まとちかサッカー日記 :Lリーグデビュー!?2004-08-08

2004年8月8日(日)晴れ

 皆さんこんにちは! 毎年恒例のサッカースクールの合宿「網野合宿」も無事終わりました。今年は今まで泊まっていた旅館から変わったため、旅館のおばちゃんが洗濯をしてくれていたのを自分たちでしないといけなかったのが大変でした。そのかわり、1日目に運良く網野町の花火大会と重なり、子どもたちと見に行きましたが、灰が降り注いでくるほど近くで上げているので、神戸では味わえない迫力のある花火を見ることができました。「なんで周りにいるのが子どもたちなんだろう・・」と思いながらもこの迫力には大満足でした。(笑)

 今年は猛暑な上、人数ギリギリでの参加だったので、体力面も心配でしたが、台風がいい感じに近づき雨が少し降り、風は少々強かったですが、比較的涼しい過ごしやすい気候に助かり無事終了しました。

 さて、世の中はアジアカップ、オリンピックと盛り上がる中、神戸FCでも、出身の川上直子選手の壮行会を開きました。現レディースの子達は憧れの選手を目の前にして大喜びで、楽しい会になりました。その時一緒に来ていた田崎の人が、「審判で2級とったなら、うちの練習試合で審判やりにおいで」と声を掛けてくださいました。さすがに車を持っていない私は吉川の練習場には行けないですが、王子競技場でする時は呼んでくださいとお願いし、早速8月8日に呼んでいただきました。田崎vsバニーズの練習試合でLデビュー?と思っていたのですが、実際は国体の兵庫メンバー(田崎の選手とバニーズの何人か)対バニーズの試合でした。王子競技場で30分3本のゲームで、副審は選手が交代でやってくれて、気持ち的には気軽にできたのですが、真昼の人工芝でのゲームはさすがにばててしまいました。練習試合だけに両選手ともそれほど激しいぶつかり合いはなく、やりやすいゲームだったのですが、“Lリーガーってこんなにできるんだなー”と中で体験でき、とてもよかったです。公式戦ではまだ副審までですが、早く本当のLリーグデビューができる日がくればいいなと思いました。

まとちかサッカー日記 :ミックス荒らし!?2004-07-19

2004年7月19日(月祝)

 皆さんこんにちは!切り替えの早い私は、前回とはちがいとても元気です。

 今は指導と審判で自分自身がサッカーをする機会がほとんどありませんが、唯一、月に1回ぐらいでフットサルを楽しんでます。どこかチームを作ってやっているわけではなく、知りあいがやる時に声を掛けてもらって、都合がつけば参加させてもらっているのですが、その中の一つにミックスクラスの大会(男女混合の大会)があれば必ず参加する集まりがあります。去年も何回か大会に参加し、「ヴィッセルカップ」では優勝までしたという、寄せ集まりのわりに優勝ねらいの気軽で楽しいチームです。
 今回そのチームで参加したのが「ニッポンハムカップ」で、ヴィッセルカップで伊藤ハムのアルトバイエルンをいただいたので、今度はニッポンハムをいただこう!とはりきって出ました。

 去年もこのニッポンハムカップに出場したのですが、決勝トーナメントの1回戦で負けて優勝できなかったので、「優勝して祝勝会!」とみんなで心を1つ!?にして頑張りました。

 ミックスクラスは、常に女性が2人以上出るというのがルールなのに我がチームはいつも2~3人しか女性がおらず、いつもぎりぎりでしんどかったのですが、今回はいつも参加しているキャプテンと前回から参加している元チームメイトと、今年になって関東から帰ってきた後輩を呼んで4人になったので、半分半分で交代でき、すばらしい?チームワークで見事優勝しちゃいました。(ピース)

 なかなかの好成績を残している我がチーム!新聞社の人がキャプテンにインタビューをしに来た時、「どんなチームですか?練習はどれぐらいされてるのですか?」などの質問をされ、寄せ集まりだけにキャプテンは回答に困り果て、みんなで勝手に「ミックスあらしです」とまとめてしまいました。

まとちかサッカー日記 :新たな問題2004-07-18

2004年7月18日(日)曇り

 皆さんこんにちは!7月9日(金)に行われた兵庫県サッカー協会審判委員会で正式に2級の認定をしていただき、あらためて自分自身2級になったんだと感じました。これから指導も審判もますますがんばらねば・・・と思っていたのですが、その気持ちと新たな問題に私は今悩んでいます。

 もともとサッカースクールで指導の手伝いを始めた時、リーグ戦などで審判割り当てがあるので4級を取り、審判をやり始めたのですが、その後指導やヴィッセルでの仕事などで、あらゆる方面からサッカーに関わっていくうちに、今まで以上にサッカーのことが好きになり、もっとたくさんの人にサッカーの楽しさを伝えたり、もっと好きになってほしいという気持ちがでてきました。それまで決して適当にしていた審判ではありませんが、試合をしている選手や見ている観客たちにも納得のいく、思いっきりサッカーのできる試合を作れるのは審判だと思い、3級を取ってもっといい審判になろうと思いました。(第1回の「三井ゆりに負けたくない」というのは、彼女が審判している試合に納得がいかなかったからですよ)

 3級を目指し始めた時、審判部の方々から「どの級でどのレベルの大会ができるということ、Lリーグの審判、2006年の兵庫国体のこと」などを教えてもらい「3級で終わらず2級まで目指してみてはどうか?」といわれました。選手として踏むことのできなかった舞台に審判として、頑張っている選手と一緒にできたらと思い2級を目指し、ようやく取ることができました。

