サッカーとハート :コンフェデ杯が教えてくれたもの2003-07-14

先般行われた大陸王者選手権のFIFA CONFEDERATIONS CUP。ジーコジャパンは1次リーグ敗退という結果に終った。そして忘れてはならない190cm、80kgの不屈のライオンといわれたカメルーン代表のメンバー、マルク・ビビアン・フォエ選手が帰らぬ人となった大会。本当にサッカーは魅力あるものでありながらその反対側で牙を出し、苦しみ、悲しみを待っていたかのように突然襲い掛かってくる。我々サッカーに携わるものにとって一番辛いことは選手が一番喜ぶべき試合で悲しみに陥ることだ。あまりにもショッキングな映像を忘れる事が出来ない。人間はあんなにもろく倒れるものなのか・・・と。私には何も出来ないが、少なくとも同じ悲劇を繰り返さないように注意を払って選手と向き合うこと、これしか今はない。ご冥福をお祈りします。

結果は出ない

ジーコジャパンは今回、1勝2敗の勝ち点3。3試合戦って4得点3失点、4点の得点のうち3点は格下といわれるニュージーランド -結果から言っての格下であって本当はどちらが上か…- からあげたもの。様々な雑誌を見るといろいろな人が“評”を記している。「ごく常識的な基準にも達していない」「ワールドカップ常連国に180分戦って1点、大会がアウェーであったことを差し引いても不満が残る」といった具合に。彼らはそういった記事を書くことで生計が成り立つのだからそれはそれで終らせよう。私は私なりに書かせてもらう。

今回の日本代表の試合ぶりについては昨年のワールドカップの成績から考えて、それなりに期待するものはあった。期待というのは結果のことだけではなく、代表チームの進むべき方向がどのような方向なのか、そしてそれが青少年の指導の現場にどのようにフィードバックされてくるのか、また実際の代表チームの状況がどうなのか、新監督になってどのようなサッカーを目指しているのかというような部分である。そう簡単に結果が出るとは思はなかったがやはり良くはなかった。

そもそもチームを作るということは大変な作業を要することである。人材、時間、道具、場所、お金といったハード面の問題とトレーニングに関するソフト面とがより精巧に、しかもよりハイレベルで、それでいてグッドなタイミングでマッチしなければならない。そして最大難所は人間という計算しづらい生き物のピークパフォーマンスも考えなければならないということである。このようなありとあらゆる作業があってこそチームという生き物は活躍もし元気なく過ごすことにもなる。そう思うと今回の日本代表は良い成績を出しにくい状況であったことは日本代表に付きっきりで帯同していない私にだっておおよそ見当は付く。Jリーグファーストステージ戦の最中にリーグを中断して代表に切り替える選手、長く厳しいリーグを乗り越え本来ならオフであるはずの海外チーム所属選手、咥えて環境が違う選手が一緒に練習をする機会の少ない状況、新監督になって目指すサッカーが浸透していない状況、どれをとってみても極めて結果の出にくい厳しい状況であったのだから。

言いっ放しは聞きっ放しに通じる教育とサッカー

私は今の日本代表を見てこのままで終るとは思っていないがいくつか考えることがある。まず一つ目はジーコ監督の考えについて。

トルシエ監督がチームの進むべき方向性、チームの戦術、その戦術の実行方法、サッカーの考え方等を具体化したのに比べ、ジーコ監督は選手の閃き、即興性を前面に出している。日本の選手には一番得意な方法と一番苦手な方法があまりにも対照的に、しかも急激に対比されてしまった様に感じる。この事を我々指導者も含め選手、環境(環境を作る者)が感じ、対応しなければならないという事である。

