サッカーは人生そのもの〜加藤寛

JFA news 2023年9月号(No.473)に掲載された加藤 寛氏(一般財団法人日本クラブユースサッカー連盟 顧問)へのインタビュー記事の転載です。


父親の影響で幼少期からサッカーに触れ、大学時代にアシスタントとして参加したFIFAコーチングスクールでサッカーと共に生きていくことを決意。半世紀以上にわたってサッカーの発展に尽力している加藤寛さんに、これまでの取り組みやサッカーに対する思いなどを聞いた。

(オンライン取材日:2023年8月22日)

人生を決定づけたFIFAコーチングスクール

―― サッカーを始めたきっかけを教えてください。

加藤 大のサッカー好きだった父(※)の影響です。私は岡山県で生まれましたが、3歳のときに父の出身地、兵庫県神戸市に引っ越してきました。兵庫は戦前、兵庫県御影師範学校(神戸大学の前身)と第一神戸中学校(現、神戸高校)が全国高校サッカー選手権大会の覇権を争うようなサッカー王国でしたが、戦後になるとその勢いは陰りを見せました。神戸のサッカーを再び強くしたいという思いから、神戸一(第一神戸)中出身だった父やその友人たち、例えば、賀川浩さんや大谷四郎さん、岩谷俊夫さんらサッカージャーナリストたちが夜な夜なわが家に集まり、議論していました。その後、中学校に上がり、部活動を選択する際、美術部かサッカー部で迷いましたが、「サッカーをやれば海外に行ける」という父の言葉によってサッカーを始めました。後に国際審判員となり、兵庫県サッカー協会の理事長を務められた長岡康規さんが同じ中学の二つ先輩で、憧れの存在でもありました。

※ 日本初の法人格市民スポーツクラブ「神戸フットボールクラブ」の創設者の一人、加藤正信氏

―― 中学校に進学された1963年に「兵庫サッカー友の会」が結成されます。

加藤 神戸一中や御影師範、関西学院大学、関西大学のOBが中心となって兵庫のサッカーの発展のために結成し、1000人以上の人たちが集まりました。65年に事業の一環として「神戸少年サッカースクール」ができ、毎日新聞社にお勤めだった、元サッカー日本代表の岩谷さんが指導部長に就任しました。当時、私は中学3年生で、岩谷さんの指導に興味を持つようになり、高校時代は部活動でプレーする傍ら、サッカースクールのお手伝いをしていました。サッカースクールには大阪体育大学の井田國敬先生も指導者として参加されており、その縁もあって私は大阪体育大学に進学しました。

―― 大学在学中に第1回FIFAコーチングスクールでデットマール・クラマー氏のアシスタントを務められたそうですね。

加藤 FIFAのコーチングスクールは、私が1年生だった69年の7月15日から3カ月間、千葉県の東京大学検見川総合運動場で行われました。父の勧めで参加し、クラマーさんの身の回りのサポートをしたり、実技の記録を付けたりしました。このコーチングスクールには日本を含めアジア各国から46人が集まり、3カ月間サッカー漬けの毎日を送りました。主にクラマーさんと平木隆三さんが担当された実技のほか、教育学、医学、運動生理学など各分野の国内の権威を招き、講義が行われました。大学4年分にも匹敵するような濃密な時間で、このときに将来、サッカーで生活していこうと決めました。

―― クラマーさんの指導で印象に残っていることはありますか。

加藤 まず、クラマーさんの指導で一番印象に残っているのは、「指導者自身が何事も模範を示さないといけない」ということです。コーチングスクールの最終日には、スクールのエンブレムと色紙をいただきました。色紙にはドイツ語で「あなたのなすこと以外に良いことはない(自信をもってやりなさい)」と書かれていて、サッカー界の偉人がこんなにも丁寧な対応をしてくれるのかと、驚きと喜びを感じました。一方で、大失敗をして大目玉を食らったこともあります。毎週土曜日にフィルムショーといって16ミリフィルムの映像を見る時間があったのですが、私は映し出す順番を間違えてしまいました。クラマーさんは烈火のごとく怒り、いつもは英語で話されていましたが、このときはドイツ語でまくし立てられました。怖かったですし、落ち込みましたが、後々振り返ると、学生とはいえ「仕事に真剣に向き合え!」と叱ってくれたのだと分かり、今では感謝しています。

