許せるミス

久しぶりに教え子に逢った。就職が決まり研修期間が終ったようだ。来週の月曜日(28日)に東京に配属になるそうだ。この不景気な時代にNestleに就職でき、逢った日は会社の研修最終日だったようで少し疲れているようだった。しかし疲れている中にも気持ちの面で充実したものがあるのだろう、顔には自信と希望に満ちたエネルギーが沸いて出ていた。

今、私の周りにも大学生がたくさんいるが彼らが今後社会に巣立っていくことを思うと私自身の責任、我々大人の責任は大きなものだと思い知らされる。そして反面、それぞれの結果が私たち自身の成果、喜び、次へのエネルギーとして跳ね返ってくる。なぜ人間はこの精神的な部分のつながり、関わり、跳ね返りのためだけに力を注げるのだろう。よく考えたら何か形に残る品物が手に入るわけでもないのに・・・。

そう、そこだと思う。人は情で繋がるのだ。義理、人情、誠意、思いやり  つまり・・・“情”・・・。教育なんて大きなことは言えないが私は実は今こんなことを考える。大学の先生というのは専攻する学問、テーマをそれぞれ持って学生にレクチャーしている。私の場合は「サッカーのゲーム中に見られる事象の有効な改善方法」つまり指導法とサッカーの本当のルーツを探ってみようなどと考えているが、実は「スポーツの場面における“情”の有効性」・・・(ちょっと難しく考えすぎだな)・・・、つまりスポーツを通して義理、人情、誠意というものを学んでいく事の大切さを実地訓練させたいと思っている。

サッカーの監督をしていていつも選手に言うのだが、「君達が最善の努力をしたかどうかを何によって私は理解、判断することが出来ると思う?」と。「私はあなた達の頭の中にミクロになってもぐっていける訳がない。心の中に入っていき心の中を見られるわけでもない。ではどうやって私は君達を判断するのか。それは君達のプレーぶりでありピッチ内外で見せる誠意だ。」と。

お分かりいただけるだろうか。選手を信用していないわけではないがたくさんの言葉を並べられるよりプレーを見たい。本当にパスが欲しい、今もらったらチャンスなのに・・・というときは真剣にパスをもらうための動作をするだろう。失いたくないときは真剣に周りを見るだろう。(その真剣さを見極めしっかり理由をつけて評価をしてあげるのが良い指導者であり監督であると私は思っているのだが・・・。)だから指導者はそのときその時の事象を的確に捉え、その原因を探ると同時に、何人の選手がそのプレーに関わりどう関与してどうミスが起こったかをその選手の心境を加味しながら分析できなければならない。故に、時には激怒したり、時にはミスを許したり・・・。許せるミスというものを作ってあげなければならない。しかし、それは何度も言うが当事者の熱意、やる気、ファイト、考え、人情、誠意がそうさせるのである。

よく指導者は「最後は精神力だ」とか「根性だ」とか言う。決して間違えではないが、もしそれを選手に望むなら、それは常日頃から自分の心を表すトレーニングや、精神力を引っ張り出したり、根性をいざというときに引っ張り出すトレーニングをしていなければならない。アー言えばコー言う子供を見ると「生意気だ」とけむたがり非難する。大人(指導者)は自分のモノサシ、秤の中に入れ測定をはじめ、測定しきれないとその子を批判する。実はアー言うてコー言う子供は自分を表現しているわけである。少し方法が間違っているだけなのかもしれないが・・・。それなら自己表現の方法を教えてやればいいだけなのだ。でなければ自己表現、自己アピールがいつまで経っても下手なままである。誠意、やる気、熱意を伝えられる選手を作るには大人が子供達に思いを伝えることが出来る環境を作ってやることが必要なのである。

しかし、これとてある年齢になった選手(子供)こそできることだろうし、何よりそういったことを指導、誘導、コントロール、導いてやれる“分別のつく常識のある大人”がいてこそなのだが・・・。

 皆さんはどう思われますか?