サッカーとハート :環境に染まる事が上達?2004-04-10

まずは恒例の言い訳から・・・

いや、本当に長い期間コラムを書けずにいて申し訳ない気持ちで一杯である。この間にいろいろな事があったのだが、どうも他のことに気をとられ、パソコンに向かって落ち着いて自分の思いを綴れなかった。おそらくひと時に仕事が集中してしまい、私のキャパではそれらを消化しきれなかったのだろう。県クラブ・ユース・サッカー連盟の総会の準備、神戸市技術委員会の改革(新技術委員長就任に伴う所信表明とその実行、4種年代指導者のコーチング資格リフレッシュ義務化etc)、2006年国体関係(2006年兵庫国体のスタッフ選考)、我が大学のスキー実習及びサッカー部の進入部員受け入れ準備とリーグに向けてのチーム作りなど、年度替りに集中しそうな仕事がかたまってしまった。少々バテ気味ではあるが何とか新年度を迎えられそうなところまで漕ぎ着けた。言い訳はともかく・・・・。

何からはなしをしようか・・・。

スキー実習の成果

2月14日・15日のJFAインストラクター研修が終わってから、その日の22:00梅田発の夜行バスで長野の戸隠高原まで行った。大学のスキー実習が例年のごとく行われたのだった。学生は16日の22:00に姫路を出て、翌17日の早朝に戸隠に着くというスケジュール。一方教員は事前にコースの下見をするために前々日の15日の内に現地入りし、翌16日に下見をすることになっていた。だが私は研修があったので先発スタッフを追いかける形で夜行バスに乗っていき、16日の早朝7:00に現地に着いて仮眠をすることもなく9:00発16:00帰りの下見ツアーにでかけた。

今年の実習は“歩くスキー”と言うジャンルのものを担当した。来年以降、私は一人で10人くらいの班を受け持つことになるため今年はその引継ぎを兼ねてある先生について行動した。“歩くスキー”と言うとなんとなく楽そうなイメージがあるだろうが、実は結構大変なのである。履く板はクロスカントリー用のスキーで靴もクロカン用であり、踵が固定されていない、つま先だけが板に引っ付いている状態のスキーである。アルペン用のスキー板に比べたら幅は細く、エッジがついていないため操作が難しい。加えて私が戸隠に向かった15日の夜中はかなりの降雪であったため、16日の下見の日は膝上まである新雪の中を一歩一歩踏みしめ歩いていかなければならなかった。まるでモモ上げ前進である。実際には3メートル弱の積雪である。スキーを履いているために膝上くらいまで埋まるだけですむのだが、一旦板をはずそうものならズボズボっと足は埋まっていくし、転んだりしたら大変である。ストックは支えにならない上に、起き上がるとき手を付いても埋まっていく。立つのは困難を極める。

そう、歩くスキーとはゲレンデが活動場所ではないのである。林や森といった道なき道をどんどん開拓して歩いて回り、日頃見ることのない風景や動植物、自然を探索していく活動なのである。それらを見て何になる?といった感じがしないでもない。しかし、経験して見るとわかる。自然の中に入ると摩訶不思議な世界が待っている。音もなく静かである。誰も入った事のない森の中を自分のスキーの跡だけがついていく。よくよく注意をしてみると、ウサギや狸の足跡が新雪に付いていたり、熊が秋に木の実を食べるために木に登った時の爪の後などを見る事が出来る。写真はかなりの積雪のおかげで、日頃頭上高くにしか見ることのできない鳥居が目線にある風景である。またウサギの足跡と熊の爪あとである。動物によって足跡は特徴がありすぐわかる。ウサギは後ろ足が前足より前に着地するのでわかりやすい。

昨年は雪中一泊体験をした。本当に物音一つしない外に昼間に作った寝床(縦・横穴式住居、自分で自分の命を守る穴を掘るのである)に一人で寝る体験は、わが身を振り返らせる。今回はグループでの行動とは言え、誰もいない森の中にコンパスを持って方向を調べながら進んでいく。もちろん事前に下見をした私たちは目印を道中の木々につけ、大体コースを見ては来ている。しかし建物とかの目印があるわけではない。似たような景色がずっと続くのである。今回のように天気がよければまだ良いのだが、もし吹雪いていようものなら、下見でつけた我々の目印さえも当てにはならない。山の中で迷ってしまう危険性もある。学生にとっては大変な作業である。

そうやって日々の生活の安全性や便利な生活への感謝を感じること、個人・友人のありがたさを感じること、自分で自分の状況を切り開いていくことなどを体験してもらうのが狙いである。結局プログラムが全て終了して帰る日には学生たちは口をそろえて言う、「来てよかった」「また行きたい」「自分を振り返られた」と。

