サッカーとハート :振り返る時間は大切2003-03-10

1月15日以来のコラム。この年度替わりというのは何かと気ぜわしいというか落ち着かないものだ。慣れない職場・・・、各種決算期・・・ まあ忙しいということはありがたいことで、お仕事頂くありがたみを感じながら一つ一つ仕事をこなしていたここ1ヶ月ちょっと。

思い起こせばちょうど1年前、ヴィッセルをやめて大学へ勤務するまでの3ヶ月は何もすることなく、またする気にもならずただ家で暇してたなあ・・・。

新人研修?

大学に自然活動実習という授業がある。これは単に屋外で身体を動かすというだけでなく、日常の人工的な環境を離れ、変化に富んだ自然環境の中で、人間も自然の一員として、自然との接触を楽しみながら自然を理解し、自然を愛し、自然を大切にする活動を体感する授業であり、夏のマリンスポーツ実習と冬のスノースポーツ実習と二通りの授業を開講している。

2月の下旬にこのスノースポーツ実習として戸隠高原に行きアルペンスキー、スノーキャンプ、歩くスキーというものを体験した。私が学生の頃にも大学のカリキュラムにスキー実習があり、菅平高原に行きアルペンスキー(ゲレンデで滑るスキー)のほか、クロスカントリースキーの裏にアザラシの皮を装着し、標高1200~1300M位の山に登り、登りきった頂上でその皮をはずし、一気に頂上からクロスカントリースキーを使って滑り降りてくるようなプログラムを体験したことはあったが、何せ10数年ぶりに本格的にスキーをすることになったため、今回私は研修生として学生と同じメニューを“学ぶ”というスタンスで参加した。私にとって教え方を教わるといった感じであった。

歩くスキー

今回、ゲレンデではボーゲン、シュテムターン、パラレルターンなど専門用語に加え、技術を習得すること、また実際デモンストレーションが出来るレベルにまで上げることが狙いであったが、それが出来れば資格が取れそうだというくらい練習をしたつもりだがなかなかどうして・・・手ごわい。

ある日はスノーキャンプというプログラムの中で歩きながら自然を観察する歩くスキーというものも体験した。これはクロスカントリースキーを履いて道なき道を歩いていくものである。本来はるか上に見える神社の鳥居が積雪(積雪2M位)のおかげで目の前に見えたり不思議な体験が出来るのである。学生を5人ほど連れて先輩先生と一緒に歩くのだがアルペンスキーと違いスキー板が細く、かかとが固定されておらず浮き上がるようになっているため結構歩きにくいものである。バランスをとるのが難しい。

クロカンスキーを履いて道なき道を、しかも誰の足跡も着いていない新しい雪の上を歩いていくと本当に不思議な気持ちになる。簡単に言えば新鮮な気持ちなだけであるのだが・・・不思議である。啄木鳥(キツツキ)の木をつついた後が見え、熊が餌を冬眠前に食べた後、気によじ登った爪のあと・・・  俗世界にいる私になどには無縁のものが目の前に次々と現れてくる。

狐の足跡、狸の足跡、ウサギ、リス、イタチと・・・朝一番で歩いてみると夜の間に動き回った動物の足跡もいっぱい残っている。何もかもが新鮮であった。この足跡というのは動物によって形状がすべて違い上級者にとって見れば種別、大きさなど簡単に見分けられるという。アニマルトラッキングという研究をされている先生がいる。動物によっては前足の跡の上に必ず後ろ足を重ね合わせて歩く動物とバラバラに歩く動物とがいる。イタチやオコジョは重ねて歩くタイプである。また、足跡が4つずつつくタイプ、3つずつ付くタイプ、2つずつつくタイプがあるのも興味深い。

途中、啄木鳥の木をつつく場面と音に遭遇した。その音はとても大きく森に響き渡るくらい大きい。そしてその姿を見ることはとてもまれで貴重なことだという。このドラミング(つつく音)の音がものすごくきれいなのには驚いた。アカゲラというのが正式名称で上見下ろうが下向きだろうがポジションを決めて木をつつくのである。餌をとっているらしい。

