大人まで。しかしみな同じ。基本が大切。考え方が大切。

神戸の選抜に入ったら人には経験できないことが経験でき教えてもらえる、そんな魅力ある選抜を編成できる神戸でありたい。“そったく”の心をもって・・・。