サッカーは人生そのもの〜加藤寛

JFA news 2023年9月号(No.473)に掲載された加藤 寛氏(一般財団法人日本クラブユースサッカー連盟 顧問)へのインタビュー記事の転載です。


父親の影響で幼少期からサッカーに触れ、大学時代にアシスタントとして参加したFIFAコーチングスクールでサッカーと共に生きていくことを決意。半世紀以上にわたってサッカーの発展に尽力している加藤寛さんに、これまでの取り組みやサッカーに対する思いなどを聞いた。

(オンライン取材日:2023年8月22日)

人生を決定づけたFIFAコーチングスクール

―― サッカーを始めたきっかけを教えてください。

加藤 大のサッカー好きだった父(※)の影響です。私は岡山県で生まれましたが、3歳のときに父の出身地、兵庫県神戸市に引っ越してきました。兵庫は戦前、兵庫県御影師範学校(神戸大学の前身)と第一神戸中学校(現、神戸高校)が全国高校サッカー選手権大会の覇権を争うようなサッカー王国でしたが、戦後になるとその勢いは陰りを見せました。神戸のサッカーを再び強くしたいという思いから、神戸一(第一神戸)中出身だった父やその友人たち、例えば、賀川浩さんや大谷四郎さん、岩谷俊夫さんらサッカージャーナリストたちが夜な夜なわが家に集まり、議論していました。その後、中学校に上がり、部活動を選択する際、美術部かサッカー部で迷いましたが、「サッカーをやれば海外に行ける」という父の言葉によってサッカーを始めました。後に国際審判員となり、兵庫県サッカー協会の理事長を務められた長岡康規さんが同じ中学の二つ先輩で、憧れの存在でもありました。

※ 日本初の法人格市民スポーツクラブ「神戸フットボールクラブ」の創設者の一人、加藤正信氏

―― 中学校に進学された1963年に「兵庫サッカー友の会」が結成されます。

加藤 神戸一中や御影師範、関西学院大学、関西大学のOBが中心となって兵庫のサッカーの発展のために結成し、1000人以上の人たちが集まりました。65年に事業の一環として「神戸少年サッカースクール」ができ、毎日新聞社にお勤めだった、元サッカー日本代表の岩谷さんが指導部長に就任しました。当時、私は中学3年生で、岩谷さんの指導に興味を持つようになり、高校時代は部活動でプレーする傍ら、サッカースクールのお手伝いをしていました。サッカースクールには大阪体育大学の井田國敬先生も指導者として参加されており、その縁もあって私は大阪体育大学に進学しました。

―― 大学在学中に第1回FIFAコーチングスクールでデットマール・クラマー氏のアシスタントを務められたそうですね。

加藤 FIFAのコーチングスクールは、私が1年生だった69年の7月15日から3カ月間、千葉県の東京大学検見川総合運動場で行われました。父の勧めで参加し、クラマーさんの身の回りのサポートをしたり、実技の記録を付けたりしました。このコーチングスクールには日本を含めアジア各国から46人が集まり、3カ月間サッカー漬けの毎日を送りました。主にクラマーさんと平木隆三さんが担当された実技のほか、教育学、医学、運動生理学など各分野の国内の権威を招き、講義が行われました。大学4年分にも匹敵するような濃密な時間で、このときに将来、サッカーで生活していこうと決めました。

―― クラマーさんの指導で印象に残っていることはありますか。

加藤 まず、クラマーさんの指導で一番印象に残っているのは、「指導者自身が何事も模範を示さないといけない」ということです。コーチングスクールの最終日には、スクールのエンブレムと色紙をいただきました。色紙にはドイツ語で「あなたのなすこと以外に良いことはない(自信をもってやりなさい)」と書かれていて、サッカー界の偉人がこんなにも丁寧な対応をしてくれるのかと、驚きと喜びを感じました。一方で、大失敗をして大目玉を食らったこともあります。毎週土曜日にフィルムショーといって16ミリフィルムの映像を見る時間があったのですが、私は映し出す順番を間違えてしまいました。クラマーさんは烈火のごとく怒り、いつもは英語で話されていましたが、このときはドイツ語でまくし立てられました。怖かったですし、落ち込みましたが、後々振り返ると、学生とはいえ「仕事に真剣に向き合え!」と叱ってくれたのだと分かり、今では感謝しています。

震災で身に染みた自治、助け合いの重要性

―― 大学卒業後の73年、技術職員として神戸フットボールクラブに加入され、その後さまざまな立場で23年間、同クラブでサッカーに取り組んでこられました。

加藤 私は大学で西ドイツのスポーツ政策を学びました。当時はまだ、日本ではクラブというものが珍しい存在でしたが、ゆくゆくは神戸FCをドイツにあるような市民のためのクラブにしたいと考えていました。当時の日本サッカー協会(JFA)の登録制度は、学校や社会人などいわゆる社会的身分に基づくもので、クラブチームでは登録することができませんでした。

