サッカーとハート :ユニット的考えの薦め2003-11-07

我がごとの話しを今回も引き続いて・・・。

過日、10月25日を持って2003年度関西学生サッカー秋季リーグ・2部Bブロックが終了した。
我が姫路獨協大学体育会サッカー部は春季リーグにおいて2部自動昇格を果たしたことによりサッカー部創設依頼初の2部リーグを秋季に経験した。
結果は3勝3敗3分、勝点12で第6位となった。

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初陣のトライ

 

創部以来初の2部リーグを経験した我がチームのメンバー構成は3回生5人、2回生2人、1回生14人、マネージャー5人の計26人の部員。加えて実は今年の春に新入生を迎え入れてやっと11人以上のチームになったという事実がある。そのことを思えば春季リーグにおける3部総合優勝(A~Dブロック1位4チームでの順位戦にて優勝)、2部昇格はよく頑張ったと言える。

だが、この2部昇格劇は裏返せば秋季リーグに向けて補強無しで2部というワンランク上の舞台を戦えということである。つまり年度替りのときのように新入選手の力を借りることができないのである。本当に2部を戦えるのか?1部昇格どころか残留できるのか・・・?そんな思いをよぎらせながら7月、8月と準備をしていった。

2部リーグの相手に対して何が出来る?

 

2部リーグはA、Bと10チームずつ2ブロックで行われ、前季(秋季リーグで言えば春季リーグ)の順位を元に10チームをランキング付けする。1部から降格してきたチーム(降格したとはいえ実力は1部レベルであるからして)をランク1とし、1部との入れ替え戦にまで進出したがおしくも敗れ2部に残留したチームをランク2、以降は前季の成績によりランク3、ランク4と続いていく。我々は3部優勝で自動昇格をしたもののランク9、しかし自動昇格でなく入れ替え戦において昇格したチームはわれわれより下位とされ最後のランク10位と位置付けられた。

リーグ戦というものは対戦していく順番というものが実は重要なウェイトを占めている。今回は初戦がランク2(大阪教育大学)、第2戦がランク1(京都産業大学)といきなり強豪校との対戦が組まれた。しかし3戦目からは逆にランク10(大経法大)、ランク8位(佛教大)、ランク7位(神戸商科大)、ランク6位(大谷大)、ランク5位(神戸大)、ランク4位(龍谷大)、ランク3位(奈良産業大)と対戦していった。

その状況に合わせて私が戦前に選手たちに対して言ったことは

  • トーナメントでなくリーグ戦であることをよく考えること
  • リーグにおいては如何に負けないことを徹底するかが大切だということ
  • 9試合の試合をユニット分けして目標値をはっきりさせること

勝点3を取るべき相手と勝点1でも獲得すれば良しとする相手を区別してその相手別に試合展開を考え準備するという考え方、習慣の会得

  • 勝ちをものにする、勝ちを逃がさないために物事をやり通す力を付ける
  • 1対1の守備力向上

をあげた。はっきり言って今回はこれ以外何もしていない。

2部リーグで何を学ぶ

「対戦相手がどこであれ自分たちの持っている力を試合で出す」ということと「相手によってやり方を変えていく」ということをバランスよく実践していくということは指導者としてかなり頭を悩ますところではないだろうか。公式戦なら負けたくない思いが大きくのしかかり敗戦を覚悟してまで“経験”を優先させるということをチョイス出来るだろうか?こう言った割り切り、言い換えれば思い切った事というものを実際には実践出来ないと悩む。と言いつつも勝つために対戦する相手に対応して自分たちの戦い方を器用に変えていくといったことが出来るというわけでもないだろう。出場する選手の経験値により、やれる事とやれないことが限られるのであるから・・・。しかしながらどこかでそういったことも指導していかなければならない。出来るとか出来ないとかは別としてもそういったことが実践できる能力を身に付けさせる、または身に付かないまでもそういった考え方をしていくと言う事が必要だということをわからせる指導をしていかなければならない。
我がチームの選手たちが全員私の言うことを理解しており、それ相当の経験を私が選手全員にさせてきているかというとそうではないかもしれない。証拠に我がチームにおいても一分も出場していない選手もいる。リーグの状況(現時点で何勝何敗か?次の試合まで何日空いているか?など)、背景(前節良い試合が出来ていたか?今日は雨か?相手は前節調子を上げてきていたか?など)、選手を育てていく上でのプロセス上の課題、相手チームの状況、試合をしていく上での背景を考え、我が選手のやれる事とやれないことを整理し、やれるだろう人間がやれるだろう事をやってみて、その結果として評価をし、先発とリザーブ、エントリー外の選手が試合毎に決まる。しかしそれは一時的なことであり試合毎に変わるというのも事実である。日々、個人的に変化をしていきリザーブに、そして先発へと名を連ねてくることは当然期待している事であり、そうあってもらわねば困るのだ。