日本の教育における“学校”は時間がきてチャイムが鳴ると先生が教室に入ってきて授業を進め、一方的にしゃべる。終了時間のチャイムと共に先生は授業を終わらせ教室から去っていく。つまりこういった授業が主流になっているという現実がKEYである。今、これをダメだと言うつもりはない。しかし【言いっ放しは聞きっ放しにつながる】という言葉があるように、こういった習慣でずっと育った日本のプレーヤーに  -しかも6・3・3制の都合12年も-  果たして即興性を期待できるのだろうか。成人になって代表チームに入ったときいきなり「自分の考えを大切にしろ」「自分で考えろ」「閃き、アイディアを大切にしろ」「即興性だ!」といわれても困るのではないか。困るだけならいいのだが実践できないとなればサッカーという現場においてはまったく意味がない。

考えるサッカーの浸透性

4のチーム力を3ランク上げて7にするのと7のチーム力を3ランク上げて10にするのとは同じ3ランクアップでも中身はまったく違う。低いレベルのチームがある程度のレベルには達するのは割とたやすい。しかしそこからが大変なのである。当然、8や9のレベルのチームとの対戦ともなると以前対戦した5や6のチームと比べてもレベルが高くなっている分、苦戦が予想されるのは当たり前。普通に練習、試合をやっている程度では追い抜けない。並以上の事を行ってやっと人並みというところか。つまり4を7にするためにはトルシエ流サッカーが必要とされ7を10にするためにはジーコ流のサッカーが選択されたということである。今までの日本のサッカーにおいてはトルシエ流具体化サッカー、オフト流具体的やる事提示サッカーのほうが選手も受け入れやすく結果も出やすいといったところだろう。あまりあれこれ考えずに限られた事を必死にやる、という事は責任も少なく比較的たやすいのであるから。

――((実際にはたやすい事でもなくかなりの苦労、努力があってこそ今の日本サッカーがあることは紛れも無い事実であり、それをレベルが低いとは言わない。ただここでは世界ナンバーワンを10とした物差しでの話である事をご理解いただきたい))――

やるべき事がはっきりするということは、選手個人が持っている力を何の迷いも無く「俺にはこれしかない」とか「失うものは無い、監督を信じて突き進め-」といった精神的相乗効果を得る事ができる。対戦レベルも下のレベルであればなおさら結果も早く反映するだろう。しかし、そこから上のレベルに押し上げていくにはそれまで以上の物を付け加えなければならないということである。そうでなければいつまでたっても相手とのレベル関係は同じままである。となると今まで以上のものとは何なのかという事になる。つまりそれがジーコ監督の言う一定の約束事の中に一瞬の閃き、即興性ということになる。このことを日本サッカー協会は選択したということである。

瞬時に判断する事、自分で考える事は今現在、少年サッカーが普及していく中で指導者講習会等ですでに盛んにレクチャーされている。全国各地の指導者は自分で考える事の大切さを選手や保護者に伝え、三位一体になることでより良い選手を育成する努力を重ねている。しかしながらそういうレクチャーを受けた選手が今20歳以上の年齢に幾人いるのか、またそういったレクチャーを受けてきたとしてもそれはその子供が育った地域レベルでの閃き、即興性でありまだまだ全国区、海外レベルにまで研ぎ澄まされてきてはいないと考えられる。トレセンシステムは1978年ころより始められているが本当の意味で世界を意識して選手を育成してきたのはここ4~5年ではないだろうか。コーチングシステム、コーチの質、情報量も変ってきている今、代表監督もジーコという閃き、即興性を重視する監督に代わり日本としては方向性を統一する時期なのかもしれない。

ワンクッション欲しい代表

しかし私個人としては少し時期が早いような気がする。トルシエ監督の具体化サッカーとジーコ監督の即興性サッカーの間にその中間的なレベルの折衷サッカーを表現できる監督を置くべきだと思う。私はレベルをアベレージに上げるにはトルシエ監督、将来的に理想とするサッカーを何にするかといえばジーコ監督の閃き、即興性、考える習慣のサッカーであるべきとは考える。しかし、全国的にまだまだ閃き、即興性、考える習慣を浸透できていない状況ではタイムリーではない。