震災で身に染みた自治、助け合いの重要性

―― 大学卒業後の73年、技術職員として神戸フットボールクラブに加入され、その後さまざまな立場で23年間、同クラブでサッカーに取り組んでこられました。

加藤 私は大学で西ドイツのスポーツ政策を学びました。当時はまだ、日本ではクラブというものが珍しい存在でしたが、ゆくゆくは神戸FCをドイツにあるような市民のためのクラブにしたいと考えていました。当時の日本サッカー協会(JFA)の登録制度は、学校や社会人などいわゆる社会的身分に基づくもので、クラブチームでは登録することができませんでした。

74年、JFAは財団法人化する際に登録制度をこれまでの身分別から年齢別に変更しましたが、それでもまだクラブチームは、登録はできても競技会に参加するのが難しい状況でした。そこで、大谷さんを中心に枚方FC、読売サッカークラブ、三菱養和会と協力して、現在の日本クラブユースサッカー連盟の前身となる「全国クラブユースサッカー連合」を立ち上げました。その後は全国の皆さんと手を携えながら徐々に規模を拡大し、U -15、U -18のクラブが各地に設立されるようになりました。

――95年からヴィッセル神戸に出向されますが、同時期に阪神淡路大震災が起こりました。

加藤 93年12月に「神戸にプロサッカーチームをつくる市民の会」が神戸の医師会を中心に発足し、プロ化に向けた活動が本格的に始まりました。翌年には、川崎製鉄サッカー部をベースに、育成年代は、神戸FCのジュニアユースとユースを移管させ、ヴィッセル神戸がスタートすることが決まりました。神戸FCからは、私ともう一人のスタッフがヴィッセル神戸に出向することになりました。同時に私はJFA公認S級コーチ資格を取得することになり、95年1月16日の夜、神戸FCの事務所でS級前期のレポートをまとめ、翌朝に帰宅したところで被災しました。

摩耶山麓の自宅から南側を見ると、神戸の街は火の海で、家族と神戸高校の体育館に避難したのですが、避難所は救援物資や食料の奪い合いが起こるなど、少し心配な状態でした。そこで、S級の座学で学んだマネジメント法を生かし、避難者で自治組織をつくって運営していくことにしました。座学がすぐに役立ちましたね。1月から8月まで約半年間、体育館で生活し、最後はきれいに掃除をして神戸高校へお返しすることができました。神戸高校の校訓が「自重自治」なのですが、この避難所に神戸高校自治会のOB、OGがボランティアで協力してくれて、自治、そして助け合いの大切さが身に染みて分かりました。

―― ヴィッセル神戸では育成や普及に尽力されたほか、トップチームの監督を務めるなど多岐にわたって活動されました。

加藤 まず私が考えたのは、ヴィッセル神戸を兵庫の皆さんに応援してもらえるクラブにしたいということ。そして、良い選手を育て、トップチームや日本代表に送り出すこと。本来、このような取り組みはサッカー協会(FA)が行うものですし、クラブの利益につながるわけではありませんが、安達貞至社長(当時)は私の行動を見守ってくれ、相談にも乗ってくれました。また、スクール開催地のサッカー関係者のほか、小学校の校長先生らの協力もあり、次々と県下にヴィッセル神戸のスクールを立ち上げることができました。さらに、都市協会のトレセン活動と県のトレセン制度を連携させ、県下のU -12からU -17のトレセンを整備することができました。

最も苦労したのはFAの技術予算の管理ですね。作業が深夜にまで及び、自宅で仮眠してから再び事務所に戻るということも多々ありましたが、おかげさまで県下の都市協会の多くの人たちができたばかりのヴィッセル神戸に関心を持ち、優秀な選手をヴィッセル神戸U -15のセレクションへ派遣してくれるようになりました。実に充実した楽しい時間でした。

―― 2009年から神戸親和女子大学(現、神戸親和大学)の教授と同サッカー部の監督に就任されました。その経緯を教えてください。

加藤 当時、神戸親和女子大がヴィッセル神戸のスポンサーだった関係で学長と話す機会があり、新設される発達教育学部ジュニアスポーツ教育学科の教授と、同じく新設されるサッカー部の監督就任のオファーをいただきました。

