背番号10の不思議

サッカーの背番号について面白い話をしよう。
10番がなぜトップ下のエースナンバーになったのか?サッカーのシステムとの関係は・・・?

背番号10はエースナンバー

サッカーの世界でエースは背番号10番とよく言われる。マンチェスターユナイテッドのようにチームのエースは7番と独自の路線を暗黙のうちに作り上げ、球団もファンも選手自身も認めている例も極めてまれではあるが時折見受けられる。オランダ・アヤックスの14番もそうであるように・・・。

背番号10は本来センターフォワードの番号であった。ゆえに点をよくとる選手が多く、自然とエースナンバーとなっていったようである。では、なぜセンターフォワードが10番なのか?そしてなぜ現在ではトップ下のオフェンシブハーフが10番となり、エースナンバーになったのか?

なにやらシステムと関係があるのではないだろうか?

システムの変遷史

1850年ごろのFAカップの歴史を紐解くと、2-8システム(図1)と言うのが主流でまだまだラグビーの色が濃い時代であった。1866年にルール改正が行われ3人制オフサイドの採用とボールより前に出ても良いと言うルールが採用されると飛躍的に得点場面が増え、ゴールラッシュの時代になった。それに対抗するために1874年以降は1-2-7システム(図2)が流行した。1870年代の初めにはスコットランドで2-2-6システム(図3)が考案され、言うなればドリブルのサッカーからパスのサッカーへと変貌していった時代であると言える。

一方でライバルのイングランドでは2-3-5(ピラミッドシステム)システム(図4)が考案され、ケンブリッジ大学などで使用されていた。これは中盤のセンターハーフがロービング・センターハーフと呼ばれ、広く動くポジションとなりチームの花形としても活躍するようになったところに興味深いものがある。結果、半世紀以上このシステムは使用されることになった。このころのイングランドは大英帝国の全盛とも言われ、もはやシステムも完成の域かと思われていた。しかしながらこの頃、オフサイドルールを逆に利用したオフサイドトラップが流行した。3人のうち1人が上がればオフサイドが成立した時代である。失敗しても残りの二人がカバーに入ればよいのである。ある意味オフサイドとラップと言う戦術が発明されるのは当然の流れだったかもしれない。

1925年にはメディアやファンの要望でオフサイドルールが変更になった。2人制オフサイドの登場である。これによって再度、得点ラッシュの時代へと入って行ったのである。アーセナルのハーバード・チャップマンがWMシステム(図5)を考案し、攻撃的なサッカーを展開した。ここから1950年代までWMシステムとアーセナルの全盛期が続くことになった。

このWMに対抗してスイスではカール・ラッパンがヴェロウシステム(図6)を、イタリア代表は2-3-5から発展した2-3-2-3システムを、ハンガリーは後のブラジルの4-2-4システムにつながっていったと言われるシステムでイングランドを二度に渡り撃破したという。各国で様々なシステムが考案されていったこの時期、中でも1954年スイスワールドカップでWMをベースにした3-2-3-2システム(MMシステム)と呼ばれるシステムを考案したハンガリーは、当時無敵を誇り「マジックマジャール」と言われ、世界を震撼させた。

1958年スウェーデンワールドカップでブラジルが見せた4-2-4システム(図7)は2-3-5を発展させたものだと言われ、今でこそ当たり前だと思われるサッカーの醍醐味である”即興性“を産むものであった。この4-2-4システムはパラグアイ人のフレイタス・ソリチが発明したものだといわれ、このシステムの登場により中盤の役割が明確になって言ったといわれている。このシステムはもう一つ、ゾーンディフェンスの概念を産む事にもなった。それまでは守備と言えばマンマークの概念しかなく、ゾーンなどと言う発想は全く無かった。2バックの横に2人のハーフバックを下げて配置し、自分のエリアを守ることをフルミネンセが実践し成功を収めたのであった。1962年のチリで行われたワールドカップでは大半のチームが4-2-4システムを採用していた。しかし他の国より先んじて4-2-4を採用していたブラジルはこの大会で左ウィングのザガロが中盤の選手のように下がってプレーをしたために、4-3-3システム(図8)のような形をとっていた。