今回、第1,2戦の上位ランクとの連戦をマックス勝点6のところ(当然6取れればよいのだが)何とか2ないしは3を取ろうと言い、第1ユニットとして括り準備をした。常時7名は1回生が先発出場する我がチームはどうしても経験が不足している。最終ラインセンターを3回生で占め安定性を高めてはいるが・・・。私はこの経験の少ないチームに対して経験を積ませる事を第1優先課題としてずっと考えてきていると同時にどうしても3部降格を避けたいという思いを持っていた。この相反する思いを両方会得する術はないかと考えた結論が1対1の反復とやり遂げる強さの向上であった。

プラン

第1ユニットの2試合を両試合とも引き分けで乗り切り勝点を予定通り2点獲得した事は結局大きな自信となったのだが、緒戦と第2戦においてメンバーを半分入れ替えての勝ち点2であったことが大きい。緒戦のリザーブ選手はリザーブでなくなるというチーム内の競争を生んだのだから。この競争が第2ユニットと位置付けた次の4試合の初戦、通算で言えばリーグ第3戦の勝利につながった。これは記念すべき2部初勝利となった。2部昇格順位戦決勝にて1-0で勝利した大経法大にリベンジされないというモチベートで返り討ちにあわせた。

人間はまさかと思うことを成し遂げた後や自分の持っている力を目一杯出し切った後というのは達成感というものを覚えてくることを証明したのが通算第4戦の佛教大戦。前半開始早々のなんでもない縦パスに誰一人付いていけない。失点後攻め立てるも精度が低くサポートも遅い、切り替えも遅いとまったく良い所が出てこない。それはひどい試合だった。しかし、第3戦までに見られた緊張の連続の試合を狙い通りに進めてくれば自分たちが「結構上手いのでは」と思うのも無理はない。何せ経験がないのだから・・・。結果的にはこれも自分達の気を引き締めるのに大いに有効なゲームであった。第5戦・神戸商科大戦、第6戦・大谷大戦と勝利をし、勝ち点を11とした。

私は選手たちに「第1・2戦で勝点を2点、第2ユニット4試合で最低勝点9点を取る」というプランを伝えていた。もちろん負けてよいという意味で4試合マックス12点のところを9点でよいと言っている訳ではない。つまり、できるだけ早い時点で(最速で5試合終わった時点)勝点最低11と言う目標を立てたのである。その根拠はこうである。10チームの中で自動降格に該当する最下位は普通、全敗で勝点0点。入れ替え戦に出なくてはならない9位と8位はそれぞれ1勝8敗と2勝7敗と考えられ、勝点で言うと3勝分の9点を獲得すれば残留圏内と考えられる。まあ少し余裕を見て11点というところかというプランである。しかも早く決めてしまえばしまうほど残り試合において思い切った戦い方、トレーニング、経験ができると考えていた。しかし、結果的にはこの第6戦大谷大戦を終えても残留を決めらないどころか最終節まで順位がはっきりせずもつれ込んだ。勝点12点も上げたのに・・・。

最終節、奈良産業大学に終了間際のフリーキックを押し込まれ1-2で敗れた。勝っていればその同日に行われている他の試合結果にかかわらず自力で残留を決められたのだが敗れてしまった。しかし運も味方したのか争っていた大経法大、佛教大がともに破れ我々は結果6位となった。実はこの両校が勝利していたら8位となり入れ替え戦に出なければならなかった。反面、奈良産業大学に勝利していたら4位になる可能性もあったのだからいかに混戦であったかお分かりいただけるであろう。

プランに対する実践

初陣として如何に格上と戦いながら結果を残し、それでいて選手に経験をつませていくか・・・?