私はそのとき58歳、ヴィッセル神戸での仕事もそろそろ後進に任せようと思っていた時期でしたし、神戸FCやヴィッセル神戸、クラブユース連盟で学んだことを若い人たちに伝えるのも良いことだと考えました。また、女子サッカーの普及という観点から、選手への指導と同時に女子指導者の養成に取り組もうと考え、この二つのオファーをありがたくお受けすることにしました。

―― 大学での新たな挑戦を振り返っていただけますか。

加藤 私の人生にとって有意義な経験になりました。新設の女子サッカー部ですので、選手を集める、練習環境を整えるというところから始め、練習ではボールを蹴る、止める、運ぶという基礎の基礎から指導していきました。チームづくりは楽しかったですし、選手たちの取り組む姿勢も素晴らしかった。選手はみんな、卒業までにC級コーチと4級審判員の資格を取得しました。現在、県内外の女子トレセンや学校で教員として指導している卒業生たちが多くいて、うれしく思います。苦労したのは授業の準備で、周囲の先生方によく助けてもらいました。

兵庫を再びサッカー王国にそれが活動の原点

―― 日本クラブユースサッカー連盟にも長く携わられ、同連盟や関西クラブユースサッカー連盟の会長を務めてこられました。現在の育成年代への取り組みについてどのようにご覧になっていますか。

加藤 私は、プレーヤーとは選ばれた人ではなく„遊ぶ人"だと考えます。すなわち子どもたちには技術や戦術の習得はもちろんですが、それ以上に、「自主自律」や「自治の精神」を教えることが重要だと思っています。遊ぶ人が主体性を持ってサッカーができるように導いていく。私はドイツに2回研修に行きましたが、ドイツでは指導者が子どもたちの課題に気付いていてもあまり指摘しません。どうしても必要なときに伝える程度です。ですから、子どもたちは萎縮することなく伸び伸びと楽しんでスポーツに打ち込むことができます。そういう真のプレーヤーズファーストの指導が必要だと考えます。私の今の悩みは、育成年代の選手登録数が減ってきていることです。子どもたちが楽しい、もっとやってみたいと思えるようなプレーヤーズファーストの環境をつくっていくことが何より大切なのではないでしょうか。

―― 兵庫県サッカー協会常務理事や神戸市サッカー協会副会長も務められてきました。一貫して兵庫県で活動してこられたその思いをお聞かせください。

加藤 原点は、やはり父とその友人たちが懸命に取り組んできたように、兵庫を戦前のようなサッカー王国にしたいという思いです。江戸時代から明治時代に変わった1868年、神戸港が開港し、外国人が入ってくると、70年に「神戸レガッタ&アスレチッククラブ(KR&AC)」が設立され、サッカーチームができました。そのKR&ACは御影師範などとも対戦しています。御影師範で育った先生が、父が通った小学校の校庭でサッカーを教えていて、そこで父や賀川太郎・浩兄弟らがボールを蹴っていた。私にはそういった背景があり、ルーツがある。それは決して変えられないものです。もちろん、シンプルに神戸の街が好きだということもあります。

―― 現在は阪神ユナイテッドレディースの総監督として指導にあたっていらっしゃいます。今後の夢や目標を教えていただけますでしょうか。

加藤 市民が運営権を持つクラブがたくさん生まれ、行政も地元の企業も皆がその活動を応援し、市民の健康づくりや仲間づくりが進んでいく。そういう活気や輪が神戸の街や日本全国に広がっていってほしいですね。ヴィッセル神戸ができて30年近くたち、スタジアムは観客でいっぱいになりました。今後はそれがスタジアムの外に向かっていってほしい。阪神ユナイテッドでは今、プレーしている選手たちが年を重ねてもいつまでもサッカーをやめずに続けられる環境をつくっていきたいと思っています。

―― あらためてご自身にとってサッカーとは。

加藤 サッカーしかやってきませんでしたから、やはり人生そのものです。世界中の人たちに言いたいのは、人々がサッカーを嫌いになるようなことは絶対にしないでほしいということ。そして、サッカーでみんながつながり、サッカーファミリーが増えてほしい。Jリーグ百年構想の「スポーツで、もっと、幸せな国へ。」というのは、つくづく良い言葉ですね。私もそれを応援していきたいと思います。

<プロフィール>

加藤 寛(かとう ひろし)