上海文化はアジア文化 日本文化ではない

近頃の子供たちは「自分では何も出来ない」「自分で自分のことをする事が出来ない」「人任せだ」などと聞く。いやいやそんなことはない。要はさせてない、する機会がないだけである。実は3月26日から30日まで神戸市U-12選抜(4月から中学1年生になる年代)の上海キャンプに帯同した。どちらかと言うと子供たちに中学のサッカーへの準備、指導者の視察、技術委員長としての上海との顔つなぎを主たる業務としていったのだが、サッカーの内容の詳細は次号に掲載するとして、中国と言う国を見て感じたことの一つが次のことである。

よく言われる“欧米人は自己主張が強い。アジア人は自己主張をしない”ということは違うのではないかということである。つまり自己主張をしないというのはアジア人という括りではなく日本人だけではないか、そんな気がしたのである。韓国人も中国人も遠慮はない。遠慮がないといっても社会生活の中で目上を敬う、ものを譲ると言ったことは当然日本のように、いや日本以上に持ち得ている。そういうこととは別に、日常生活における交通ルールだとか信号を待つだとか車の運転のしかたなどに見られる独特の“遠慮”である。何せ車の鼻先5センチを割り込ませたら、そこにはすでにルールが成立しているのである。割り込まれたほうも割り込まれまいと粘るのだが、入られたらしょうがない。そんな感じである。今中国では高速等の合流地点では、1台ずつ交互に入って行こうキャンペーンをしていると言う。基本的には割り込みをされてしまうのか、それともさせないようにするのか必死なのである。そういったことをはじめとして道路の横断は信号が有ろうと無かろうと、車が来ようが来まいが渡るのである。しかも現地の通訳の顧(コ)氏に言わせれば、「車が来るからといって走って渡ってはいけない」と言うのである。走るとその分、車がスピードを上げてくるらしい。だから街中はやたらとクラクションが鳴っている。騒々しいのである。人のことはお構いなし、自分の都合なのである。関空について三宮まで帰ってくる時、「なんと静かで、きちんと交通ルールを守った、理路整然と車を走らせる国なんだ!」と感じた。

サッカーに向いてる文化?

話はそれていったが、つまりそんな国に行けば行ったで、神戸の子供たちも車に轢かれないようによく周りを見て注意しているし、信号が無くても6車線くらいの道を渡っていくのである。自分で自分をコントロールしているのである。日本の教育は「右見て、左見て、もう一度右見て手を上げて渡る」のが社会生活の最初に教わる基本である。そんなことは中国、韓国、香港、イタリア、ドイツ、ベルギー、ブラジル何処にも無いように見受けられるのである。日本以外の国々はいちいちルールを遵守することをせず、要は事故が起こらなければ良い、見つからなければ良いといった精神である。これは日本社会では最も嫌われる教えではないだろうか。(嫌うのはうちの嫁さんかな?)

サッカーをする上でよく“ハングリー精神”などと言うが先の交通ルールの実態と照らし合わせてみると、ハングリーな環境でないのは日本だけのような気がする。サッカーの競技の特性として周りを見る必要性、周囲の情報収集といった事がよく言われるが、これすなわち日本以外の国々は得意分野であり、日本は極めてそのことに逆行した生活環境であるといわざるを得ない。そう思えないだろうか?外国では常に周りを見て車の動向を考え「隙有らば渡るぞ」としている文化なのである。物心付いたらそんな環境で育っているのである。日本は車が来なくても信号の色で物事の判断基準はゆだねられる。ましてやサッカーに限らず、大学生にいまさら自然に帰って自分で自分のことをするなんてことを教えているようでは・・・。本来スキー実習で行うようなことは小さい頃より訓練されていかなければならないことなのかもしれない。ただ今の現実問題としてそれでも大学生に実習経験をさせることは大いなる意義があるのは事実である。

だからせめてサッカーのトレーニングでは自分で判断すること、自分で考えること、自分で考えるといっても無から考えはなかなか発展しないのでいくつかの方法を明示して考えさせること、言い換えれば選択能力を向上させていく要素を取り入れなければならない。今してよいのか悪いのか?していけないのはなぜ?してよいのはどんなとき?こういう状況ではじゃあどんな技がいい?といったことである。社会のルール、交通文化はもう変えられないので教育の現場と家庭の教育、サッカーのトレーニングで子供たちを変えていかなければならない。我々指導者は大きな責任を担っているのである。