それは第1にさせる事が出来るだろう“経験”を欲張らないこと。経験させるといってもありとあらゆることを経験させられるわけではない。相手がいて自分たちがいる。勝ち星など状況もさまざま。何を経験できて何ができないか?私は今回、格上の能力を持った相手選手に一瞬速い反応を持って如何に先手を取れるかと言う点に絞って個々を観察した。そして、一瞬相手に離されず付いていく、そしてそれを何回もやり通す守備の強さを何回も反復し練習、トライさせた。ハンドパスで行う1対1、2対2等など。リーグ開幕前3週間はこのたわいもない1対1の反復練習ばかり行った。結果は必ずしも満足いくものではないがそれでもそれなりに戦えるものだなあと逆に選手たちの奮闘に驚きさえ持っている。やればできるものだと。

リーグも佳境に入れば攻撃の練習などもしていかなければならない。いくつか行ったとは言え結局基本は個々が一瞬速く先手を取ること。そして前出の守備。フォーメーションだのコンビプレーの練習などはリーグ前2ヶ月間を通して全体の2割位だろうか。それでもそこそこの結果が出るのだ。「いや~ そう言うけどそこそこの選手を集めているからでしょう?」って言う人もいるだろう?よければ添付の選手スタッツ、星取表を見ていただきたい。

私が今回言いたいのは長期のプランをもって今を欲張らず、選手に何をするかを理解させ、じっくり練習すること。そのテーマによっては経験と勝利の両方を得る事が出来るということ。

皆さんに私の言いたい事が上手く伝わっているだろうか?良ければ皆さんのご意見聞かせていただきたい。

追伸

皆様から「いつ更新するのか?」毎日ホームページ見なアカンと手間がかかると言うお叱りを頂きました。そこで、11月よりこのコラムを2週に1回アップしていきたいと思います。本当に可能か少し不安ですが・・・大学で論文も書かなければならないもので・・・しかしチャレンジしてみようと思います。第2、第4月曜日にアップと言うことでよろしくお願いします。

そして今回の話題についてとか全体を見渡して私に対する批評とか何でも結構です。ぜひホームページ、私のバナー下の“ご意見ご感想はこちら”と言うところからいただければ幸いです。

まとちかサッカー日記 :久しぶりのLリーグとヴィッセル2連勝!!2003-10-25

2003年10月25日(土)晴天

 今日はヴィッセル神戸2ndステージ第11節、鹿島アントラーズ戦。久々にユニバーでの試合だったので楽しみにしていました。それ以外でもう一つ楽しみだったのは、ヴィッセルの試合の前座試合でLリーグ、田崎ペルーレ対伊賀FCの試合が行われることでした。

 今年は結局Lリーグの試合をまだ1試合も見に行けずだったので、久しぶりのLリーグ観戦でした。田崎ペルーレには、私が神戸FCでプレイしていた時のチームメイトや、その他にも神戸FC出身者、地元のチームでよく知っているメンバーがいるので応援しているのと、先日行われた女子のW杯から帰ってきた代表組もいるので、それも楽しみでした。

 15時キックオフのJリーグの試合ではちょっと早い11時半開門。私もはりきっていきました。田崎の試合を見ていて、友達の得意な所、苦手なところを知っているだけにどきどきして落ち着きませんでした。ヴィッセルサポーターの中にペルーレのサポーターでもある方がいらっしゃるのと、神戸のチームであるということでヴィッセルサポーターは田崎の応援、それに対抗するかのように、伊賀の応援を鹿島サポーターがしていました。