1951年1月29日生まれ、岡山県出身。

大学在学中に第1回FIFAコーチングスクールでデットマール・クラマー氏のアシスタントを務め、卒業後の1973年に技術職員として神戸フットボールクラブに加入。77~98年にはJFAナショナルトレセンコーチとしても活動。95~2009年はヴィッセル神戸で育成や普及に尽力、同時に兵庫県サッカー協会指導者養成部長を務める。1997年、2004年にはヴィッセル神戸の監督も務めた。09~16年、神戸親和女子大学教授、同サッカー部監督として学生の指導にあたる。その間、兵庫県サッカー協会常務理事や日本クラブユースサッカー連盟会長などを歴任。18年、NPO法人阪神ユナイテッドレディースの理事長・監督に就任し、現在は総監督。このほか、日本クラブユースサッカー連盟顧問、神戸市サッカー協会社員、株式会社スポーツシューレこうべ代表取締役を務めている(22年春に全ての公職から退任)。

出典:JFA news 2023年9月号(No.473)

神戸のサッカーとわたし〜一北保五郎

「河本春男会長の思い出」

昭和54年(1979年)に神戸市サッカー協会の会長になられたユーハイム社長の故河本春男(かわもと はるお)氏(1910年生~2004年没)の思い出です。

天皇杯準決勝でのお姿

今は、全国各地にサッカースタジアムが整えられて天皇杯準決勝もいろんな場所で行われるようになりましたが、昭和50年代の天皇杯準決勝は、12月30日に東京の国立競技場と神戸中央球技場で試合が行われるのが恒例となっていました。

神戸中央球技場での開催時は、JFA・HFAから運営を委託された神戸市サッカー協会が加盟チームからの有志を募って運営を行っておりました。当時は、JFAも含めすべてがアマチュアのボランティア活動でしたから、神戸市協会でも交通費の一部補助程度の事しか協会としてはできませんでした。そのような中、河本会長は、リングケーキの真ん中にビスケットで作ったサッカーボールを乗せたユーハイムの「フランクフルタークランツ」を作らせて、試合が終わって解散の際に、運営スタッフの一人ひとりにお声をかけながら手渡しをされておいででした。

少年チームのお母さんへのお話について

少年委員会からの要請だったと思います。ある時、三木記念神戸市立スポーツ会館内の協会会議室で少年チームのお母さん方に神戸高校の教員時代の話をされたことがありました。

講話に参加された皆さんに一番印象に残ったお話を尋ねると、当時の神戸高校サッカー部の練習は相当厳しく、部員は家に帰れば疲れきっていて殆どバタンキュウの状態のように聞いていたのにサッカー部員の成績はみんな相当良かったこと。特にキャプテンは東大・京大に現役合格が当たり前の状態が続いていたことについて質問をしたら。河本会長は、「サッカー部員の勉強方法の基本は『授業中に集中して聞くこと』が大切で、これがサッカーにも通じているんだ。」と部員に話されていたとの由。

会長の講話はいつも最後に「常に一歩先んじ、一刻速く」との言葉を贈られていました。

ボランティア活動の基本について

河本会長は「協会の運営に携われるボランティアの皆さんが活動される場合は、最低でも交通費・食事代相当額を予算計上し、金銭的な負担をかけないことが基本です。このことが末永く活動できる源です。」と事あるごとにお考えを話されていました。

皆さんが参加されているリーグや大会の運営は、現在もこの言葉を受け継いで、この基本方針で立案し、活動しています。

理事会での姿勢

理事会では、経営者と教育者との両方の顔で各理事の思いのたけの意見を出させて、活発な議論をさせました。そして両方の意見を取り入れて、まとめた結論を出される際には、強い声でなく、気持ちのこもった口調で話しをされていました。

 

一般社団法人神戸市サッカー協会 副会長
一北 保五郎(いちきた やすごろう)

神戸のサッカーとわたし〜顕木新一

昭和45年(1970年)5月頃のことですから、今から50年以上前の話です。
1970年、社会人1年目の頃に高校サッカー部のOBクラブに参加し、神戸市社会人3部リーグにデビューしました。
当時、社会人リーグの運営を担当されていた布引中学校の一北先生、神戸市役所の秋月さんに勧められるままに社会人3部リーグの運営役員となって、3部の30チームの対戦試合の組み合わせ、審判の割り当て、当番チームへの記録用紙の配布、リーグ運営費の管理の仕事をしました。