 2級になると協会派遣でいろんな試合に呼んでいただけるようになり、すごく勉強になるし、いい経験ができるので、できるかぎり参加しようと努力しているのですが、私は審判だけでなく指導の方も大事だし、タレントの仕事も大事です。それに生活費のほとんどはふだんのバイト代で生活しています。休みが欲しいわけではないので、毎日フルで働いていますが、どうしても参加できないこともあり、それを「やる気がない」と受けとめられるととてもつらいです。そんな時はどの仕事も大事にしてるのが間違っているのかと悩んでしまいます。

 でも7月17、18日に啓明高校で行われた国体の交流試合に審判に行った時、見てくださったインストラクターの方が、「みんなそれぞれ言うこと、考え方が違うから、いろんなことを言われるだろうけど、自分に必要なことだけ吸収して自分の個性は大事にしなさい」と言ってくださって、その一言で悩んでいた気持ちが救われ、またがんばろうと決心したのでした。

まとちかサッカー日記 :もんちっち・・・2004-07-12

2004年7月12日(月)曇り

 皆さんこんにちは。今年は全然梅雨らしいときがなく、猛暑突入ですね。こんな年は真夏の水不足が気になります。そんならしくもない心配をしながら、今回は初めてサッカーとは離れた話をしたいと思います。

 皆さんは、私が一応タレントということを覚えていますか?(笑)まああくまで自称なんですが、こんなに指導や審判、観戦などばかりで、「お前ほんまにタレントか!?」とおもってませんか?全くその通り!特に去年は所属事務所を移籍したばかりでほとんど仕事をしていませんでした。髪の毛も男の子のように短く真っ金金!で、よくサルサルと言われていました。

 個性的な面ではよかったのですが、やっぱりまだ売れてないのでもう少し女らしくしないと仕事も入ってきにくいと思い、髪を伸ばし始めました。最近はようやく肩まで伸びて、団子頭もできるようになりました。おかげで!?6、7月はちょこちょこ連続して仕事が決まったのです。その中の一つに「ヘアーコンテストのモデル」がありました。本番は7月12日(月)、それまでにリハーサルや仕込み、美容師さんの練習などがあり、泉佐野のまだ南「尾崎」というところまで通うことに・・・。神戸からだと約2時間(往復4時間)かかる上、最初は(髪の)癖がひどいや痛んでるとさんざんけなされ、「くそ~なんだよ~!」と思うこともありましたが、だんだんスタッフの人たちとお互いの性格が分かるようになり、お互いいじり合いをして楽しい現場になりました。特に担当の人とは、メイクさんが「2人は(以前から)知りあいですか?」と聞いてくるぐらい仲良く(なれなれしく!?)なりました。

 そして本番、そんな感じで息が合ったのか、担当の人は「敢闘賞」を獲り見事入賞しました。他のスタッフの人も休みの日なのにみんな見に来ていて、最後に「お疲れ様。ありがとう」と握手をしてくれた時、ほっとした半面、もうみんなに会うこともないかと思うとさみしくなりました。

 こんな感じで今回の仕事を無事終えたのですが、気が付くと頭はモンチッチに・・・カラーは直してもらったので金髪ではないだけましですが、なんでもこの仕事の依頼がきたときマネージャーも「睦子は短いのも似合うから切られてもいいかー」なんて思ってたみたい。私にはサルへアーが似合うようです。(汗)

サッカーとハート :背番号10の不思議2004-06-27

サッカーの背番号について面白い話をしよう。
10番がなぜトップ下のエースナンバーになったのか?サッカーのシステムとの関係は・・・?

背番号10はエースナンバー

サッカーの世界でエースは背番号10番とよく言われる。マンチェスターユナイテッドのようにチームのエースは7番と独自の路線を暗黙のうちに作り上げ、球団もファンも選手自身も認めている例も極めてまれではあるが時折見受けられる。オランダ・アヤックスの14番もそうであるように・・・。

背番号10は本来センターフォワードの番号であった。ゆえに点をよくとる選手が多く、自然とエースナンバーとなっていったようである。では、なぜセンターフォワードが10番なのか?そしてなぜ現在ではトップ下のオフェンシブハーフが10番となり、エースナンバーになったのか?

なにやらシステムと関係があるのではないだろうか?

システムの変遷史

1850年ごろのFAカップの歴史を紐解くと、2-8システム(図1)と言うのが主流でまだまだラグビーの色が濃い時代であった。1866年にルール改正が行われ3人制オフサイドの採用とボールより前に出ても良いと言うルールが採用されると飛躍的に得点場面が増え、ゴールラッシュの時代になった。それに対抗するために1874年以降は1-2-7システム(図2)が流行した。1870年代の初めにはスコットランドで2-2-6システム(図3)が考案され、言うなればドリブルのサッカーからパスのサッカーへと変貌していった時代であると言える。

一方でライバルのイングランドでは2-3-5(ピラミッドシステム)システム(図4)が考案され、ケンブリッジ大学などで使用されていた。これは中盤のセンターハーフがロービング・センターハーフと呼ばれ、広く動くポジションとなりチームの花形としても活躍するようになったところに興味深いものがある。結果、半世紀以上このシステムは使用されることになった。このころのイングランドは大英帝国の全盛とも言われ、もはやシステムも完成の域かと思われていた。しかしながらこの頃、オフサイドルールを逆に利用したオフサイドトラップが流行した。3人のうち1人が上がればオフサイドが成立した時代である。失敗しても残りの二人がカバーに入ればよいのである。ある意味オフサイドとラップと言う戦術が発明されるのは当然の流れだったかもしれない。

1925年にはメディアやファンの要望でオフサイドルールが変更になった。2人制オフサイドの登場である。これによって再度、得点ラッシュの時代へと入って行ったのである。アーセナルのハーバード・チャップマンがWMシステム(図5)を考案し、攻撃的なサッカーを展開した。ここから1950年代までWMシステムとアーセナルの全盛期が続くことになった。