74年、JFAは財団法人化する際に登録制度をこれまでの身分別から年齢別に変更しましたが、それでもまだクラブチームは、登録はできても競技会に参加するのが難しい状況でした。そこで、大谷さんを中心に枚方FC、読売サッカークラブ、三菱養和会と協力して、現在の日本クラブユースサッカー連盟の前身となる「全国クラブユースサッカー連合」を立ち上げました。その後は全国の皆さんと手を携えながら徐々に規模を拡大し、U -15、U -18のクラブが各地に設立されるようになりました。

――95年からヴィッセル神戸に出向されますが、同時期に阪神淡路大震災が起こりました。

加藤 93年12月に「神戸にプロサッカーチームをつくる市民の会」が神戸の医師会を中心に発足し、プロ化に向けた活動が本格的に始まりました。翌年には、川崎製鉄サッカー部をベースに、育成年代は、神戸FCのジュニアユースとユースを移管させ、ヴィッセル神戸がスタートすることが決まりました。神戸FCからは、私ともう一人のスタッフがヴィッセル神戸に出向することになりました。同時に私はJFA公認S級コーチ資格を取得することになり、95年1月16日の夜、神戸FCの事務所でS級前期のレポートをまとめ、翌朝に帰宅したところで被災しました。

摩耶山麓の自宅から南側を見ると、神戸の街は火の海で、家族と神戸高校の体育館に避難したのですが、避難所は救援物資や食料の奪い合いが起こるなど、少し心配な状態でした。そこで、S級の座学で学んだマネジメント法を生かし、避難者で自治組織をつくって運営していくことにしました。座学がすぐに役立ちましたね。1月から8月まで約半年間、体育館で生活し、最後はきれいに掃除をして神戸高校へお返しすることができました。神戸高校の校訓が「自重自治」なのですが、この避難所に神戸高校自治会のOB、OGがボランティアで協力してくれて、自治、そして助け合いの大切さが身に染みて分かりました。

―― ヴィッセル神戸では育成や普及に尽力されたほか、トップチームの監督を務めるなど多岐にわたって活動されました。

加藤 まず私が考えたのは、ヴィッセル神戸を兵庫の皆さんに応援してもらえるクラブにしたいということ。そして、良い選手を育て、トップチームや日本代表に送り出すこと。本来、このような取り組みはサッカー協会(FA)が行うものですし、クラブの利益につながるわけではありませんが、安達貞至社長(当時)は私の行動を見守ってくれ、相談にも乗ってくれました。また、スクール開催地のサッカー関係者のほか、小学校の校長先生らの協力もあり、次々と県下にヴィッセル神戸のスクールを立ち上げることができました。さらに、都市協会のトレセン活動と県のトレセン制度を連携させ、県下のU -12からU -17のトレセンを整備することができました。

最も苦労したのはFAの技術予算の管理ですね。作業が深夜にまで及び、自宅で仮眠してから再び事務所に戻るということも多々ありましたが、おかげさまで県下の都市協会の多くの人たちができたばかりのヴィッセル神戸に関心を持ち、優秀な選手をヴィッセル神戸U -15のセレクションへ派遣してくれるようになりました。実に充実した楽しい時間でした。

―― 2009年から神戸親和女子大学(現、神戸親和大学)の教授と同サッカー部の監督に就任されました。その経緯を教えてください。

加藤 当時、神戸親和女子大がヴィッセル神戸のスポンサーだった関係で学長と話す機会があり、新設される発達教育学部ジュニアスポーツ教育学科の教授と、同じく新設されるサッカー部の監督就任のオファーをいただきました。

私はそのとき58歳、ヴィッセル神戸での仕事もそろそろ後進に任せようと思っていた時期でしたし、神戸FCやヴィッセル神戸、クラブユース連盟で学んだことを若い人たちに伝えるのも良いことだと考えました。また、女子サッカーの普及という観点から、選手への指導と同時に女子指導者の養成に取り組もうと考え、この二つのオファーをありがたくお受けすることにしました。

―― 大学での新たな挑戦を振り返っていただけますか。

加藤 私の人生にとって有意義な経験になりました。新設の女子サッカー部ですので、選手を集める、練習環境を整えるというところから始め、練習ではボールを蹴る、止める、運ぶという基礎の基礎から指導していきました。チームづくりは楽しかったですし、選手たちの取り組む姿勢も素晴らしかった。選手はみんな、卒業までにC級コーチと4級審判員の資格を取得しました。現在、県内外の女子トレセンや学校で教員として指導している卒業生たちが多くいて、うれしく思います。苦労したのは授業の準備で、周囲の先生方によく助けてもらいました。

兵庫を再びサッカー王国にそれが活動の原点

―― 日本クラブユースサッカー連盟にも長く携わられ、同連盟や関西クラブユースサッカー連盟の会長を務めてこられました。現在の育成年代への取り組みについてどのようにご覧になっていますか。