 それを見ていて、以前私が神戸FCでプレイしていた時に広島遠征に行った時に、広島の高校選抜との試合をビックアーチで、サンフレッチェー浦和レッズの前座試合でやらせてもらったことを思いだしました。あんなすごい会場でJの試合の雰囲気を味わって試合をしたのは最初で最後。その時もアウェー側のレッズサポーターが私たち神戸FCの応援をしてくれたのです。田崎の試合は2-0で田崎の勝利!!神戸Wマッチ(田崎、ヴィッセルのホームゲーム)で好スタートです。

 次はヴィッセルの試合ですが、前節のグランパス戦で、GKの掛川選手の好セーブもあり、2ndで初勝利!なんとか今日の鹿島戦にも勝って、2連勝してほしいという気持ちでした。優勝争いをしている強敵鹿島でしたが、去年もユニバーで勝ったので、期待は大!!

 試合は前半ラストのいい時間にカズ選手の相手を背負っての振り向きシュートで先制。後半に播戸選手の得点で2-0。すごくいいムード。最後に1点とられてしまいましたが、2-1で勝利!久々のホームでの勝利にサポーターも選手も最高の盛り上がりでした。今日の神戸Wマッチは、神戸2勝といい1日になりました。

まとちかサッカー日記 :2連覇と新たな課題2003-10-12

2003年10月12日(日)曇り時々雨や晴れ

 10月5日(日)に総合運動公園の球技場で行われたフットサル大会に出場しました。いつも一緒にやらせてもらっているチームに入れてもらって参加したのですが、去年もこのチームでこの大会に出場し、優勝しました。ブロックごとに優勝があるので1等賞!!ではないのですが、参加チームも多いのでやっぱり優勝はうれしかったです。ただ、去年は指導しているKSSのリーグ戦が入っていたため、予選が終わった時点で抜けたので、決勝トーナメントには参加できず、優勝の実感を味わえませんでした。今年も優勝して、今度は一緒に喜びたい!と思っていたのですが、予選リーグでは、大会のレベルが上がったのか、手ごわいブロックに入ったのか、去年以上のメンバーでいってるのに、なかなか苦戦。でもなんとか2連勝して決勝トーナメントに進めました。

 決勝トーナメントの1回戦は、前半リードしていて「いける!」と思ったのですが、後半に追いつかれてPK戦へ・・。相手のキーパーがハンドボールをやっていたらしく好セーブ、こっちも負けずに野球をやっていた人がキーパーで好セーブ!お互いがなかなかゆずらずで、フットサルのPK戦は3人なのに、サドンデスで10人ほどいきました。なんとか勝って、決勝戦に・・。

 決勝戦の相手は私が所属している神戸FCのシニア(男性成人)のチームの人で、よく知っているメンバーでした。相手は3連覇がかかっているらしく、気合も入っている様子。試合は前半リードされていましたが、後半追いつき、Vゴールの延長戦へ・・そして勝ちました!!イエーイ!2連覇です。今回は表彰式まで参加してじっくり優勝を味わえました。が、この日の私の活躍はというと、点をとるため前にしてもらってるにもかかわらず、1点もとれずに終わりました。トホホホ・・・

 そして今日12日は王子競技場で行われていた女子の全国選手権の関西予選に審判で行って来ました。県協会から審判の育成のえらいさんが来ていて、審判陣も緊迫したムード。私はそんな中にいるのが苦手で気を紛らわすかのように、現役時代に出場していたこの大会を、自分の審判の試合まで観戦していました。(もちろん主審の動きも見ながらですよ) 私が主審を務めた試合は、大阪体育大学ー啓明女学院。最近、自分の中で課題だったファールにも少し自身がもてるようになり、細かい注意点はありましたが、自分では、まーいい試合かなと思っていました。ただ、試合後、県協会の方々に評価していただき、かなり厳しいご意見をいただきました。その中で自分の新たな課題にしなければいけないと思ったことは、ファールやスローインなどで、どちらのチームのボールかを指すのが遅いということです。何度か言われた事もあったのですが、自分でそんなに遅いと意識がなかったのと、特にファールのとき、最初にどちらがファールを犯したか考えて冷静にやろうとするとどうしても遅れがちになってしまっていたようです。