このWMに対抗してスイスではカール・ラッパンがヴェロウシステム(図6)を、イタリア代表は2-3-5から発展した2-3-2-3システムを、ハンガリーは後のブラジルの4-2-4システムにつながっていったと言われるシステムでイングランドを二度に渡り撃破したという。各国で様々なシステムが考案されていったこの時期、中でも1954年スイスワールドカップでWMをベースにした3-2-3-2システム(MMシステム)と呼ばれるシステムを考案したハンガリーは、当時無敵を誇り「マジックマジャール」と言われ、世界を震撼させた。

1958年スウェーデンワールドカップでブラジルが見せた4-2-4システム(図7)は2-3-5を発展させたものだと言われ、今でこそ当たり前だと思われるサッカーの醍醐味である”即興性“を産むものであった。この4-2-4システムはパラグアイ人のフレイタス・ソリチが発明したものだといわれ、このシステムの登場により中盤の役割が明確になって言ったといわれている。このシステムはもう一つ、ゾーンディフェンスの概念を産む事にもなった。それまでは守備と言えばマンマークの概念しかなく、ゾーンなどと言う発想は全く無かった。2バックの横に2人のハーフバックを下げて配置し、自分のエリアを守ることをフルミネンセが実践し成功を収めたのであった。1962年のチリで行われたワールドカップでは大半のチームが4-2-4システムを採用していた。しかし他の国より先んじて4-2-4を採用していたブラジルはこの大会で左ウィングのザガロが中盤の選手のように下がってプレーをしたために、4-3-3システム(図8)のような形をとっていた。

4-3-3システムと言えば1974年、西ドイツで行われたワールドカップで見せた西ドイツとオランダのサッカーが何よりも特徴を物語っている。リベロと言う当時においては斬新なポジションを確立したベッケンバウワー率いる西ドイツとクライフを中心とした現代サッカーに極めて近い、ポジションチェンジをめまぐるしく行う、言うなればポジションが決まってないかのようなサッカーを展開したオランダが基本的には同じ4-3-3を採用していたのが興味深い。オランダはパスワークに秀でた戦術を持ち、守備ではディフェンスラインを高く保ち、ボールを複数で奪いにいく戦術を展開した。いまでこそ当たり前のようになっているが、運動量、安定したコンディション、高度な技術、判断力が要求される大変難しい戦術であった。しかし、結果オランダは優勝できなかったのである。それはなぜか?速攻に弱いシステムの4-3-3であったからである。そういう意味ではリベロと言うポジションの選手(ベッケンバウワー)を配置し、ピンチを防いでいったことそのものが「リベロを確立した」と言う評価を呼び込んでいるのである。

オランダのプレッシングサッカーにより徐々に前方にスペースが無くなり、悠長にボールを保持し、時間をかけて攻めていくことが出来なくなっていった時代を反映して、フランスやブラジルが4-4-2システム(図9)を考案していった。これは前にスペースを作ることにより、中盤よからスペースに走りこんでいってチャンスを作ることを狙ったものであった。が、今度は2人しかいない相手FWに対して4人もディフェンダーを配置し戦うことが非効率的になり、マークを持たないDFが一人中盤に上がっていった。こうして今度は3-5-2システム(図10)が誕生していったのである。

トップ下10番誕生の時代背景

さて、大まかな戦術に見るシステムの変遷はお分かりただいたと思うが、要はなぜ10番がエースなのか?である

先にも述べたが、大前提は得点を良く決めるエースであったことである。1850年ころのルールの統一もまだ行われていない時代やFIFA の設立(1904年)のころはまだ現在のようなメディアも発達しておらず、限られた地域で、そのご当地スターはいたにせよ、世界的スターの出現はもっと時代を待たなければならなかった。1958年スウェーデンワールドカップの時のペレでさえ背番号17番であり若干17歳であった。まだまだ神様になっていないころである。

1974年にアベランジェ氏(ブラジル)がFIFA会長になって初めてマーケティングに力を入れだしたFIFAはそれまでは伝統と格式のイングランド出身の元教師であったスタンリー・ラウスから全く違う路線を歩みだしたのである。オフィシャルスポンサーをつけTV放映権を売却することでメディアにサッカーを載せ、全世界に普及させると同時に潤沢な資金をFIFA内に残していったのである。これが1974年西ドイツワールドカップのころ、アベランジェ氏が会長に就任してからの話である。

ポジション移動の事実

システムの変遷史をもう一度見てほしい。1974年は4-3-3システムから4-4-2システムへの変換期である。そして当時から背番号は野球のポジションのごとく、ディフェンダーからフォワードにかけて、そして左サイドより背番号をつけるのが習慣であった。つまり4-3-3-に当てはめると下記になる。それが4-4-2システムになると右側のように変わっていているのである。

となる。先にも述べたようにFWを2人に減らす時代のときに下がって行ったのが技術的にも秀でたエース、すなわち10番の選手であった。

こうして時代と共に変わって行ったシステムに対して背番号というものは大きな関係を持って今日に至っている。今でもなんとなく名残がある番号は多い。たとえば2、3はストッパー、ディフェンダーが多い。6はディフェンシブハーフが多く、7はサイドの選手が多い。11はフォワード、しかもスピードのあるタイプで昔で言うウィングタイプの選手が多い。これは今でもそうである。

少年サッカーではWMシステムがサッカーを学ぶには良い、と言われているがなぜだかわかりますか?