加藤 私は、プレーヤーとは選ばれた人ではなく„遊ぶ人"だと考えます。すなわち子どもたちには技術や戦術の習得はもちろんですが、それ以上に、「自主自律」や「自治の精神」を教えることが重要だと思っています。遊ぶ人が主体性を持ってサッカーができるように導いていく。私はドイツに2回研修に行きましたが、ドイツでは指導者が子どもたちの課題に気付いていてもあまり指摘しません。どうしても必要なときに伝える程度です。ですから、子どもたちは萎縮することなく伸び伸びと楽しんでスポーツに打ち込むことができます。そういう真のプレーヤーズファーストの指導が必要だと考えます。私の今の悩みは、育成年代の選手登録数が減ってきていることです。子どもたちが楽しい、もっとやってみたいと思えるようなプレーヤーズファーストの環境をつくっていくことが何より大切なのではないでしょうか。

―― 兵庫県サッカー協会常務理事や神戸市サッカー協会副会長も務められてきました。一貫して兵庫県で活動してこられたその思いをお聞かせください。

加藤 原点は、やはり父とその友人たちが懸命に取り組んできたように、兵庫を戦前のようなサッカー王国にしたいという思いです。江戸時代から明治時代に変わった1868年、神戸港が開港し、外国人が入ってくると、70年に「神戸レガッタ&アスレチッククラブ(KR&AC)」が設立され、サッカーチームができました。そのKR&ACは御影師範などとも対戦しています。御影師範で育った先生が、父が通った小学校の校庭でサッカーを教えていて、そこで父や賀川太郎・浩兄弟らがボールを蹴っていた。私にはそういった背景があり、ルーツがある。それは決して変えられないものです。もちろん、シンプルに神戸の街が好きだということもあります。

―― 現在は阪神ユナイテッドレディースの総監督として指導にあたっていらっしゃいます。今後の夢や目標を教えていただけますでしょうか。

加藤 市民が運営権を持つクラブがたくさん生まれ、行政も地元の企業も皆がその活動を応援し、市民の健康づくりや仲間づくりが進んでいく。そういう活気や輪が神戸の街や日本全国に広がっていってほしいですね。ヴィッセル神戸ができて30年近くたち、スタジアムは観客でいっぱいになりました。今後はそれがスタジアムの外に向かっていってほしい。阪神ユナイテッドでは今、プレーしている選手たちが年を重ねてもいつまでもサッカーをやめずに続けられる環境をつくっていきたいと思っています。

―― あらためてご自身にとってサッカーとは。

加藤 サッカーしかやってきませんでしたから、やはり人生そのものです。世界中の人たちに言いたいのは、人々がサッカーを嫌いになるようなことは絶対にしないでほしいということ。そして、サッカーでみんながつながり、サッカーファミリーが増えてほしい。Jリーグ百年構想の「スポーツで、もっと、幸せな国へ。」というのは、つくづく良い言葉ですね。私もそれを応援していきたいと思います。

<プロフィール>

加藤 寛(かとう ひろし)

1951年1月29日生まれ、岡山県出身。

大学在学中に第1回FIFAコーチングスクールでデットマール・クラマー氏のアシスタントを務め、卒業後の1973年に技術職員として神戸フットボールクラブに加入。77~98年にはJFAナショナルトレセンコーチとしても活動。95~2009年はヴィッセル神戸で育成や普及に尽力、同時に兵庫県サッカー協会指導者養成部長を務める。1997年、2004年にはヴィッセル神戸の監督も務めた。09~16年、神戸親和女子大学教授、同サッカー部監督として学生の指導にあたる。その間、兵庫県サッカー協会常務理事や日本クラブユースサッカー連盟会長などを歴任。18年、NPO法人阪神ユナイテッドレディースの理事長・監督に就任し、現在は総監督。このほか、日本クラブユースサッカー連盟顧問、神戸市サッカー協会社員、株式会社スポーツシューレこうべ代表取締役を務めている(22年春に全ての公職から退任)。

出典:JFA news 2023年9月号(No.473)

神戸のサッカーとわたし〜一北保五郎

「河本春男会長の思い出」

昭和54年(1979年)に神戸市サッカー協会の会長になられたユーハイム社長の故河本春男(かわもと はるお)氏(1910年生~2004年没)の思い出です。

天皇杯準決勝でのお姿

今は、全国各地にサッカースタジアムが整えられて天皇杯準決勝もいろんな場所で行われるようになりましたが、昭和50年代の天皇杯準決勝は、12月30日に東京の国立競技場と神戸中央球技場で試合が行われるのが恒例となっていました。

