サッカーとハート :自立心と倫理観2009-05-14

2008年は1度しかコラムを出せなかった。
今年は少し頑張らねば・・・。

近況報告・学生リーグ

2009年度の関西学生サッカーリーグが4月29日から始まった。今年は残念ながら2部リーグでの戦いとなるが1部復帰を目指し、気持ちを新たに。

2部リーグチームは4月11日から開幕した1部リーグとは違い、4月の初頭は関西学生選手権を戦った。夏に行われる大学の全国大会である総理大臣杯大学サッカー選手権の予選を兼ねた選手権である。この関西学生サッカー選手権大会は学生リーグ1部所属全12チームと2・3部予選を勝ち抜いた4チームの計16チームが参加し6月に行われるのだが、2・3部チームは与えられた4枠を4月初旬の2週間で3試合、44チームが争った。

我々の成績は4月12日(日)1回戦○4-0vs大阪大谷大学、4月18日(土)準決勝○1-0vs天理大学、4月19日(日)ブロック決勝○3-1vs奈良産業大学となり、2・3部代表権を勝ち取ることができ、5月24日に関西学生サッカー選手権1回戦・関西大学と対戦することとなった。我がチームは昨年度1部リーグ所属チームであったとは言え、「2・3部予選を勝ち上がるのは決して楽ではない」と思っていたので、終わってみればそれなりに1年間もがいた経験が蓄積されているのか、落ち着いて試合を運べていた気がした。

続く4月29日からは関西学生リーグが開幕し、緒戦○9-0vs摂南大学、第2戦○1-0vs神戸大学、第3戦○9-1vs太成大学、第4戦△2-2vs龍谷大学となりBブロック1位を維持している。とはいえ先の長いリーグ戦。今の成績は関係ない。これからが問題である。

さて、本題・・・。

もう後は無い・・・プロしかない

私も前述のように大学生の指導をして早くも8年目に突入。しかし私はどうも同じチームを指導するも長続きしないようだ(笑)。今までの指導歴を見ると神戸FC時代が9年、ヴィッセル神戸時代が7年である。しかしそんな短い中でも小学生や中学生、高校生、社会人、女子、ママ、プロ、アマと様々なカテゴリーや年齢層を指導する機会得ることができた。

今年で指導を始めて25年になるが『“指導”をするとはどういうことなのか?』『自分が指導をした結果、求めている姿は何なのだろうか?』『今まで自分の“指導”における“根本”を成すものはどういった考え方なのか・・・』と自問自答をしている感が最近ある。もう少し平たく言うならサッカーの指導をしているのは『サッカーの質の追求なのか人間教育なのか…はたまたそういった区別をすること自体不自然なことなのか・・・』と。
現在の日本のサッカー界の選手育成と言う名の結末・代物・パターンはいくつかある。

  1. 将来の日本を代表するプレーヤーとしての力量に育つパターン
  2. 代表レベルまでの選手にはならないがJリーガーとしての力量に育つパターン
  3. Jリーガーにはなれなかったが高校時代まではかなりのレベルの力量に育ったパターン
  4. 大学で鍛えなおしJリーガーとしての力量までに育つパターン
  5. 大学でプレーするが社会人になってからは趣味でサッカーをプレーするパターン

などなど。

最終形はこれだけではないだろうが、いずれにしても選手育成の初期段階において、指導者はサッカー選手として必要なパーツを身につけさせよう、出来る限りレベルの高い試合が出来るように育てようと試みるに違いない、たとえ競技志向のチャンピオンシップスポーツを目指していないにしても・・・。

しかしながらサッカー選手としての技量の成長は十人十色で、計画通りにいかないのが世の常。世界で通用する選手を育てるという目標を真剣に達成しようとするなら指導者はより優秀な素材を見つけては連れてきて、サッカー選手になるための環境を用意し、徹底したプログラムの元、選手の思考をも洗脳しなければならないだろう。“もしサッカーで通用しなくなった時のことを考えて(融通が利くように)勉強もしておいた方が良い”などと言う考えを捨て、子供たちにプロサッカー選手たるもの○○だ・・・と。つまりハングリー状態の中で…生きるか死ぬかのような…選手を育成していかなければならないのだろう。

前述の考えが良いのか悪いのかの是非論は別にして、現在、ブラジルやヨーロッパのサッカー先進国の選手スカウト事情や育成事情をみると、日本の中では“考えられないこと”と思われることが実際行なわれている。そこまでしなくても選手は育つのではないの?あなたの国なら・・・とつい首をかしげたくなる・・・サッカー先進国が・・・だ。

イタリア・セリエAのインテルミラノに所属する18歳のマリオと言う選手をご存じだろうか?またバルセロナのメッシもそうである。13歳になった彼の能力を買い取るためにその家族ごとイタリアやスペインに移住させ、両親に仕事を与え、生活環境を整えて“子供”のパスを確保するのである。

日本では考えられない。当然学校にも通わすのだが学校は勉強をするところでありサッカーはクラブで行うもの・・・という住み分けが出来ているヨーロッパの国々。午後からはしっかりサッカーの時間を確保できる。サッカーが中心になってもおかしくは無い。日本国内でもガンバ大阪などはジュニアユースからユースに昇格するにあたって高校進学よりプロサッカー選手を推奨していくケースがある。所属選手全員に対してでは無いが「高校に行っておかないと後々のことを考えたときに・・・」という考えは無い。そんな甘えた気持ちがあるからプロになれないんだ・・・とばかりに。

若手育成に苦労をするJクラブ・・・だから勉強も大切では?