では次回はWMシステムの話しをしよう。

まとちかサッカー日記 :2004年Lリーグ開幕2004-06-13

2004年6月13日(日)快晴

 6月13日(日)梅雨時期とは思えないカラッとした気持ちの良い快晴の今日、2004年Lリーグが開幕しました。Lリーグは、去年まで前期は西日本、東日本に分かれてリーグを行い、その順位で後期リーグを行って日本一を決めていましたが、今年からはL1、L2に分かれてリーグを行う形に変わりました。

 L1、L2に分かれて、私にとって残念なのは、私がサッカーを始めたきっかけを作ってくれた幼なじみが今、岡山の湯の郷でプレーをしていて、その湯の郷はL2なんです。だから田崎ペルーレと試合をすることがなくなってしまい、彼女の試合を見に行く機会がなくなってしまいました。去年初のリーグ優勝をした田崎はもちろんL1で、第1節の開幕戦はホームのユニバーで宝塚バニーズとの試合でした。

 元々この開幕戦を見に行く予定にしていたのですが、ちょうど前座試合で小学生女子の市選抜と県トレセンが対戦することになって、私はその審判で呼ばれて、行くことになりました。集合時間がちょうど開門時間と一緒で、11時に行くと、さすが去年優勝した上、五輪代表を5人も出しているチームだけあって、予想以上の人が来ていました。

 地下鉄で「総合運動公園駅」に向かう時、電車に途中から乗ってきた少女のチームが、ジャージ姿で大きなカバンを持っている私を見て、「選手かなー?声かけてみようよ。サインほし~」とひそひそ話してるのが聞こえました。「今から試合の選手が電車に乗ってるわけないやん!」と思いながら、少し恥ずかしくなって声を掛けられないようにそそくさと逃げました(汗)

 準備にバタバタしながら、前座試合が始まりました。私はヴィッセルガールをしていた時から、スタンドに観客の入っているピッチに立つと、緊張ではなく変に胸が高まります。きっと選手もこんな気持ちだから、たくさんの人に見に来てほしいのだろうなと思いながら、久々にユニバーのピッチに下りて上を見上げました。

 いくら小学生とはいえ、11人制では、せまいハーフコートでやりにくかったですが、無事終了しました。スタンドに戻る時、この後のLリーグの審判をする人たちとすれ違ったのですが、副審をする2人は私の知っている人で、中でもその1人は、去年私が落ちてしまったペーパーテストを一緒に受けに行き、見事1発合格し去年2級に上がった人でした。元々サッカー部のマネージャーをしていたらしく、すごく真面目で一生懸命な人です。お互い国体を目指し頑張ってきた彼女がこの試合の副審・・。私もあのペーパーテストに受かっていれば、今日一緒にやっていたかもしれません。1歩出遅れましたが早く同じピッチに立てるように頑張ろうと思いながら、この試合を見ていました。

まとちかサッカー日記 :祝!2級昇進!!2004-06-12

2004年6月12日(土)雨

 皆様、お待たせしました。私、この度ようやく2級審判に合格しました。

 長かった!?この道のり、私が1番つまずいたのは、やっぱりペーパーテストではないでしょうか・・・(汗)3月に無事ペーパーテストも終わり、5月23日に最後の実技テストを控えていたわけですが、その前にもう1度走力テストをしなければならなくなってしまいました。

 5月は雨が多く、予定していた日程がことごとく雨で中止になってしまい、結局実技テストの前日に走りました。この日はとても体調がよかったのと、「ウィダーインゼリーを飲むとしんどくなった時にもうひと頑張りできるよ」とある人から教えてもらって、走る30分前に飲んでみたのが効いたか!?自己ベストの2480m走れ、無事走力クリアしました。

 次の日に実技テストを控えていたので筋肉痛など心配していたのですが、それもなく、天候も曇りがちで動きやすい、絶好のテスト日和をむかえました。試合は関西女子大学リーグの武庫川女子大VS大阪市大の主審と、近畿福祉大VS立命館大の副審の2試合で、関西協会から2人、私の採点をする方もやってきて、私はめずらしく少し緊張していました。

 主審を務めた1試合目、うわさには聞いていましたが、大阪市大はそれほど強くなく、武庫川女子大の一方的な試合になりました。一緒に組んだ副審が今までよく組んでいた人だったのと、一方的な試合のわりにはどちらのチームも最後まで一生懸命戦っていたのが、私の気持ちを平常心にさせ、いつも通りとても楽しくできました。おかげで副審を務めた2試合目も落ち着いてできました。

 2試合が終わり、その後関西協会の方から良かった点やこれからの課題などをいろいろお話していただきました。後は結果を待つのみです。「1週間ぐらいででるから・・・」と言われたのに1週間経っても連絡は無く、「ダメだったのかなー」と少し不安になってきたのですが、今日12日、ようやく連絡が入り無事合格!!応援してくださった皆様本当にありがとうございます。

 三井ゆりの3級を抜いたことに満足しないで(これは冗談ですが)これから2006年の兵庫国体に向けてがんばります。2級になると、見る側の目、選手の目、そして自分自身きびしくなりますが、プレッシャーに負けず、「両チームにいい試合をしてほしいために」という自分のモットーを忘れず頑張っていきます。

サッカーとハート :神戸市協会技術委員会改革2004-05-18

2004年度から指導者の資格制度が変更になる。日本サッカー協会公認指導者資格をお持ちの方はサッカー協会から詳しい案内・届出用紙などが送られてくるためご存知であろう。しかしながら資格をお持ちでない方や、指導者以外の方法でサッカーを楽しんでおられる方々は、サッカーの指導者の仕組みが変更になることなど知る機会がないのではないか?ましてや神戸市サッカー協会が、この2004年度の年度替りから4種指導者に向けていくつかの改革を実行することは知る由もないのではないだろうか?