神戸中央球技場での開催時は、JFA・HFAから運営を委託された神戸市サッカー協会が加盟チームからの有志を募って運営を行っておりました。当時は、JFAも含めすべてがアマチュアのボランティア活動でしたから、神戸市協会でも交通費の一部補助程度の事しか協会としてはできませんでした。そのような中、河本会長は、リングケーキの真ん中にビスケットで作ったサッカーボールを乗せたユーハイムの「フランクフルタークランツ」を作らせて、試合が終わって解散の際に、運営スタッフの一人ひとりにお声をかけながら手渡しをされておいででした。

少年チームのお母さんへのお話について

少年委員会からの要請だったと思います。ある時、三木記念神戸市立スポーツ会館内の協会会議室で少年チームのお母さん方に神戸高校の教員時代の話をされたことがありました。

講話に参加された皆さんに一番印象に残ったお話を尋ねると、当時の神戸高校サッカー部の練習は相当厳しく、部員は家に帰れば疲れきっていて殆どバタンキュウの状態のように聞いていたのにサッカー部員の成績はみんな相当良かったこと。特にキャプテンは東大・京大に現役合格が当たり前の状態が続いていたことについて質問をしたら。河本会長は、「サッカー部員の勉強方法の基本は『授業中に集中して聞くこと』が大切で、これがサッカーにも通じているんだ。」と部員に話されていたとの由。

会長の講話はいつも最後に「常に一歩先んじ、一刻速く」との言葉を贈られていました。

ボランティア活動の基本について

河本会長は「協会の運営に携われるボランティアの皆さんが活動される場合は、最低でも交通費・食事代相当額を予算計上し、金銭的な負担をかけないことが基本です。このことが末永く活動できる源です。」と事あるごとにお考えを話されていました。

皆さんが参加されているリーグや大会の運営は、現在もこの言葉を受け継いで、この基本方針で立案し、活動しています。

理事会での姿勢

理事会では、経営者と教育者との両方の顔で各理事の思いのたけの意見を出させて、活発な議論をさせました。そして両方の意見を取り入れて、まとめた結論を出される際には、強い声でなく、気持ちのこもった口調で話しをされていました。

 

一般社団法人神戸市サッカー協会 副会長
一北 保五郎(いちきた やすごろう)

神戸のサッカーとわたし〜顕木新一

昭和45年(1970年)5月頃のことですから、今から50年以上前の話です。
1970年、社会人1年目の頃に高校サッカー部のOBクラブに参加し、神戸市社会人3部リーグにデビューしました。
当時、社会人リーグの運営を担当されていた布引中学校の一北先生、神戸市役所の秋月さんに勧められるままに社会人3部リーグの運営役員となって、3部の30チームの対戦試合の組み合わせ、審判の割り当て、当番チームへの記録用紙の配布、リーグ運営費の管理の仕事をしました。

その頃の社会人サッカーは、関西社会人リーグに三菱重工神戸と兵庫教員蹴球団が、県社会人リーグには神戸FCが属していました。神戸市社会人リーグには、兵庫県庁、神戸市役所、神戸税関などの官公庁チーム、川崎重工業、川鉄建材、国鉄鷹取などの企業チーム、上ヶ原クラブ、六甲ヒルケル、グリーネエルフ(灘高OB)などの学校サッカー部のOBチームが加盟していました。
役員になって3~4年たった頃に審判員に興味を持ち始め、医師の菊田先生や神戸大学の五島先生らのご指導により3級から2級審判員へとつながっていきました。
神戸ウイングスタジアムの前身の神戸市御崎公園球技場は、サッカー専用球技場で日本でも数少ない天然芝のグラウンド仕様で多くの国際試合が行われ、1979年のワールドユース大会(18才以下)ではパラグアイ代表のロメロ(後に北米リーグ・ニューヨークコスモスでベッケンバウアーらとプレーした)や、他にもポルトガル代表のオイセビオ(当時の表記名。現在はエウゼビオ)がここでプレーしたことを思い出します。
球技場は自宅から近いこともあって水曜リーグのヤンマーディーゼル対大阪商業大学の主審をしたこともありました。いい思い出のひとつです。

現在は、(一社)神戸市サッカー協会の社員として関わらせていただいています。これからも神戸市のサッカーの発展に少しでもお役に立てればと思っています。

一般社団法人神戸市サッカー協会 社員
顕木 新一(あらき しんいち)

神戸のサッカーとわたし〜本多克己

私が通っていた東灘小学校では、畠山監督のもとサッカーが盛んで、監督のげんこつでのご指導をとおしてサッカーを知りました。

中高では、佃先生、市川先生に指導いただき、サッカーに打ち込みました。いまはなきポーアイの芝生グラウンドでの市民大会、磯上での総体、御崎での新人戦と何度か神戸市の頂点を経験することができたのは、今になっても自分にとっての最高の誇りです。

当時はサッカー協会というものは、機関紙「神戸のサッカー」をつくっているところ、というような意識だったように思いますが、中学のときには、ラインズマンの資格を取って、気の進まない審判を担当することになり、はじめて運営側の立場に立つことになりました。

