神戸のサッカーとわたし〜本多克己

私が通っていた東灘小学校では、畠山監督のもとサッカーが盛んで、監督のげんこつでのご指導をとおしてサッカーを知りました。

中高では、佃先生、市川先生に指導いただき、サッカーに打ち込みました。いまはなきポーアイの芝生グラウンドでの市民大会、磯上での総体、御崎での新人戦と何度か神戸市の頂点を経験することができたのは、今になっても自分にとっての最高の誇りです。

当時はサッカー協会というものは、機関紙「神戸のサッカー」をつくっているところ、というような意識だったように思いますが、中学のときには、ラインズマンの資格を取って、気の進まない審判を担当することになり、はじめて運営側の立場に立つことになりました。

高校のときにはちょうど市のU-18リーグがはじまりました。1979年のワールドユースでは、ロメロ率いるパラグアイに熱狂しました。

卒業後は、六甲ヒルケル、ヒルケルシニアで協会のお世話になりました。広報委員として、協会のホームページの立ち上げなどにもかかわらせていただきました。賀川浩さんと出会って、「この人の言葉を残していかなければ」と考えて賀川サッカーライブラリーの開設などに取り組むなかで、「神戸のサッカー」を発信できることを誇らしく再確認してきました。かけがえのない歴史を歩んできた神戸のサッカーが、これからも市民、関係者の誇りであるように微力ながらもお手伝いできればと思います。

本多克己(株式会社シックス 代表取締役社長)

神戸のサッカーとわたし〜賀川浩

神戸市サッカー協会50周年おめでとうございます。

協会の事務所のある三木記念神戸市立スポーツ会館は、副会長などを歴任された加藤寛さんのお父さんである、故加藤正信ドクターのご尽力で建設されたもの。神戸FCのクラブハウスを磯上グラウンドに設置できないかと考え、三共生興を一代で築いた三木瀧三氏(故人、当時三木記念会理事長)に寄付を願って快諾を得たのだが、さて、実際に神戸市の土地(磯上グラウンドは市の所有)の上に建物を建てて、神戸FCという私的クラブが管理することはできないということになった。そこで、加藤ドクターは公的機関(たとえ法人でなくても)のサッカー協会であればいいのではないかと市と交渉し、「三木記念神戸市立スポーツ会館」の維持運営は神戸市サッカー協会があたることになりました。

私も97歳となりましたが、こうして今もサッカーの話をできることはうれしいことです。協会の規模も大きくなり、苦労も多いことと思いますが、何よりやり続けていくことが大切です。皆さまのさらなるご活躍を楽しみにしています。

賀川浩(スポーツライター)

月刊「神戸のサッカー」関連記事抜粋(昭和53年11月号、昭和54年7月号、昭和54年10月号)