今回はそういったお話をしようと思う。

JFA指導者養成事業改革

日本サッカー協会の指導者制度は近年急速に整備され、内容も充実し、実際に資格を取得される方が急増している。2003年度11月現在で公認S級166人、公認A級100人、公認B級478人、公認C級1,183人、地域スポーツ指導員C級9,959人、公認準指導員8,981人、公認少年少女サッカー指導員18,228人の登録となっている。しかしこれに満足することなく、こういった指導者達と、将来の方向性を共有しベクトルを合わせること、指導者たちの活動の場を広げること、再教育の機会充実などの環境整備を推し進めることを目標に日本サッカー協会は2004年度より大改革に着手したのである。

大きな改革のポイントはライセンス制度の変更、指導者登録制度の導入(コンピューターで登録管理し登録の簡略化、情報の共有・交換の提供)、リフレッシュ研修会のポイント制導入、GKコーチングコースの開催、2015年以降の日本サッカー界充実に向けてのキッズリーダーコースの開催である。JFAは世界のトップ10入りを新たな目標に掲げ走り出したと言うことである。

コーチングスクールの歴史

では今でこそ充実したシステマチックな制度だが、こういったシステムができていく過程はどうだったのだろうか?下記は日本のコーチングスクールの変遷史である。

1960年 日本の代表選手初の欧州遠征で、デッドマール・クラマー氏のトレーニングを受ける。10月、クラマー氏初来日。
1969年 7月より3ヶ月にわたって、FIFAコーチングスクールを検見川グラウンド(千葉県)で開催。アジア13カ国から42人(日本人12人)が集まる。
1970年 第1回コーチングスクールを開講。
1971年 「公認リーダー」の養成を開始。
1977年 日本体育協会・公認スポーツ指導者制度(旧制度)創設。日本サッカー協会ではこの制度に準ずる形で「リーダー→コーチ→上級コーチ」の図式を完成。
1987年 文部省が「社会体育指導者の資格付与制度」をスタート
1988年 日本体育協会「社会体育指導者の資格付与制度」創設により、公認スポーツ指導者制度を改革、新制度をスタート。日本サッカー協会ではこの制度に準ずる形で「公認C級コーチ→公認B級コーチ→公認A級コーチ」の図式を完成させる。
1991年 都道府県レベルでの指導者不足や少年・少女への指導を充実させる目的で、独自に「公認準指導員」資格を創設、養成講習会をスタート。
1992年 93年のプロサッカーリーグスタートを控え、プロチーム・選手を対象にした「S級コース」のライセンスを日本サッカー協会独自に創設。
1994年 5年間で公認準指導員を9,000人要請することを目的に「公認準指導員、5カ年計画をスタート。
1996年 S級ライセンス取得者(S級コーチ)のさらなる資質の向上を図るため、筑波大学大学院にJリーグと共同で「寄附講座」を開設。
1997年 サッカー指導者の質・量の確保を目的に、日本サッカー協会独自のライセンス「公認少年・少女サッカー指導員」を創設、養成講習会をスタートさせる。
1998年 インストラクター制度スタート。「公認B級コーチ養成講習会」「公認C級コーチ養成講習会」の講師(インストラクター)の養成を開始。
2000年 「公認少年・少女サッカー養成講習会」「公認準指導員養成講習会」の講師(インストラクター)の養成を開始。

こういった歴史を踏まえ、現在のコーチングスクールが形成されていったのである。
1992年に私が公認C級、現在のB級を受講したときはJリーグ開幕の前年でコーチングスクールの旧態依然とした体系からの脱却の時期であった。現在はJヴィレッジや千葉のエアロビクスセンター、千歳キロロリゾート、宮崎シーガイアなど環境の整った、いわゆるオンとオフの区別のつけやすい環境での講習会が当たり前となっているが、当時は検見川合宿所であった。ちなみに検見川合宿所の説明を少しすると、そこは日本サッカー界のメッカであり、検見川を知らないものはサッカー人ではないとさえ言われた(?)極悪環境で有名なところであった。そもそもそこは千葉の検見川と言うところにある東大の施設であり、ゴルフコースのある広大な敷地でアップダウンのきついそれはもう走る(鍛える?)には打って付けの場所であった。日本代表やユース代表は必ずそこで合宿をしていた。当時はそういった環境に耐えてこそ一人前と言われ、今となれば苦しかったが懐かしい体験だった。なんせボールや用具の運搬当番を決めていたにもかかわらず必ず宿舎を出るときは何かが取り残されており、最年少の私はアップダウンのきつい検見川を何往復もして講習会用の用具を取りに行ったものだった。片道600〜700Mを何往復も・・・。そして今はA級を取得できた・・・。

再研修の必要性

そういった旧態依然とした講習会もやがて田嶋幸三氏の出現により改革されていった。現在行われているカリキュラム、システムの祖にS級講師ゲロ・ビザンツ氏(ドイツ)がいる。ビザンツ氏を招聘しS級指導者を養成するとともにコーチングスクールのカリキュラム作成に力をいれてきた。それから10年近くたった昨今、資格取得者は前出のとおり増加の一方だが、反面資格を取得した指導者の再研修がおろそかになりだした。
日本サッカー協会は資格を取ったら終わりではなく再研修を重ね常に学ぶ姿勢を絶やさないようにとアナウンスしている。資格更新には4年で40ポイントを上げることが義務つけられている。旧指導資格と改革後の指導資格の対比をしてみると

資格更新に必要なポイント
公認S級 公認S級 2年間 40ポイント
公認A級 公認A級 4年間 40ポイント
公認B級 公認A級 4年間 40ポイント
公認C級 公認B級 4年間 40ポイント
地域スポーツ指導員B級 公認C級 4年間 40ポイント
地域スポーツ指導員C級 公認C級 4年間 40ポイント
公認準指導員 公認C級 4年間 40ポイント
公認少年少女サッカー指導員 公認D級 なし