昨今、大学生のサッカーが見直されている。高校を卒業してJリーグに入団した選手の2~3年(18歳~21歳)の追跡調査をした結果、(A契約にまでたどり着いた選手はいわゆる将来有望選手であり即戦力タイプとして試合機会をつかめるが)B/C契約のままで所属している選手の65%が試合出場機会を得ていないという。

サテライトリーグも若手育成の場と言われてきたが、サテライトリーグで優勝するために選手を抱えるJ球団は今は無い。より少ない選手で球団を運営し人件費を削減する。すると22人の選手を保有するクラブにしても試合に出場する選手は毎試合11人+数人であるから、毎節試合のたびに 22-11(14)=11人(8人) の選手は試合に出場できない状況が生まれる。その選手で若手育成の試合をしようとしても人数が足りない。このギャップにどのチームも頭を悩ませているようだ。

しかし、だからこそお金をかけず選手育成する方法を考えなければならないのである。プロレベルの選手を育てるプロ球団なので、その若手選手のために刺激・資質向上が図れる事業を組まなければならない。人数的に7~8人で練習をしなければならないときはどこからか選手を補充してでも十分な人員確保をして、トレーニング効果を出したほうが良い。練習をするにも試合をするにも(自チームへの補充選手にしても対戦する相手チームの選手にしても)外部から加わる選手たちも、やはりそれ相当のレベルをもった選手を補充しなければプロレベル選手の育成のための実践には程遠くなる。

だからこそJ球団と大学チームとのコラボにもっと真剣に向き合うことが今後のプロ球団を維持していく上では大きなポイントではないかと私は考えている。各J球団所属の若手選手育成への“最小限の費用”で“最大の効果”を生む唯一の方法だと考えている。あの大学は近いだの遠いだの、ハイレベルの選手がいるいないではない。

しかしながら、この状況(若手選手の試合出場機会無し65%)がいつまでも続くのであれば、あるいは前述した選手育成の“結末・代物・パターン”が現在のサッカーの現状とするなら『もしサッカーで通用しなくなった時のことを考えて(融通が利くように)勉強もしておいた方が良い』と言う考えを否定することは非常に危険な行為となってくる。たまたま上手な選手はプロと言うレールがあるから良いが、そうでない選手たちはやはり困るのだ。

故に『“指導”をするとはどういうことなのか?』『自分が指導をした結果、求めている姿は何なのだろうか?』『今まで自分の“指導”における“根本”を成すものはどういった考え方なのか・・・』と自問自答をしているのである。

専門家=立ち振る舞い

プロ選手であれば何をしてよいかと言えばそんなことは無い。プロとして生きていくのはいわゆるその筋の専門家であるということ。よく○○大学経済学部△△教授とかエコノミスト□□氏・・・など専門家が経済に関する我々の知らない情報をワイドショーTVなどでコメントしているのを見かける。いわゆる専門家とはそういうことである。

一般人より専門分野において詳しくなければならないし、秀でていなければならない。ましてやサッカー選手は知識だけでは無く、実際にプレーをしてファンにお金を払ってもらってスタジアムに来てもらわなければならない。漫才師・落語家然り・・・芸人も同じで、お客さんに自分の一芸を見てもらわなければならないのである。さもなければ球団収入は上がらず(入場料収入だけが球団の収入ではないが赤字を出さず自給自足を目指すなら入場料収入は大切な要素となる)給料をもらえないことになる。つまり選手こそ際立った専門家でなくてはならないし、際立った営業マンでありパフォーマーでなければならない。

となればお客は何をもってある一定のプレーヤーの応援するのかということになる。“お気に入り”は秀でたスキルやキャラクターに依存される。直接会話はしないがTVや雑誌などを通じてその選手本人を知る(推測するというのか)。ファンはそういった媒体を通じてその本人とコミュニケーションをとり(とった気分になり)“お気に入り”に入れていくのである。

つまり、プレーヤーはもう一度あの選手の試合を見たいとかあの選手を応援したいと思わせなければならない。そして舞台上(グラウンド)で披露したの“芸”(サッカー)で人(ファン)を感動させなければならないのである。宝塚歌劇団が今でも人々の“憧れ”であり人々の“夢”として君臨しているのは立派な立ち振る舞いのできる宝塚音楽学校で育てられたからこそである。人が人を呼ぶのである。

では、際立った専門家になるための努力を何人のJリーガーがしているのだろうか?現役を引退してから指導者になりたいとB級やA級ライセンスを取得しに行く元Jリーガーが増えてきている昨今。実際一緒に講習会を受講したり講習会の講師をしてみると感じるのだが、引退する今になって努力を始める者、いい年しているのに一般常識のない・・・と思うものが少なくない。Jリーグに入る前も大切だが、入ってからがより大切なのだ。

善悪を教わるのはいつだった?

