神戸のサッカーとわたし〜一北保五郎

「河本春男会長の思い出」

昭和54年(1979年)に神戸市サッカー協会の会長になられたユーハイム社長の故河本春男(かわもと はるお)氏(1910年生~2004年没)の思い出です。

天皇杯準決勝でのお姿

今は、全国各地にサッカースタジアムが整えられて天皇杯準決勝もいろんな場所で行われるようになりましたが、昭和50年代の天皇杯準決勝は、12月30日に東京の国立競技場と神戸中央球技場で試合が行われるのが恒例となっていました。

神戸中央球技場での開催時は、JFA・HFAから運営を委託された神戸市サッカー協会が加盟チームからの有志を募って運営を行っておりました。当時は、JFAも含めすべてがアマチュアのボランティア活動でしたから、神戸市協会でも交通費の一部補助程度の事しか協会としてはできませんでした。そのような中、河本会長は、リングケーキの真ん中にビスケットで作ったサッカーボールを乗せたユーハイムの「フランクフルタークランツ」を作らせて、試合が終わって解散の際に、運営スタッフの一人ひとりにお声をかけながら手渡しをされておいででした。

少年チームのお母さんへのお話について

少年委員会からの要請だったと思います。ある時、三木記念神戸市立スポーツ会館内の協会会議室で少年チームのお母さん方に神戸高校の教員時代の話をされたことがありました。

講話に参加された皆さんに一番印象に残ったお話を尋ねると、当時の神戸高校サッカー部の練習は相当厳しく、部員は家に帰れば疲れきっていて殆どバタンキュウの状態のように聞いていたのにサッカー部員の成績はみんな相当良かったこと。特にキャプテンは東大・京大に現役合格が当たり前の状態が続いていたことについて質問をしたら。河本会長は、「サッカー部員の勉強方法の基本は『授業中に集中して聞くこと』が大切で、これがサッカーにも通じているんだ。」と部員に話されていたとの由。

会長の講話はいつも最後に「常に一歩先んじ、一刻速く」との言葉を贈られていました。

ボランティア活動の基本について

河本会長は「協会の運営に携われるボランティアの皆さんが活動される場合は、最低でも交通費・食事代相当額を予算計上し、金銭的な負担をかけないことが基本です。このことが末永く活動できる源です。」と事あるごとにお考えを話されていました。

皆さんが参加されているリーグや大会の運営は、現在もこの言葉を受け継いで、この基本方針で立案し、活動しています。

理事会での姿勢

理事会では、経営者と教育者との両方の顔で各理事の思いのたけの意見を出させて、活発な議論をさせました。そして両方の意見を取り入れて、まとめた結論を出される際には、強い声でなく、気持ちのこもった口調で話しをされていました。

 

一般社団法人神戸市サッカー協会 副会長
一北 保五郎(いちきた やすごろう)

神戸のサッカーとわたし〜顕木新一

昭和45年(1970年)5月頃のことですから、今から50年以上前の話です。
1970年、社会人1年目の頃に高校サッカー部のOBクラブに参加し、神戸市社会人3部リーグにデビューしました。
当時、社会人リーグの運営を担当されていた布引中学校の一北先生、神戸市役所の秋月さんに勧められるままに社会人3部リーグの運営役員となって、3部の30チームの対戦試合の組み合わせ、審判の割り当て、当番チームへの記録用紙の配布、リーグ運営費の管理の仕事をしました。

その頃の社会人サッカーは、関西社会人リーグに三菱重工神戸と兵庫教員蹴球団が、県社会人リーグには神戸FCが属していました。神戸市社会人リーグには、兵庫県庁、神戸市役所、神戸税関などの官公庁チーム、川崎重工業、川鉄建材、国鉄鷹取などの企業チーム、上ヶ原クラブ、六甲ヒルケル、グリーネエルフ(灘高OB)などの学校サッカー部のOBチームが加盟していました。
役員になって3~4年たった頃に審判員に興味を持ち始め、医師の菊田先生や神戸大学の五島先生らのご指導により3級から2級審判員へとつながっていきました。
神戸ウイングスタジアムの前身の神戸市御崎公園球技場は、サッカー専用球技場で日本でも数少ない天然芝のグラウンド仕様で多くの国際試合が行われ、1979年のワールドユース大会(18才以下)ではパラグアイ代表のロメロ(後に北米リーグ・ニューヨークコスモスでベッケンバウアーらとプレーした)や、他にもポルトガル代表のオイセビオ(当時の表記名。現在はエウゼビオ)がここでプレーしたことを思い出します。
球技場は自宅から近いこともあって水曜リーグのヤンマーディーゼル対大阪商業大学の主審をしたこともありました。いい思い出のひとつです。

現在は、(一社)神戸市サッカー協会の社員として関わらせていただいています。これからも神戸市のサッカーの発展に少しでもお役に立てればと思っています。

一般社団法人神戸市サッカー協会 社員
顕木 新一(あらき しんいち)

神戸のサッカーとわたし〜本多克己

私が通っていた東灘小学校では、畠山監督のもとサッカーが盛んで、監督のげんこつでのご指導をとおしてサッカーを知りました。

中高では、佃先生、市川先生に指導いただき、サッカーに打ち込みました。いまはなきポーアイの芝生グラウンドでの市民大会、磯上での総体、御崎での新人戦と何度か神戸市の頂点を経験することができたのは、今になっても自分にとっての最高の誇りです。

当時はサッカー協会というものは、機関紙「神戸のサッカー」をつくっているところ、というような意識だったように思いますが、中学のときには、ラインズマンの資格を取って、気の進まない審判を担当することになり、はじめて運営側の立場に立つことになりました。

高校のときにはちょうど市のU-18リーグがはじまりました。1979年のワールドユースでは、ロメロ率いるパラグアイに熱狂しました。

卒業後は、六甲ヒルケル、ヒルケルシニアで協会のお世話になりました。広報委員として、協会のホームページの立ち上げなどにもかかわらせていただきました。賀川浩さんと出会って、「この人の言葉を残していかなければ」と考えて賀川サッカーライブラリーの開設などに取り組むなかで、「神戸のサッカー」を発信できることを誇らしく再確認してきました。かけがえのない歴史を歩んできた神戸のサッカーが、これからも市民、関係者の誇りであるように微力ながらもお手伝いできればと思います。

本多克己(株式会社シックス 代表取締役社長)

神戸のサッカーとわたし〜賀川浩

神戸市サッカー協会50周年おめでとうございます。

協会の事務所のある三木記念神戸市立スポーツ会館は、副会長などを歴任された加藤寛さんのお父さんである、故加藤正信ドクターのご尽力で建設されたもの。神戸FCのクラブハウスを磯上グラウンドに設置できないかと考え、三共生興を一代で築いた三木瀧三氏(故人、当時三木記念会理事長)に寄付を願って快諾を得たのだが、さて、実際に神戸市の土地(磯上グラウンドは市の所有)の上に建物を建てて、神戸FCという私的クラブが管理することはできないということになった。そこで、加藤ドクターは公的機関(たとえ法人でなくても)のサッカー協会であればいいのではないかと市と交渉し、「三木記念神戸市立スポーツ会館」の維持運営は神戸市サッカー協会があたることになりました。

私も97歳となりましたが、こうして今もサッカーの話をできることはうれしいことです。協会の規模も大きくなり、苦労も多いことと思いますが、何よりやり続けていくことが大切です。皆さまのさらなるご活躍を楽しみにしています。

賀川浩(スポーツライター)

月刊「神戸のサッカー」関連記事抜粋(昭和53年11月号、昭和54年7月号、昭和54年10月号)