高校のときにはちょうど市のU-18リーグがはじまりました。1979年のワールドユースでは、ロメロ率いるパラグアイに熱狂しました。

卒業後は、六甲ヒルケル、ヒルケルシニアで協会のお世話になりました。広報委員として、協会のホームページの立ち上げなどにもかかわらせていただきました。賀川浩さんと出会って、「この人の言葉を残していかなければ」と考えて賀川サッカーライブラリーの開設などに取り組むなかで、「神戸のサッカー」を発信できることを誇らしく再確認してきました。かけがえのない歴史を歩んできた神戸のサッカーが、これからも市民、関係者の誇りであるように微力ながらもお手伝いできればと思います。

本多克己(株式会社シックス 代表取締役社長)

神戸のサッカーとわたし〜賀川浩

神戸市サッカー協会50周年おめでとうございます。

協会の事務所のある三木記念神戸市立スポーツ会館は、副会長などを歴任された加藤寛さんのお父さんである、故加藤正信ドクターのご尽力で建設されたもの。神戸FCのクラブハウスを磯上グラウンドに設置できないかと考え、三共生興を一代で築いた三木瀧三氏(故人、当時三木記念会理事長)に寄付を願って快諾を得たのだが、さて、実際に神戸市の土地(磯上グラウンドは市の所有)の上に建物を建てて、神戸FCという私的クラブが管理することはできないということになった。そこで、加藤ドクターは公的機関(たとえ法人でなくても)のサッカー協会であればいいのではないかと市と交渉し、「三木記念神戸市立スポーツ会館」の維持運営は神戸市サッカー協会があたることになりました。

私も97歳となりましたが、こうして今もサッカーの話をできることはうれしいことです。協会の規模も大きくなり、苦労も多いことと思いますが、何よりやり続けていくことが大切です。皆さまのさらなるご活躍を楽しみにしています。

賀川浩(スポーツライター)

月刊「神戸のサッカー」関連記事抜粋(昭和53年11月号、昭和54年7月号、昭和54年10月号)

なでしこJAPAN予備軍、園山萌子選手に注目!

ドイツ女子ワールドカップで世界一に輝いたなでしこジャパン。
日本中はなでしこフィーバーで盛り上がっています。
そんな中、神戸の女子サッカーチームでなでしこ予備軍の選手を見つけました!
今回はこの選手にクローズアップしたいと思います。

INAC 神戸レオネッサ U-18所属 No.9 園山萌子選手です!

7月31日に開催されたなでしこリーグ、INAC神戸レオネッサ vs 岡山湯郷Belle の試合開始に先立ち行われた、関西女子サッカーリーグの試合後に 園山選手にインタビューを行いました。


アップ中の園山選手

●まずは本日の勝利おめでとうございます。

ありがとうございます!

●5得点と大爆発でしたね。

え?5点?そんなに入れましたっけ?(笑)

●今日のポジションはセンターフォワードといった辺りでしたがチームではいつもあぁいった攻撃的なポジションですか?

そうですね。だいたい前目のポジションでプレーする事が多いです。

●ちなみにこれまでのサッカー歴はどれぐらいですか?

小学校1年生の途中ぐらいから始めたので、もう10年以上になります。

●小学生から始められたとのことですが、サッカーというスポーツを始めるにあたって何かキッカケというものはありましたか?

友だちに誘われて、なんとなく始めました。

●お父さんが凄くサッカーが好きだったというわけではないんですか?

いえ!全然!(笑)

●現在、INAC神戸レオネッサU-18に所属されていますがこのチームを選んだ理由を教えて下さい。

元々サッカーを始めたのが、レオネッサの下部組織でした。
中学、高校と進む中で、このチームに自然と入っていました。

●小学生から高校生になるこれまでサッカーを続けてこられて辞めたくなったようなことはありませんでしたか?

いえ!まったく!考えたことないです!(即答)

●おぉー、サッカー大好きなんですねー!


ダイビングヘッドでゴールを決める園山選手

●サッカー以外のスポーツにチャレンジしようとしたことはありませんか?

他の色々なスポーツも勿論好きなんでやりますけど、サッカーだけはそのスポーツの中でも特別な存在ですね。

●今年から日本代表選手がトップチームに加入しましたがご自分がサッカーする上で刺激になっていますか?

そうですね、世界で通じるような高いレベルのプレーが間近で見れるのは、とても勉強になります。
やっぱり澤選手のプレーは別格で、雲の上のような存在です。

●その澤選手と実際にお話ししたことはありますか?

イヤ全然!挨拶ぐらいしかしたことないです!
でも、いずれお話はしてみたいです。

●現在、サッカーをする上で目標にされている選手は誰ですか?

自分のプレーとしては、トップチームの髙瀬選手をイメージしてます。
体を張った献身的なプレーを見習っていきたいと思います。

●そんなサッカーが大好きな園田さんはこれからまだまだサッカーを続けられるかと思いますが
将来の目標などありますか?