となっている。
日本協会はエメ・ジャケ氏の言葉を借りて啓蒙している。
“学ぶことをやめたら指導することをやめなければならない”・・・と。

神戸の現状は

神戸市サッカー協会では開催してからすでに30年近くはたっているだろう“神戸市指導者講習会初級コース”と“神戸市指導者講習会中級コース”といわれる独自の少年サッカー指導者の講習会が存在する。神戸・兵庫のサッカーを支えてきた先輩たちが独自の視点で本当に初心者のお父さんコーチから少し自分でサッカーの経験のある指導者など様々な環境の指導者を対象に開催してきたのである。数年前より日本サッカー協会主催の少年少女サッカー指導員資格が開催されだすと内容も少しずつ変えていき現在も継続して開催している。受講者も増え充実度は増してきた。

しかしながらこれらの少年少女指導員は日本協会が、初級コース・中級コースは神戸市協会が再研修を義務つけてきたかと言えばそうではない。日本協会が資格の再研修を義務つけるようにしていった状況にもれず神戸市協会内でも十何年も前に初級コースを受講して以来、まったく学ぶことなく独自の感覚のみで現在も指導をしている人がいることは事実であり、それはまた非常に危険なことであると感じてきた。その人が悪いとかよいとか言うのではない。とにかく聞く耳、受け入れる心を持って自分のサッカーを振り返る、外部の情報にヒントを見つけようとする姿勢がなければ子供が不幸である。
そこで、少年少女指導員、現在で言う公認D級と初級コース、中級コースの再研修を2年に1回は受けるように義務つける決議がこのたび神戸市サッカー協会4種委員会総会にてなされ、実施されることになった。

初級・中級コースと再研修会の複数開催

しかし、神戸市サッカー協会4種委員会のみでこの事業を展開することは難しい。そこで市協会技術委員会がタイアップしてこの事業を推し進めることになった。

まず、初級コース・中級コースがそれぞれ年1回ずつの開催であったのを上半期1回、下半期1回に増やし、同時に市内東西南北4地区にて各1回ずつを加え合計初級コース6回・中級コース6回を開催することとした。これはまず新規受講者の拡大を目指し広くサッカー指導者の増大を願ってのことである。

そして、日本サッカー協会公認S、A、B、C級コーチならびに2003年度初級コース修了者をのぞき初級コースを過去受講した指導者を対象に再研修(リフレッシュ講習会)を行うこととした。規定としては

☆リフレッシュ講習会を2年間で4単位以上を受講しなければならない。単位数は下記の通り。
(1)トレセン指導者研修会参加2時間(実技見学のみ) …1単位
(2)選抜練習会実技と講義参加4時間(実技見学と講義)…2単位
(3)神戸市サッカー協会公認リフレッシュ講習会参加2時間につき1単位
例)2004年度に初級コースに合格した者は合格した日から2007年3月31日まで資格が
有効となる。この間に4単位以上のリフレッシュ講習会を受講すれば2007年4月1日から2009年3月31日までの資格が有効となる。

を制定した。

再研修(リフレッシュ講習会)をもう少し具体的にすると
(1):土日コース …1単位   神戸市選抜練習会(毎月第2・4土曜日・小野浜球技場)の練習見学のみ
(2):土日コース …2単位   神戸市選抜練習会見学と講義をセット
(3):平日コース�…1単位   毎月第2金曜日19:00三宮磯上球技場で開催する神戸FAコーチングスクール(旧トレセンスタッフコーチングスクール)への参加
平日コース�…2単位   市内東西南北4地区にて1回ずつ開催を企画

を考えており、いずれかの研修に参加することで必要単位を取得し更新してもらうと言うことである。実際に多数開催は大変な事業である。しかしこうやって多数開催し、神戸の少年少女サッカーの指導者を増やし、勉強する機会を提供することが子供たちの幸せなサッカーライフにつながるのであれば言うことない。

一方でこういった事業を展開するためにはインストラクターとなる講師陣を充実させなければならない。そこで技術委員長任命として21名のインストラクターを養成することとした。基本としては新公認資格で言えばB級以上を基本として数名のC級を交えて編成した。それらのインストラクターの教育とベクトル合わせを行うために下記のような規定を策定した。

☆神戸市サッカー協会少年少女指導者公認インストラクター
(イ) 初級コース、リフレッシュ講習会を開催するインストラクターを養成する。
(ウ) インストラクターは6月5日、6日に開催されるインストラクター研修会を受講しなければならない。
(エ) インストラクターの任期は1年とする。
(オ) インストラクターは日本サッカー協会公認S、A、B、C級コーチ資格を有する者が行う。

とし各講習会・再研修会へインストラクターが赴き開催するように計画している。実際にインストラクターの方々に支払う謝礼がない。できれば研修に際しては参加費を徴収して必要経費を計上していきたいと考えている。何かとお金がいることばかりでサッカー界は何を考えている?お金を取りすぎだ!という意見もあろう。しかし物事の充実には経費が必要である。これはすべて子供のためと理解をいただきたい。

技術委員長として感じたこと

2004年度から技術委員長に就任することになったのだが、さて何をどうやって神戸のサッカーを、ひいては兵庫県のサッカーのレベル向上に寄与できるか考えたまず一つ目がこういった事業である。私一人ですべてをやってきたわけではないのでお間違え無い様にしていただきたいのだが、まずはこうやって4種委員会が再研修の必要性を感じ動き出し、動いたことに敬意を表したい。インストラクターに就任していただく方々も快く引き受けていただき感謝している。5月14日(金)に2004年度第1回神戸FAコーチングスクールを開催した。77名の参加を頂き、過去最高参加者数だった。先般のスクールを経て感じた。インストラクターだの技術委員長だのと言っても結局は我々も指導者の皆さんに育てていただいているのであると言う思いがした。そういった77名もの指導者の前でしっかり話をさせていただく機会はそうそうないのであるから。やはり日々勉強である。私も偉そうにいろいろ話をしているが本当に皆のためになっている・・・?