先日、神戸大学と試合をした時、神戸大学サッカー部員の大学生としての自立心、自立力、倫理観に驚きを感じたことがあった。総監督も監督も毎試合お見えになり熱心に指導をされる方であり、指導歴も長いとお見受けする。しかし、かといって躾に対して今更どうこうやかましく言われてはいないように思う。それなのに選手たちは試合に勝とうが負けようがしっかり挨拶ができ、試合終了後の態度(このときは我々が勝ったので神戸大の選手は決して気持ちがいいものではなかっただろう)も爽やかで好感が持てるものだった。

サッカー選手としての倫理観はとても大切だ。選手としての倫理観は同時に人間としての倫理観でもある。今の状況ではどう立ち振舞うべきか、相手の気持ちを思えばどうあるべきか、会場を借りている立場ではどうふるまうべきか・・・いわゆる我々指導者が子供を大人に育てていくプロセスにおいてとても必要且つ重要な指導項目である。この自立心、倫理観がない選手はプロになっても長続きしない。なぜならファンがつかないからだ。ましてや引退してから指導者になることは大変困難を極めるだろう。いや、プロ選手に限らず一般社会に出るためにも必要不可欠な能力なのだ。

倫理観とは一般常識のこととも言えるのではないか?最近、日本の政治家がJRフリーパスを使って国会を休み、熱海へ女性と旅行に行ったという記事を見た。漢字が読めないのも問題はあるのだが、公的立場で与えられるパスを使って国会を休んでまで旅行に行くということの善悪をいまさら60歳を超えた人生の先輩に言わなければならないとなれば、腹が立つのも通り越して「この人はいつの時期に何を教わってきていたのか」と非常に興味が湧く。ひょっとして悪いことと知っていてやってしまったのか?レベルの違いはあれ、社会的な犯罪行為を犯す大人も同じことだ。

コントロールとタイムリー

さて、大人と子供の違い・区別は何で付けられるのだろうか?わたしはいつも学生たちに言う。大人と子供の違い・区別は年齢ではない。責任が取れてセルフコントロールができるかどうかである・・・と。犯罪行為となると善悪の区別・してはいけないことを制止する抑止力のコントロールである。

反社会的行為もそうだが、簡単なところから言えば大人は遅刻をしない、仕事をきちっとこなすということでも決定的な違いと考えている。我々は翌日の仕事がいくら早くても遅刻はしないし欠席もしない。遅くまで飲み会に参加していても、必ず仕事は定時にきちんと行く。翌朝遅れそうで出勤に自信がなければ、前日の飲み会の誘惑に負けずにお酒を断る。いわゆるコントロールを利かせているのである。まあいいやと言って1眼目を休む学生とは違う。いや、学生の中にもきちんと出席する者もいる。しかしこれも倫理観。

また、こういったこともある。サッカー部員はさすがにいないが、一般学生たちは茶髪・ピアスなんて当たり前。しかし、なのに就職活動時期になると自発的に黒髪にしてしおらしくなる。本人の潜在意識の中で茶髪と言うものがどういうものなのかを理解しているようだ。茶髪が悪いわけではない。しかし面接においては極めて不利に働くということを感じているようだ。大学4年生の卒業間際まで茶髪云々を話ししなければならないこと自体、倫理観の欠如。

つまり、我々大人・指導者は対学生だけではなく、人間が育っていくプロセスの中でタイムリーに倫理観をその時に教え込まなければならない。そのためには我々指導者・大人が倫理観を自ら知っていなければならないし実践できなければならない。そしてそれこそタイムリーに教え込まなければならないのである。

「プロになるためには勉強とか高校に進学することなどの余分なことを考えずにサッカーにかけろ!」という考え方に対して外野の我々が、どうのこうのということではないのかもしれない。私個人はむしろ、その考えには一理あると思っているし異論もない。

つまり、私はこう考える。サッカーのトレーニングと勉強は相反するものではなく、互いに邪魔になるものでもなければ互いを消しあう存在のものでもない。しかし勉強はできなくても倫理観だけはTPO,年齢に応じて叩き込まなければならない。サッカーができても出来なくても倫理観だけは叩き込まなくてはならない・・・と。

昨今、モンスターペアレンツといった言葉にあるように、大人に異変が多すぎる。給食を食べているのに・車を持って贅沢しているのに給食費は払わないという。そのエヴィデンスは「義務教育年代の子供の食費は国が払うのが筋だ」ということらしい。その理屈もあながちわからないではないが、決まり事としてはそうなっていない。理屈が屁理屈になっている。これも倫理観の欠如だ。

要は進学といた最終学歴やサッカーの云々ではなく何を学んだかである。漢字が読めなくても総理大臣になれるのだから。