となるとジーコ監督には代表監督というより日本のテクニカルダイレクター的な存在として代表チームからU-15,U-12世代の代表、ひいてはJの下部組織、国内の普及までを一手につかさどるセクションを田嶋幸三氏とともに就任してもらい全国に種をまく仕事が今の時期には良いと考える。そして期が熟してから満を持して代表監督に就任する。といった具合はどうだろう。

もう一つは環境

そしてもう一つは環境である。ジーコ的閃き、即興性、考える習慣はサッカーにおいて絶対必要な能力である事は疑いの無い事ではあるが、今の日本の中ではそれを育む環境が無いように思われる。つまりこれをどこかで変えていかなければ半永久的に日本のサッカーは世界レベルに成り得ないと言う事である。言い換えれば世界レベルの成績が出たときこの環境が出来たという事なのかもしれない。

いくらサッカーのコーチが叫んで「自分の考えを大切にしろ」「自分で考えろ」「閃き、アイディアを大切にしろ」「即興性だ!」といったところで1日24時間、1週間で168時間、その中で何時間選手と接する事ができるというのか。1日2時間、週3回の練習としても6時間、多く見積もっても週10時間しか接する事は無いのだ。その他は他の影響力を受けるわけである。そこにもし旧態依然とした方法論、考え方しかないとしたら…。

もう一つの環境

つまり、文部省が掲げる週5日制によるゆとりの教育というものは今までの日本の教育の欠陥を訂正しようと言うものである。総合学習とは何かと考えるにこういうことだと思う。

教室の中に問いかけがあり教室の中に答えがある時代の教育では現代社会に対応できないという事である。実際社会は教室にあるだけでの答えではとうてい対応できない時代になってきているということである。「子供たちに毎日魚を与えると食べていって生きていくだろう。しかし同じように釣竿を与えれば一生食べていけるだろう」という中国の諺があるが、つまり毎日食べるという事が大切だと教えるのではなく魚のとり方を教える事が大切であるということである。日本の教育は体験をさせる事が無く、すべて教室で答えを見つけようとしていたのである。

サッカー界は地域型スポーツクラブ、生涯スポーツを提唱し人材育成に力を注いでいる。以前にも述べたが子供というのは自立の躾と共生の躾が必要である。共生の躾には集団が必要である。その集団こそ地域スポーツクラブであり、少年野球でありサッカーである。

ジーコ監督が今回のフェデレーションカップにおいて我々に見せてくれたサッカーはまさに鏡である。鏡というのは自分が映っている鏡だという事。結局、日本のサッカーは本気で立ち向かったもののレギュラーを欠いた国に勝てないという事が映し出されたのである。2002年W-CUPで強くなったと思っていてはいけないのである。根本的な改革、改造のヒントをジーコ監督は自らの思想を持って日本人に教えてくれたのである。ただ、本人も考えてはいなかっただろうが…この結果は…。

日本サッカー協会が指針としてどのような事をジーコ監督になってからの日本サッカー若年層に出してくるか非常に興味深い。

もしあなたがチームの強化をつかさどる立場の人間であったなら何を重視してどんな人材を選択するか…
目の前の出来事が大切か長い目で見た将来を優先させるか、またこの部分での考え(サッカー界)のみならず他のあの部分(教育についての影響力)における事にも配慮をして考えるか…

など考え出したら面白いものだ。良くも悪くも強化担当者であるあなた次第の世界。悪ければ責任をとらなければならない。代表、Jリーグという影響力の大きい世界であれば責任はなお大きい。今回は日本代表についての考えを述べた。このコラムが誰にどんな影響を与えるのか定かではないが責任は大きいと思っている。

神戸、兵庫の子供たちに良い影響力を与えられたらこれ幸いである。このコラムをお読みの方にぜひ感想をお聞かせ願いたい。匿名でも結構、ぜひメールください。