ぜひ皆さんかえら感想をいただきたいとおもっている。協会へメールください。ホームページから書き込みできます。このコラムの感想もあればぜひ!

まとちかサッカー日記 :勝運!?2004-05-10

2004年5月ゴールデンウィーク

 皆さんこんにちは!ゴールデンウィークはどのように過ごされましたか?私は相も変わらずサッカー三昧でしたが、4日は雨で少年リーグが中止になり、ゆっくりできました。

 去年の6年生を卒業で見送った後、4月から新5年生の担当となり、新しいチーム作りにがんばってます。毎年神戸FCのサッカースクールは5年生からリーグ登録を始めるので、4年生まではスクール内でのミニゲームで試合をしています。だから5年生になって初めていろんなチームと対外試合をするので、前期のリーグは大敗がほとんどで、細かいルールやポジション、戦術などを夏までに少しずつ教えていき、後期のリーグでは少しサッカーらしくなっていきます。ただ(5,6年生の)2年間しかリーグ戦に参加してないわりには、6年生になると(去年担当していたチームのように)素直な子たちで吸収も早く、かなりおもしろいチームになり個々も急成長します。だからその分、教えがいもあって、指導者にはまってしまった私です・・。

 そんなわけで、4月からリーグ戦が始まったのですが、リーグ戦1戦目、私は勝てるなんて気持ちは正直こっれっぽちも無く、「8人制のサッカーを体験してもらおう」という気持ちでのぞんだのですが、なんと2-1で勝ってしまいました。その日の2試合目はうちの6年Bチームと試合だったので「6年生に勝つのはさすがに難しいよなー」と思いながらも、6年の方も「5年に負けたら六甲アイランドから走って帰らす!」といってカツをいれてたので、私は「6年、負けたら走って帰らなあかんらしいから、がんばって勝って走らそかー!」とモチベーションをあげたら、前半から勢いが良く、この試合も4-2で勝ってしまいました。(実際には6年生を走らしたりしてませんよ…笑)こんな感じで勢い良く5月2日のリーグ戦3試合目も勝ってしまいました。(さすがに4試合目は負けましたが・・・)

 ヴィッセル神戸でも去年は見に行くたびに負けて「私って疫病神かな?」と真剣に気にしたこともありましたが、今年は初戦の市原戦も内容的には負け試合での勝利!そのあとの試合でもホームで負け無しと、今年はなんだか自分に少し勝ち運があるのかなーと錯覚している今日この頃でした・・・。

サッカーとハート :環境に染まる事が上達?2004-04-10

まずは恒例の言い訳から・・・

いや、本当に長い期間コラムを書けずにいて申し訳ない気持ちで一杯である。この間にいろいろな事があったのだが、どうも他のことに気をとられ、パソコンに向かって落ち着いて自分の思いを綴れなかった。おそらくひと時に仕事が集中してしまい、私のキャパではそれらを消化しきれなかったのだろう。県クラブ・ユース・サッカー連盟の総会の準備、神戸市技術委員会の改革(新技術委員長就任に伴う所信表明とその実行、4種年代指導者のコーチング資格リフレッシュ義務化etc)、2006年国体関係(2006年兵庫国体のスタッフ選考)、我が大学のスキー実習及びサッカー部の進入部員受け入れ準備とリーグに向けてのチーム作りなど、年度替りに集中しそうな仕事がかたまってしまった。少々バテ気味ではあるが何とか新年度を迎えられそうなところまで漕ぎ着けた。言い訳はともかく・・・・。

何からはなしをしようか・・・。

スキー実習の成果

2月14日・15日のJFAインストラクター研修が終わってから、その日の22:00梅田発の夜行バスで長野の戸隠高原まで行った。大学のスキー実習が例年のごとく行われたのだった。学生は16日の22:00に姫路を出て、翌17日の早朝に戸隠に着くというスケジュール。一方教員は事前にコースの下見をするために前々日の15日の内に現地入りし、翌16日に下見をすることになっていた。だが私は研修があったので先発スタッフを追いかける形で夜行バスに乗っていき、16日の早朝7:00に現地に着いて仮眠をすることもなく9:00発16:00帰りの下見ツアーにでかけた。

今年の実習は“歩くスキー”と言うジャンルのものを担当した。来年以降、私は一人で10人くらいの班を受け持つことになるため今年はその引継ぎを兼ねてある先生について行動した。“歩くスキー”と言うとなんとなく楽そうなイメージがあるだろうが、実は結構大変なのである。履く板はクロスカントリー用のスキーで靴もクロカン用であり、踵が固定されていない、つま先だけが板に引っ付いている状態のスキーである。アルペン用のスキー板に比べたら幅は細く、エッジがついていないため操作が難しい。加えて私が戸隠に向かった15日の夜中はかなりの降雪であったため、16日の下見の日は膝上まである新雪の中を一歩一歩踏みしめ歩いていかなければならなかった。まるでモモ上げ前進である。実際には3メートル弱の積雪である。スキーを履いているために膝上くらいまで埋まるだけですむのだが、一旦板をはずそうものならズボズボっと足は埋まっていくし、転んだりしたら大変である。ストックは支えにならない上に、起き上がるとき手を付いても埋まっていく。立つのは困難を極める。

そう、歩くスキーとはゲレンデが活動場所ではないのである。林や森といった道なき道をどんどん開拓して歩いて回り、日頃見ることのない風景や動植物、自然を探索していく活動なのである。それらを見て何になる?といった感じがしないでもない。しかし、経験して見るとわかる。自然の中に入ると摩訶不思議な世界が待っている。音もなく静かである。誰も入った事のない森の中を自分のスキーの跡だけがついていく。よくよく注意をしてみると、ウサギや狸の足跡が新雪に付いていたり、熊が秋に木の実を食べるために木に登った時の爪の後などを見る事が出来る。写真はかなりの積雪のおかげで、日頃頭上高くにしか見ることのできない鳥居が目線にある風景である。またウサギの足跡と熊の爪あとである。動物によって足跡は特徴がありすぐわかる。ウサギは後ろ足が前足より前に着地するのでわかりやすい。