 後は姿勢が悪いということで、今はこの身長でよかったと思っているのですが、小学生のころはコンプレックスだったので昔から背筋が曲がっていて今も意識をしていないと曲がってしまいます。タレントの仕事をしだしてから特に気を付けているのですが、所々曲がってしまっているようです。姿勢が悪いと自身がなさそうに見えると言われてしまいました。今は逆に姿勢が悪いのが、コンプレックスになってるのですが・・・。この2点あらためて注意されたことで、次の課題になりそうです。

サッカーとハート :自分の指導とはどんなことをしてきた歴史なのか2003-10-02

少し前に我がチームの指導に関するお話を書いておきながら、続きがそのままになっている号が有る。実はその続きを書かねばと思いながらもついつい違う話題に走ってしまっている。今回こそ、その続きをと思いながらもまたしても違う話題にふれてみる。

実は先日ある方から励ましメールを頂いた。その中でヴィッセル神戸ユース時代の話があればというお話しだったので、今回は少しそういったお話をしたいと思う。

神戸フットボールクラブ時代

私は大学卒業と同時に社団法人神戸フットボールクラブという日本初の社団法人を取得したサッカークラブへ技術職員、つまりコーチとして就職した。前にも述べたと思うが、指導者を志していた私にとって、とても魅力ある機会と思い迷わずお世話になった。それが1986年の4月。1995年にヴィッセル神戸が立ち上がるまで約9年、幼稚園児からベテラン(50歳台、60歳台のサッカーチーム)まで、老若男女問わず指導の現場を経験させてもらった。神戸FCには日本代表コーチを歴任された偉大な指導者、岩谷俊夫氏(故人)や大谷四郎氏(故人)らの教えが息つき生き続け、私にとってはサッカーとは何か?少年サッカーとは何か?と言うことを非常に強く教えていただいた。サッカーを捉える視点は、いつの時代でも多種多様いろいろな視点があるものであり、時代背景によっても当然違いは出てくる。正解なんてものはない。当時の諸先輩方が考えておられた視点、それはそれで大変考えさせられ、刺激を受けた。

私は《一通り知ることが出来るものは知りたい、読めるものは読んでいきたい、頭に入るものは入れていきたい、そこから指導の現場で子供達や選手に話してあげる内容は自分自身が知り得た物の中からチョイスして伝えればよい》と考えている。こう考えるようになったのもたくさんの先達たちが関わり、神戸のみならず日本の少年サッカーをも型作った神戸FCに携われたからであり、目から鱗が剥がれ落ちるような思いをたくさん出来たからこそだと思っている。そう思うと、大人でも子供でも環境というものが成長過程には大切なものであり、また個人の知識欲というものも大切なものなのだと感じている。

前出のお二人は“経験”という、ご自分でプレーされた中から培った視点でのサッカー分析・指導をされていた。それに加え、新聞社にお勤めだった関係上(運動部等でサッカーに関する記事等を書かれ著書も多数ある)考えをまとめたり、それを伝えていく能力に長けておられた。私は岩谷氏とは面識がないのだが、諸先輩方からは伝説のように聞いてきた。

神戸FCで公的な文書、保護者宛の文書、企画書などの書き方を教わり、また新聞の書き方まで教わった。これは紛れもなくこのお二人に代表される神戸FCの歴史・伝統が与えてくれたものだと確信している。現在では賀川浩氏(芦屋在住)が神戸FCの歴史・伝統を継承し次世代では神戸FC創設者の一人である加藤正信氏の次男・加藤寛氏が継承者であろう。彼らは神戸のみならず兵庫、日本のサッカー、少年サッカーの生き字引とでも言える存在である。