その頃の社会人サッカーは、関西社会人リーグに三菱重工神戸と兵庫教員蹴球団が、県社会人リーグには神戸FCが属していました。神戸市社会人リーグには、兵庫県庁、神戸市役所、神戸税関などの官公庁チーム、川崎重工業、川鉄建材、国鉄鷹取などの企業チーム、上ヶ原クラブ、六甲ヒルケル、グリーネエルフ(灘高OB)などの学校サッカー部のOBチームが加盟していました。
役員になって3~4年たった頃に審判員に興味を持ち始め、医師の菊田先生や神戸大学の五島先生らのご指導により3級から2級審判員へとつながっていきました。
神戸ウイングスタジアムの前身の神戸市御崎公園球技場は、サッカー専用球技場で日本でも数少ない天然芝のグラウンド仕様で多くの国際試合が行われ、1979年のワールドユース大会(18才以下)ではパラグアイ代表のロメロ(後に北米リーグ・ニューヨークコスモスでベッケンバウアーらとプレーした)や、他にもポルトガル代表のオイセビオ(当時の表記名。現在はエウゼビオ)がここでプレーしたことを思い出します。
球技場は自宅から近いこともあって水曜リーグのヤンマーディーゼル対大阪商業大学の主審をしたこともありました。いい思い出のひとつです。

現在は、(一社)神戸市サッカー協会の社員として関わらせていただいています。これからも神戸市のサッカーの発展に少しでもお役に立てればと思っています。

一般社団法人神戸市サッカー協会 社員
顕木 新一(あらき しんいち)

神戸のサッカーとわたし〜本多克己

私が通っていた東灘小学校では、畠山監督のもとサッカーが盛んで、監督のげんこつでのご指導をとおしてサッカーを知りました。

中高では、佃先生、市川先生に指導いただき、サッカーに打ち込みました。いまはなきポーアイの芝生グラウンドでの市民大会、磯上での総体、御崎での新人戦と何度か神戸市の頂点を経験することができたのは、今になっても自分にとっての最高の誇りです。

当時はサッカー協会というものは、機関紙「神戸のサッカー」をつくっているところ、というような意識だったように思いますが、中学のときには、ラインズマンの資格を取って、気の進まない審判を担当することになり、はじめて運営側の立場に立つことになりました。

高校のときにはちょうど市のU-18リーグがはじまりました。1979年のワールドユースでは、ロメロ率いるパラグアイに熱狂しました。

卒業後は、六甲ヒルケル、ヒルケルシニアで協会のお世話になりました。広報委員として、協会のホームページの立ち上げなどにもかかわらせていただきました。賀川浩さんと出会って、「この人の言葉を残していかなければ」と考えて賀川サッカーライブラリーの開設などに取り組むなかで、「神戸のサッカー」を発信できることを誇らしく再確認してきました。かけがえのない歴史を歩んできた神戸のサッカーが、これからも市民、関係者の誇りであるように微力ながらもお手伝いできればと思います。

本多克己(株式会社シックス 代表取締役社長)

神戸のサッカーとわたし〜賀川浩

神戸市サッカー協会50周年おめでとうございます。

協会の事務所のある三木記念神戸市立スポーツ会館は、副会長などを歴任された加藤寛さんのお父さんである、故加藤正信ドクターのご尽力で建設されたもの。神戸FCのクラブハウスを磯上グラウンドに設置できないかと考え、三共生興を一代で築いた三木瀧三氏(故人、当時三木記念会理事長)に寄付を願って快諾を得たのだが、さて、実際に神戸市の土地(磯上グラウンドは市の所有)の上に建物を建てて、神戸FCという私的クラブが管理することはできないということになった。そこで、加藤ドクターは公的機関(たとえ法人でなくても)のサッカー協会であればいいのではないかと市と交渉し、「三木記念神戸市立スポーツ会館」の維持運営は神戸市サッカー協会があたることになりました。

私も97歳となりましたが、こうして今もサッカーの話をできることはうれしいことです。協会の規模も大きくなり、苦労も多いことと思いますが、何よりやり続けていくことが大切です。皆さまのさらなるご活躍を楽しみにしています。

賀川浩(スポーツライター)

月刊「神戸のサッカー」関連記事抜粋(昭和53年11月号、昭和54年7月号、昭和54年10月号)