サッカーとハート :免疫2007-03-23

私の指導するチームのホームページにも例外なく『掲示板』というコーナーがあり一般の誰でもが自由に、しかも匿名で書き込みが出来る様になっている。先日そのHPで我がチームの選手全員の紹介も兼ねた一人一人のコメントを私が書いたところ誰かはわからないが匿名で『選手に対するコメントに期待されている選手の場合と期待されていない選手の場合との格差がある』と言う批判書き込みがあった。期待されている選手は良いが期待されてない選手においては可哀想だと言う主旨だろう。

評価とは

それについて私は世間で言う”逆切れ”をおこす気はない。しかしいつの世も自分では良かれと思い行動したことが逆に別の人には不快になる・・・ことがある。良くありがちだ。現に私もこうやって人に批判をされるようなことをしてしまっている。不快な思いをかけたのなら自分が素直に考え直すことはまず必要だ。

しかし私に言わせれば選手に対してありもしないコメントは並べられないのと過大評価は出来ないということだ。誰しも良いところもあれば苦手な部分があって当然だ。ポジションも違えば個性も違う、性格も違う。私は今回のHPにおいては選手各個人の良い点を書き次に今後の課題を書いたつもりだった。

そもそも”評価”というものそのものがそういった賛否を作り出す代物だ。今の社会総じて”事なかれ主義 ” ”格差是正” ”出る杭は打たれ”・・・の傾向があり、“天下り”ではないが何かにおいてクリーンに・・・公平に・・・と叫ばれる。今に始まったことではないかもしれないがやたら新聞紙上で見かける。一本5,000円の水は公費かどうか・・・?当然世の中クリーンであるべきでグレーゾーン廃止傾向は強い。実際それを圧倒的に世論は欲しているのが事実だ。

3人の王子様

先般幼稚園でのある出来事のレポートを見た。園内の学芸会かなにかでこんなことがあったそうだ。桃太郎だったか何かの”劇”で保護者が『私の子供に主人公をさせてくれ』という依頼が多くなり先生が苦肉の策で全配役に3〜4人ずつの人選をして劇を行ったというのである。主人公も3人いれば脇役も3人、お姫様が存在する劇ならお姫様も3人・・・みんな3人ずついるという。そういった芝居が成り立つこと事態驚きだがまたそれを聞き入れてしまう幼稚園も驚く・・・しかしそれが今の時代なのだ。そういう現象を作ってしまったのも大人なのだ。グレーゾーンを作ってしまっているのだ。

配役に良いも悪いもない。スポットライトが当たる”主役”は誰でもが出来る訳ではないが、可能ならばやりたいものだ。しかしひとつの劇を作り上げ観客の心を打ち、そして『また観に行きたい!』と思わせるにはそういった様々な”役”なくしては成り立たない。とは言えただ複数の配役が存在していればその“劇”はすべてすばらしいかと言えばそうではないだろう。その”役”の必要性を出演者や裏方さんや“劇”に携わるすべての人がい互いにその“役”を理解するからこそ互いの個性を引き出しあいアンサンブルを奏でる。そして主役が引き立ち演劇全体が人の心を打つのである。それぞれの配役を理解するには台本も読むだろう。様々な配役を経験したり配役の存在そのものを認めることも必要だろう。それでなければ“感性”は高められず芝居の中の”役”の勘所を感じ取れないままの役者で終わる。

宝塚歌劇団の役者が歌を間違えたりするのか?踊りを間違えたりするのか?必死の訓練・鍛錬によりミスは最小限に抑えられ人の心を打つ。今こういった顔・・・今はああいった身振り手振り・・・様々な感性を振り絞って芝居をしているのである。芝居を理解することなくして人の心は打てない。スポーツでも同じだ。ミスをするのなら練習に練習を重ねミスをなくす。練習をせずして結果はでない。雨の日のサッカーは雨に日にしか練習できないのと同じ。芝居は芝居で磨かれる。人間性は人間と接しているときに磨かれる。

肌で感じる感性

3人の王子様・・・子供の・・・いやこれは親のといったほうが良いかもしれない・・・一時的な見栄や華やかさを求める気持ちも分らなくもないが小学校入って二番目の子が大きくなれば上の子の昔の写真はどこかにいってしもた・・・というようにならないように。小さな子供に芝居の”役”の大切さなどそんな難しいことを理屈で解らせようとしても解るとは思わない。解らせる必要が在るかも解らない。いずれにせよ解らせるには解るだろう言い方と言うタイミング、方法が大切だ。

しかし幼稚園や小学生年代にはそれより大切な事がある。ひょっとしたら中学生年代でも大切だと思うが、いわゆるそういった理屈でない部分・・・つまり”肌で感じる”・・・という感性を磨くことを優先させる時期が必要だということだ。

この時期がなければ成長したときに困る。人間の仕草の微妙なある場面で『この人は今○○○って思ってる。だからこうしてあげよう!』といった気配りとか段取りをつけて物事を上手くまとめるセンスがない人間になってしまう。いわゆる“空気の読めないやつ”になってしまうのだ。社会に出たらこういった“段取り力”の高い人間が結果的にビッグになっていく気がする。

免疫つくり

出来れば王子様は一人でいい。他の配役を感じよう。肌で感じよう・・・悔しさが残るならそれでいいではないか。親が一緒になって落ち込む必要はない。逆に子供を諭してやらなければならない。

逆境というのだろうか?“自分の意思と違うこと”に出くわしたときに“免疫”が無かったのは子供ではなく今時の“親”ではないか?世間で言う“天下り反対”  “グレーゾーン廃止”  “公平に” と唱えてはいるものの一方で先生に王子様役の希望を出し、ついには3人の王子様を実現させてしまう。王子の希望を言う前に空気の読める経験をしたほうが良い。一時の配役に一喜一憂せず子供の成長をなぜ見続けられないのか?自分の希望通りにすべてが思い通りに動くはずはない。時には予想と違う事が起こる。公平に・・・といいすぎると免疫不足になりはしないか?現在の社会がそう言う傾向であるからせめてサッカー部のHPくらいははっきり良い部分と改善したい部分を明記してもいいと私は思っている、・・・逆境への免疫を作るためにも・・・。だからといってはなんだがHPには個人の顔写真までは掲載していない。個人への配慮を考えてはいる。一応私も色々考えてはいるのだ・・・空気が読める人間になるために。