昨年は雪中一泊体験をした。本当に物音一つしない外に昼間に作った寝床(縦・横穴式住居、自分で自分の命を守る穴を掘るのである)に一人で寝る体験は、わが身を振り返らせる。今回はグループでの行動とは言え、誰もいない森の中にコンパスを持って方向を調べながら進んでいく。もちろん事前に下見をした私たちは目印を道中の木々につけ、大体コースを見ては来ている。しかし建物とかの目印があるわけではない。似たような景色がずっと続くのである。今回のように天気がよければまだ良いのだが、もし吹雪いていようものなら、下見でつけた我々の目印さえも当てにはならない。山の中で迷ってしまう危険性もある。学生にとっては大変な作業である。

そうやって日々の生活の安全性や便利な生活への感謝を感じること、個人・友人のありがたさを感じること、自分で自分の状況を切り開いていくことなどを体験してもらうのが狙いである。結局プログラムが全て終了して帰る日には学生たちは口をそろえて言う、「来てよかった」「また行きたい」「自分を振り返られた」と。

上海文化はアジア文化 日本文化ではない

近頃の子供たちは「自分では何も出来ない」「自分で自分のことをする事が出来ない」「人任せだ」などと聞く。いやいやそんなことはない。要はさせてない、する機会がないだけである。実は3月26日から30日まで神戸市U-12選抜(4月から中学1年生になる年代)の上海キャンプに帯同した。どちらかと言うと子供たちに中学のサッカーへの準備、指導者の視察、技術委員長としての上海との顔つなぎを主たる業務としていったのだが、サッカーの内容の詳細は次号に掲載するとして、中国と言う国を見て感じたことの一つが次のことである。

よく言われる“欧米人は自己主張が強い。アジア人は自己主張をしない”ということは違うのではないかということである。つまり自己主張をしないというのはアジア人という括りではなく日本人だけではないか、そんな気がしたのである。韓国人も中国人も遠慮はない。遠慮がないといっても社会生活の中で目上を敬う、ものを譲ると言ったことは当然日本のように、いや日本以上に持ち得ている。そういうこととは別に、日常生活における交通ルールだとか信号を待つだとか車の運転のしかたなどに見られる独特の“遠慮”である。何せ車の鼻先5センチを割り込ませたら、そこにはすでにルールが成立しているのである。割り込まれたほうも割り込まれまいと粘るのだが、入られたらしょうがない。そんな感じである。今中国では高速等の合流地点では、1台ずつ交互に入って行こうキャンペーンをしていると言う。基本的には割り込みをされてしまうのか、それともさせないようにするのか必死なのである。そういったことをはじめとして道路の横断は信号が有ろうと無かろうと、車が来ようが来まいが渡るのである。しかも現地の通訳の顧(コ)氏に言わせれば、「車が来るからといって走って渡ってはいけない」と言うのである。走るとその分、車がスピードを上げてくるらしい。だから街中はやたらとクラクションが鳴っている。騒々しいのである。人のことはお構いなし、自分の都合なのである。関空について三宮まで帰ってくる時、「なんと静かで、きちんと交通ルールを守った、理路整然と車を走らせる国なんだ!」と感じた。

サッカーに向いてる文化?

話はそれていったが、つまりそんな国に行けば行ったで、神戸の子供たちも車に轢かれないようによく周りを見て注意しているし、信号が無くても6車線くらいの道を渡っていくのである。自分で自分をコントロールしているのである。日本の教育は「右見て、左見て、もう一度右見て手を上げて渡る」のが社会生活の最初に教わる基本である。そんなことは中国、韓国、香港、イタリア、ドイツ、ベルギー、ブラジル何処にも無いように見受けられるのである。日本以外の国々はいちいちルールを遵守することをせず、要は事故が起こらなければ良い、見つからなければ良いといった精神である。これは日本社会では最も嫌われる教えではないだろうか。(嫌うのはうちの嫁さんかな?)

サッカーをする上でよく“ハングリー精神”などと言うが先の交通ルールの実態と照らし合わせてみると、ハングリーな環境でないのは日本だけのような気がする。サッカーの競技の特性として周りを見る必要性、周囲の情報収集といった事がよく言われるが、これすなわち日本以外の国々は得意分野であり、日本は極めてそのことに逆行した生活環境であるといわざるを得ない。そう思えないだろうか?外国では常に周りを見て車の動向を考え「隙有らば渡るぞ」としている文化なのである。物心付いたらそんな環境で育っているのである。日本は車が来なくても信号の色で物事の判断基準はゆだねられる。ましてやサッカーに限らず、大学生にいまさら自然に帰って自分で自分のことをするなんてことを教えているようでは・・・。本来スキー実習で行うようなことは小さい頃より訓練されていかなければならないことなのかもしれない。ただ今の現実問題としてそれでも大学生に実習経験をさせることは大いなる意義があるのは事実である。

だからせめてサッカーのトレーニングでは自分で判断すること、自分で考えること、自分で考えるといっても無から考えはなかなか発展しないのでいくつかの方法を明示して考えさせること、言い換えれば選択能力を向上させていく要素を取り入れなければならない。今してよいのか悪いのか?していけないのはなぜ?してよいのはどんなとき?こういう状況ではじゃあどんな技がいい?といったことである。社会のルール、交通文化はもう変えられないので教育の現場と家庭の教育、サッカーのトレーニングで子供たちを変えていかなければならない。我々指導者は大きな責任を担っているのである。