皆さんは縦書きの新聞記事で漢数字と洋数字の使用方法の区別がお分かりだろうか?スポーツ紙と一般紙では違うのだが年号、日付、年齢は漢数字(スポーツ紙や運動面は日付は洋数字)であらわし、「国際Aマッチ123試合出場の○○選手が・・・」といった場合は洋数字、競技の記録や売り上げ数字なども洋数字が使われている。

ヴィッセル神戸創設期

1995年4月にヴィッセル神戸は正式に協会登録をして世の中に誕生したのだが、実は1994年の夏以降頃から具体的には準備が進められていた。当時は神戸に本社があるダイエーがメインスポンサーについており「オレンジサッカークラブ」と言う名前の会社を立ち上げ動いていた。ダイエーのカラーのオレンジから付けられた名前であった。私も現ヴィッセル神戸ホームタウン次長・加藤寛氏(前出。神戸FC時代より様々なことを教えていただいた、言わば私のボスであり今現在もヴィッセル神戸に出向中)とともにオレンジサッカークラブ本社(当時ポートアイランド・北埠頭駅すぐ)に足を運びユニフォームの事や下部組織の事などの話に参加していた。

その後、1995年1月の阪神淡路大震災によりダイエーがスポンサーから撤退しオレンジサッカークラブもダイエー社員が撤退したため新たに作り変えることとなった。それに伴いチームカラーもオレンジを使うことをやめ現在のエメラルドグリーンをチームカラーとしたのである。4月から試合が始まろうかと言う直前のこの時期、発注を済ませ、すでに出来上がっているユニフォーム・サッカーパンツ・ストッキングには白と黒の縦縞(現在のチーム基調と同じ)にオレンジのストライプが入っていたのは言うまでもない。しかしながら当然お蔵入りである。現在、当時のユニフォームが新ヴィッセル神戸事務所のミーティングルームに1着飾ってある。

当時、トップチームの選手は川崎製鉄サッカー部の選手が大半であり、倉敷広江で練習を重ねていた。岡山からいよいよ神戸に来て「本格的に始動だ!」と神戸目指し集合し、出発予定の日が1995年1月17日、なんと大震災の日だったのである。選手は岡山に引き返し、神戸からの情報も入らず、「本当にヴィッセル神戸としてリーグに参加できるのか?」といった心配が漂うなか黙々と練習に励んでいた。先日、鳥取SCの塚野氏(当時のヴィッセル神戸の選手)ともそんな話をしたばかりである。現アビスパ福岡監督の松田氏も当時の選手で体験談を話してくれた。

育成部での出来事

一方、私が担当した下部組織はどうだったか? 下部組織は神戸FCのユース、ジュニアユースの選手が移籍する形で発足し、ユースを加藤氏、ジュニアユースを私が担当した。そこへ川鉄のコーチをしていたネルソン松原氏も加わり、ユースは2人体制になった。当時の本社は三宮駅東側の二宮(にのみや)地域にあったのだが、机が三つ、電話が一つだけ置かれただけの1階フロアーに育成部の席が設置された。15メートル四方くらいの、割と広い部屋に机が三つのみである。

震災後グラウンドが一つもない神戸でジュニアユースの選手を抱えていた私は、武庫川河川敷、姫路市内のグラウンド、神戸の西の西神地区での練習と、3ヶ所を巡回指導の形で1月22日に練習を始めた。神戸は震災で大変だとはいえ、それ以外の地域は大きな被害もなく、ごく普通に生活できていた当時、4月から全国大会の予選は予定通り始まっていくのは目に見えていた。何とか子供達に予選に出て試合だけでもさせてやりたいと思い、250ccのバイクを走らせ巡回指導をした。夏は夏で三木市内のグラウンドを借り、朝から中1、中2、中3の3部門を1人で指導した。子供達は入れ替わり立ち替わり、一学年3~4時間くらいの間で数試合をこなし、終われば次の学年がまた数試合・・・。朝からずっとグラウンド・・・。しかも夏の各学年の遠征の企画書、予算書、先方との交渉(皆さんもやられていることですから私だけが特別ではありません)と事務作業は溜まっていく一方・・・。練習試合の審判はしなければならない、先方からは携帯に連絡は入る・・・、夜は会社に帰って残りの事務・・・。結構痩せていた当時の私をお見せしたい・・・気がする。