4-3-3システムと言えば1974年、西ドイツで行われたワールドカップで見せた西ドイツとオランダのサッカーが何よりも特徴を物語っている。リベロと言う当時においては斬新なポジションを確立したベッケンバウワー率いる西ドイツとクライフを中心とした現代サッカーに極めて近い、ポジションチェンジをめまぐるしく行う、言うなればポジションが決まってないかのようなサッカーを展開したオランダが基本的には同じ4-3-3を採用していたのが興味深い。オランダはパスワークに秀でた戦術を持ち、守備ではディフェンスラインを高く保ち、ボールを複数で奪いにいく戦術を展開した。いまでこそ当たり前のようになっているが、運動量、安定したコンディション、高度な技術、判断力が要求される大変難しい戦術であった。しかし、結果オランダは優勝できなかったのである。それはなぜか?速攻に弱いシステムの4-3-3であったからである。そういう意味ではリベロと言うポジションの選手(ベッケンバウワー)を配置し、ピンチを防いでいったことそのものが「リベロを確立した」と言う評価を呼び込んでいるのである。

オランダのプレッシングサッカーにより徐々に前方にスペースが無くなり、悠長にボールを保持し、時間をかけて攻めていくことが出来なくなっていった時代を反映して、フランスやブラジルが4-4-2システム(図9)を考案していった。これは前にスペースを作ることにより、中盤よからスペースに走りこんでいってチャンスを作ることを狙ったものであった。が、今度は2人しかいない相手FWに対して4人もディフェンダーを配置し戦うことが非効率的になり、マークを持たないDFが一人中盤に上がっていった。こうして今度は3-5-2システム(図10)が誕生していったのである。

トップ下10番誕生の時代背景

さて、大まかな戦術に見るシステムの変遷はお分かりただいたと思うが、要はなぜ10番がエースなのか?である

先にも述べたが、大前提は得点を良く決めるエースであったことである。1850年ころのルールの統一もまだ行われていない時代やFIFA の設立(1904年)のころはまだ現在のようなメディアも発達しておらず、限られた地域で、そのご当地スターはいたにせよ、世界的スターの出現はもっと時代を待たなければならなかった。1958年スウェーデンワールドカップの時のペレでさえ背番号17番であり若干17歳であった。まだまだ神様になっていないころである。

1974年にアベランジェ氏(ブラジル)がFIFA会長になって初めてマーケティングに力を入れだしたFIFAはそれまでは伝統と格式のイングランド出身の元教師であったスタンリー・ラウスから全く違う路線を歩みだしたのである。オフィシャルスポンサーをつけTV放映権を売却することでメディアにサッカーを載せ、全世界に普及させると同時に潤沢な資金をFIFA内に残していったのである。これが1974年西ドイツワールドカップのころ、アベランジェ氏が会長に就任してからの話である。

ポジション移動の事実

システムの変遷史をもう一度見てほしい。1974年は4-3-3システムから4-4-2システムへの変換期である。そして当時から背番号は野球のポジションのごとく、ディフェンダーからフォワードにかけて、そして左サイドより背番号をつけるのが習慣であった。つまり4-3-3-に当てはめると下記になる。それが4-4-2システムになると右側のように変わっていているのである。

となる。先にも述べたようにFWを2人に減らす時代のときに下がって行ったのが技術的にも秀でたエース、すなわち10番の選手であった。

こうして時代と共に変わって行ったシステムに対して背番号というものは大きな関係を持って今日に至っている。今でもなんとなく名残がある番号は多い。たとえば2、3はストッパー、ディフェンダーが多い。6はディフェンシブハーフが多く、7はサイドの選手が多い。11はフォワード、しかもスピードのあるタイプで昔で言うウィングタイプの選手が多い。これは今でもそうである。

少年サッカーではWMシステムがサッカーを学ぶには良い、と言われているがなぜだかわかりますか?

では次回はWMシステムの話しをしよう。