中道

戸隠というところは信仰神が山であり山岳修行が盛んに行われてきたところである。確かに南側から見た戸隠連峰は断崖となっており、山全体が覆いかぶさってきそうな迫力のある山である。威圧感がありながらも厳かな雰囲気を感じさせる山である。神としてあがめられるのもわかるような気がする。その戸隠において荒行を行い、何年も山にこもり修行をしていくと、あるとき目の前が開け悟りを開けるという。そうなると高僧として全国に赴き教えを広め、庶民の苦を取り除いていくのである。ただ、その荒行に耐えられるものは少ないという。

余談になるが仏教というのは釈迦が35歳のときにインドのブッダガヤという土地で悟りを開き仏陀になったものであり、その教えは中道の教えである。ブッダ(Buddha)とはサンスクリット語で「目覚めた人」という意味でそのブッダの教えだから仏教という。仏教は中道の教えであるということはどういうことか?というのは人類の宗教の歴史の中で釈迦以前には宗教の修行と言えば苦行しかなかったのである。釈迦は苦行は心理にいたる大道ではない事に気づき快楽におぼれることもないが苦行をすることもないゆったりとした歩みのなかで苦しみから人々を救ってやろうと考えたのである。

荒行、苦行の戸隠でゆったりとした気持ちになり自然を見つめる・・・なんか皮肉な感じがする一幕であった。

精神あってこそ

最終日にはこんなプログラムもあった。昼から穴を掘り、一晩その雪穴で過ごすというものである。自分で自分が寝る穴を掘り、シュラフ(寝袋)に身をまとい20:30スタートで翌朝朝食まで寝るのである。穴をどうやって掘ったらよいのか、どのくらい掘ったらよいのか各自色々考えて見るのである。私も一晩寝た。私は縦に自分の背丈くらい掘り足元から今度は横に掘り自分がすっぽり入るくらい彫ったのである。寝返りを打てるくらい、膝が曲がるくらいの穴を掘り準備OK。夕食を食べ準備を整えいざ就寝。これがまた結構暖かいものである。しかし、閉所恐怖症の人は耐えられないだろうし穴が潰れたらどうなるだろうと考えると不安は尽きない。しかしそれを振り払って寝るということが人を鍛えるにはよいのだろうし一人自然の中で過ごすということが色々考えさせるのである。早く寝つけたと思いながらもシーンとした屋外に1人ぽつんと寝て、あれこれ考えて結構時間が立ったのだろう。ラジオもテレビも携帯も明かりもないのである。さて学生達は何を考えたのだろうか?

私は人生振り返った。いや、振り返っていた自分があったのである。小さい頃、学生の頃、神戸FCの頃、ヴィッセルの頃いろいろと。結局、自分のしたいこと、自分に向いていることを考えていたのである。悟りなどと大それた事は言わないが、自分自身がしてきたことの良いこと、良くないことを考えなぜあの時こうなったのか整理がついたようにすっきりした気持ちになった。いや。本当に先達が修行をして悟りを開こう、煩悩を払おうと思う気持ちもわからなくないような気がした。今でもスポーツ選手が座禅を組んだり滝に打たれたりするが、それはそれで大切なことのように感じてきた。理論も大切だが精神も大切だということが体感できた。

幹部候補生

プロを育てる、優秀なサッカー選手を育てる、人材を育てる、人を育てる、どれも大切なことだし、必要なことだし、誰かがしなくてはならない。しかし自然に育つこともある。あまり堅苦しく考えずに自分の出来ることを一生懸命やるだけかなと思う。背中を見て育つという言葉もあるし・・・。ネガティブでなくポジティブである。苦行でなく中道である。自分では出来ないことはコンビネーションでカバーをしたい。

今、私が理事長をしている県クラブユースサッカー連盟では次期連盟を支える幹部候補生を育成するために20歳代のプロパーコーチを集め色々な経験させることを始めた。組織運営、事業の進め方、対外交渉の仕方、人脈の広げ方など。一般企業においては社員研修がありみっちり鍛えられるだろうが、どうもサッカーコーチというのはいきなり選手や保護者の前に出て一国一城の主になるがために世間知らずが多い。(私もそうだが・・・)それを改め、組織を背負ってくれる立派なコーチになってもらいたいと思う。苦行でなく中道で・・・。