まずトップチームに上がって、なでしこリーグで活躍できるような選手になりたいです。

●ありがとうございました、これからの活躍に期待しています!

ありがとうございました!

試合後でお疲れの中、元気にインタビューに応えて頂きました。
なでしこリーグに注目が集まっていますが、関西女子リーグも熱いです!
今後の園山選手の活躍にご注目ください!

<写真・文 海老 純>

L2優勝!INACレオネッサ、来期はL1で

L2リーグに参戦して1年でL1に昇格した「INACレオネッサ」。今回は、その原動力を監督、選手に聞いてみました。「INACレオネッサ」にクローズアップ!!


【まずは田渕監督に】

●少しおくれましたが、L2リーグ優勝おめでとうございます。

ファンの皆様の温かい応援が力になり優勝することができました。また、ホームゲームではサッカー協会をはじめ、多くのサッカー関係者のご協力のもと運営することができましたこと、深く感謝いたしております。
ありがとうございました。

●L2に参戦して初年度にしてL1に昇格ですが、勝因は何でしょうか?

常に上を目指し、現状に満足せず努力し続けたことと、常に楽しみながら、サッカーができたことです。

●ゴールランキングも上位3名がすべてINACレオネッサの選手ですが、ゴンサルベスの加入が大きいですか?

それもありますが、個々の努力の成果もあると思います。

●練習会場など苦労されたと思いますが、神戸のサッカー環境はどうですか?

良いとはいえないし、悪いともいえないと思います。全国でトップクラスの地域と比較すれば、まだまだ改善するところは多くあると思います。協会、行政、チーム(クラブ)で協力して改善する必要があると思います。

●移動で全国をまわれらてますが、選手も大変苦労されていると思います、その当たりは?

スタート当初は、バスでの移動でしたが、スポンサーからのご好意で飛行機での移動になり、負担が減りました。そのことも今回の結果に大きく影響していると思います。

●来年TASAKIペルーレと同じL1に参戦となりますが、どう戦っていきますか?

ペルーレさんは、代表選手も多くおられますし、歴史も長く、あらゆる面で日本のトップクラスですから、全力で挑戦していきたいと思います。

●神戸にL1チームが二つになり、神戸の少女の目標ができました。今後も随時取り上げて行きますのでご協力お願いします。

神戸のサッカー界の発展に繋がるよう、邁進してまいりますので、今後共どうぞ宜しくお願いいたします。ありがとうございました。

【小林未央選手(キャプテン)】

●優勝おめでとうございます。

ありがとうございます。多くの方からこの言葉をかけていただき、その度に携わっていただいた方に感謝の思いでいっぱいになります。

●初めてのL2リーグはどうでしたか?

初めてのことばかりだったので、苦労も多々ありましたが、試合ごとに課題を検証し、それを修正できるように必死で取り組みました。チャレンジャー精神で戦い続けたことが良い結果に繋がったと思います。

●高校生から外国選手までをまとめるの秘訣はなんですか?

私の力だけでなく、チームメイトやスタッフの方々のサポートで随分助けられました。特に副キャプテンとは、お互い得意な分野が違うため、それぞれの良さを生かしてチームをまとめれたことが良かったと思います。

●一番元気な選手は誰ですか?

柳井選手です。
やはり現役高校生の若さは、いつも元気いっぱいです。

●監督に何かあれば一言

いつも個性あふれるレオネッサメンバーを取りまとめて、自分たちの能力を引き出してくれてありがとうございます。これからも宜しくお願いします。
日本一そして世界一のチームへという夢を実現しましょう。

●今後、選手権もあります頑張ってください。ありがとうございました。

ありがとうございます。これからも進化を続け、観ている方も楽しめるサッカーを目指していきます。
是非、会場まで足を運んで下さい。宜しくお願い致します。

【ゴンサルベス選手】

●優勝に得点王おめでとうございます。(10/30インタビュー)

INACのゲームは終了しましたが、リーグはあと1節残っていますので、まだ確定ではありませんが、こういう結果を残せたことはうれしいです。ありがとうございます。

●神戸の印象はどうですか?(サッカーや風習、食べ物など)

神戸はとても素敵な町だと思います。そして、INACレオネッサについても良い選手にも組織的にも恵まれていますし、良いチームだと思います。食べ物については食べられるものと食べられないものに分かれますが、特に問題はありません。

●世界を経験して、日本のサッカーに足りない物は何だと思いますか?

私の意見としては、日本の女子サッカーは凄く成長していると思います。

●いつ頃からサッカーを始めましたか?

幼い頃は、友達と路地などで遊び感覚でサッカーをしていました。
その後、14歳からは女子のチームで始めました。

●ブラジルの女子サッカー人口は多いですか?

はい。女子サッカー人口は多いですし、優秀な選手も多いです。

●ブラジルにプロサッカーチームはありますか?

まだありません。女子サッカーチームはアマチュアですが、多くのチームは組織がしっかりしているのでプロチームのような働きはしています。

●一度すばらしいプレーを神戸の少女にサッカーを見せてください。

ありがとうございました。
試合会場でお会いしましょう。ありがとうございました。

【井野美聡選手】

●優勝おめでとうございます。

ありがとうございます。皆様の応援があってこその優勝だと思います。

●出身チームはどこですか?(小学生、中学生、高校生、大学生)

小学校は北五葉SC
中学生はメニーナ神戸FC
高校は啓明女学院(今は啓明学園、高2のときに全国優勝しました!)
大学は武庫川女子大学です。

●小学生、中学生時代に目標はありましたか?

んー、その時は漠然としていました。でも、とにかくボールを蹴ることが好きでした。

●働きながらL2に参戦ですがどんな印象ですか?

初めは、サッカーと仕事の両立に不安を感じていましたが、今はどちらも楽しんでやっています。
何事もそうだと思いますが、楽しむって大事だと思います。

●平日は練習、土日には遠征があると思いますが、仕事はどうされているのですか?

仕事は、火~金曜日あります。
朝から働き、夕方から練習なので、ギリギリ働ける時間まで働いています。月曜日はお休みもらっています。

●今の少女年代、中学年代の選手に何かアドバイスをお願いします。

  • サッカーを楽しむ
  • 時間があるときにひたすら練習
  • うまい人のプレーを見てぬすむ

なかなか、うまくならなかったり、試合に負けたり辛いこといっぱいありますが、それが次に繋がるということを信じて、毎日毎日ボールを蹴ってサッカーをもっと好きになって欲しいです。

●今後も頑張ってください。ありがとうございました。

ありがとうございました。これからも頑張りますので、応援宜しくお願いします。また試合会場へ足を運んでください。


監督、選手に聞いてみると「サッカーを楽しむ」これがキーワードみたいです。目標に向かって選手、監督がまとまり盛り上がる、そして結果出る。元気印!まだまだ目を離されないレオネッサ、選手権そして来季にますますの期待をしましょう。

全国大会はお任せ!

今秋、開催される日本サッカー協会主催の第1種・シニア種の全ての全国大会で(※参照)監督・総監督・選手としてエントリーされる超人選手・指導者がいます。JSL(日本サッカーリーグ)三菱重工で活躍した松永正利氏(53歳・C級コーチ・三菱重工勤務)です。

今回はその「松永 正利」さんをクローズアップします。

選手としてJSLに14年間登録され、158試合出場・総得点19点・総アシスト7得点の実績を残し、GK以外の全てのポジションを熟した元日本代表選手です。

松永氏は、関西社会人リーグ所属の神戸FC1970シニアAの監督として、また、神戸FCシニアD(神戸FCシニア40(神戸市社会人リーグ1部所属)神戸FCシニア40(神戸市シニアリーグ所属)の選手として大活躍中である。県サッカー協会2006年国体委員・県サッカー協会技術委員会国体成年総監督の要職にあり、県下サッカー界の強化担当者として多忙な日々を送っている。

松永氏が采配を振る神戸FC1970シニアAは、15度めの挑戦で関西大会を勝ち抜き、全国社会人サッカー選手県大会の出場権を得た。初めての全国大会での松永氏の手腕が期待される。

神戸FC1970シニアAから8名が選出された兵庫県成年チーム総監督として4年ぶり2度めの国民体育大会への出場権を得た。第55回富山国体以来の少年・成年・女子3部門全ての部門で兵庫県代表チームがミニ国体(近畿ブロック大会)を突破した。

選手としては、50歳代ながら、兵庫県マスターズ選抜(40歳代の兵庫県選抜チーム)のゲームメーカーまたはリベロとして守備ラインを統率する。

兵庫県シニア50選抜・スポレク兵庫県のメンバーとしてもミスの少ない正確なプレーでチームの勝利に貢献する。昨年度、惜しくも夢に終わった全国制覇を松永氏を中心としたメンバーで果たして欲しい 。

(文責:KFC 岡 俊彦)

※松永氏が参加する全国大会
①第39回全国社会人サッカー選手権大会:
平成15年10月17日(金)~22日(水) 埼玉県さいたま市
監督

②第58回国民体育大会サッカー競技:
平成15年9月13日(土)~16日(火)  静岡県藤枝市
総監督

③第1回全国シニア50歳大会:
平成15年9月5日(金)~7日(日) 兵庫県五色町
選手

④日本スポーツマスターズ2003:
平成15年9月19日(金)~23日(火)  和歌山県和歌山市
選手

⑤第16回全国スポーツ・レクレーション祭:
平成15年11月1日(土)~4日(火) 香川県高松市
選手

神戸の少女、ナショナルトレセンに参加

2002年12月26日から29日までの4日間、茨城県のJビレッジで「ナショナルトレセンU-12」おこなわれ、神戸からは本庄ガールズの「渡慶次 真子」さんが参加しました。

今回はその「渡慶次 真子」さんをクローズアップします。

今回ナショナルトレセンU-12に参加してどうでしたか

私は、12月26日から12月29日までのナショナルトレセンU-12に参加しました。

U-12のテーマは、『1対1に強くなろう』です。フェイントを使って相手を抜こうとか、身体を上手に使おうとか、周りを観ながらボールコントロールをしようでした。

26日のトレーニングは、地域別でしました。その練習では、スライングやミニーゲームをしました。27日からは、グループ別でやりました。グループは、AからIまであります。そのHグループでした。

今日のテーマは、『1対1で負けない』です。1対1からシュートのところでなかなか相手が抜けなかった。バックをやっていても、相手がうまくてなかなかボールを取れなかったです。

午後のテーマは『身体をうまく使おう』です。1対1からシュートは、相手と体合わせにしてゴールを背にしてやります。その時に気にするのは、相手を観る、プレイエリアを確保する、ゴールへの意識、身体をうまく使う、ボールをうしなわない、を目標にしてやりました。

28日のテーマは、『ファーストタッチ』です。1対1+4サーバーで、いつ何をみるか、ボールを受ける、前の準備、ファーストタッチ、ゴールへの意識を目標でした。

午後は、クアトロゲームでした。コートを6つにわけて、ラインゴールやゴールが4つあったり、たて長だったりしました。

このナショナルトレセンにいってすごく自信がつきました。でも、1対1では負けることが多かった。でも、うまい子のプレーをぬすみ見ました。わたしは、男子の中でサッカーをしたことがなかったのでいい経験になりました。

ナショナルトレセンU-12とは?

日本サッカー協会は若手選手の発掘・育成の一環としてトレーニングセンター制度(通称トレセン)を設けています。トレセンは下部から地区トレセン、都道府県トレセン、地域トレセン、ナショナルトレセンと構成されており、地域のトレセンで選抜された優秀な素材が全国レベルのナショナルトレセンに送られ、各年代の代表選手を育てていくことを理想としています。

ナショナルトレセンは年代別 にU-17(17歳以下)、U-14(14歳以下)、U-12(12歳以下)があり、U-12は毎年12月に行われています。

※このナショナルトレセンU-12の伝達講習会が、2月8日、9日の都市対抗の合間に行われます。

神戸のママさん、全国制覇!

11月22日、23日、24日広島県広域公園第1球技場において「14回全国ママさんサッカー大会」が行われ、関西地区代表として兵庫県からアジュール兵庫(神戸の選手)が参加し、みごと全国優勝しました。
今回はそのアジュール兵庫をクローズアップします。

(川淵キャプテンを囲み全員集合)

全国大会優勝おめでとうございます。
監督から今大会について

ついにママさんの頂点に立てた、最後まで集中力を絶やさなかった、選手、コーチに感謝したい。

今大会はフローレンス広島戦がすべてだった。3年目で、ことしこそはとの気持ちがあり、広島にベストで当たれるよう調整した。選手達は対フローレンス広島(3連覇中)戦は決勝戦のつもりで戦った。各自の役割を決め集中力を要求した。
(攻,守共数的優位、スピーディーにシンプルにシュート、主力選手を自由にさせない)

堅守速攻のチーム目標通り、後半48分に吉田、上川、田村、と2つのパスでゴール、1―0で前年度の覇者、難敵広島を下し1勝1分で予選リーグ突破。広島に勝った時点で全員優勝を意識した。

初優勝の勝因は、選手スタフが50分間集中を絶やさなかったことだ。選手全員3年間家庭、仕事、選抜と調整しながら熱心に取り組んだ成果と思います。歴史を作る難しさと、喜びを経験できうれしい。

3年間問題が起きるたびに話し合い選手、スタッフ全員が修正実践出来たことがチームのまとまりにつながった。叉協会の協力で夏に強いチームを呼んでの選抜大会も大きく成長を支えてくれた。

お礼申し上げたい。

ママさんサッカー日本1の、お母さん達ちと一緒に出来たことをうれしく、誇りに思います。

今後も皆さんの熱い御支援をお願いします。

アジュール兵庫
監督:浅野 正倫

アジュール兵庫とは?

アジュール兵庫は、母をたたえ「青い海」といゆう意味です。3年前の1999年に県女子リーグのママさんと、ポルト神戸のママさんから、選抜して結成したチームです。

長い間ママさんの県リーグがありながら勝てない中で、是非全国制覇をしたい選手で活動を続け、1ヶ月に3~4回の練習、試合を消化しながら育ったチームです。3年目にしてやっと選手同士の顔が見え出しチームらしくなった。まだまだ伸びるチームです。

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