結局その年の夏、関西の予選で3位となり全国大会へ出場、秋も県中学選手権優勝、高円宮杯関西大会優勝、高円宮杯本大会ベスト8まで勝ち進んだ。この年の子は清水エスパルスの市川選手と同世代の子達で、清水は日本代表U-15選手を多く抱え、圧倒的な強さを誇っていた。我々は、夏の日本クラブユース選手権大会も冬の高円宮杯全日本ユース選手権(U-15)大会も、両方とも清水にベスト4を遮られたのを覚えている。私のチームにも、当時日本U-15代表の選手がおり、アジア予選をフル出場するレベルの子だった。藤原功旨(のりよし)といい、兵庫県三木市別所少年団出身で古谷先生に指導を受けてきた子でかなりのレベルの選手だった。高校進学とともにサテライトに合流させ練習を積ませるくらいに・・・。

つもり・・・

結局、藤原は本人の生活環境に少し異変がおき、サッカーをやめてしまった。私の知らないところで物が動き、進学する高校が決まった。親元を離れ社会人寮に入り、学校とサッカーの生活。よほどの自己管理と周りの良好な生活環境がない限りうまくいくはずがない。ましてや直接指導していた私の知らないところで物が決まっていくのだからサポートがしにくくなった。結果は・・・そう、サッカーをやめてしまったのである。プライバシーのこともあるのでここまでにしておくが、私が子供達に対して“責任”というものを知っていたような気になっていた時代から、親身になって考えるようになれた転機だったかもしれない。それまでも親身になってはいた。しかしそれは今から思えば親身になっていた“つもり”だったのかもしれない。今でも“つもり”だけなのかもしれない。今後もっと大きな出来事に出くわせば・・・そう思うに違いない・・・今は精一杯でも。

トップチームのコーチ

藤原の一つ下の学年には、現在ヴィッセル神戸のトップチームに所属する森一紘と当時一緒にトップチームに昇格し、現在ヴォルテス徳島に所属する大島康明がいた。森、大島時代のジュニアユースは夏の関西予選を、決勝戦で3点差スコアーにするくらいの力で優勝したのだが、続く全国大会では2年連続のベスト8に終った。秋の県中学選手権では、決勝戦で若草中学に1-2の惜敗で高円宮杯への出場はならなかった。彼らをユースに送り出した後も、続けてジュニアユースを指導したが森、大島世代の次の世代は関西5位、全国大会本大会1次リーグ負け、高円宮杯県予選では3位に終わり、満足行く成績を残せなかった。続くその次の世代、現大学2年生世代になるのだが、この子達は全国大会でやっとベスト8の壁を破り3位になった世代である。しかし準決勝で敗れた相手はまたしても清水エスパルスであった。

この年の中3を送り出した秋の1998年9月、トップチーム監督ベニート・フローロ氏(スペイン)がリーグ15連敗の責任を取って辞任。それに伴いヘッドコーチの松田氏(現アビスパ福岡監督)が監督代行職を務め、三浦コーチがヘッドコーチに就き、同時に私もコーチに就任しトップチームのサポートをした。主にはサブメンバーのトレーニングを行ったが、ユニバー競技場でのJリーグや当時の参入戦と言われる最後の残留争いの戦い等で常にチームに帯同した。特に参入戦ではホーム&アウェーでコンサドーレ札幌と対戦。アウェーの北海道厚別に行き、息詰まる接戦に先勝。神戸に帰っての第2戦はユニバー競技場での試合。勝てば残留が決まる試合でも勝利し残留決定。今でもあの喜びは忘れない。

ユースの監督時代の荒療法

残留を決め再度育成部門に戻り、今度はユースの監督に就任することになった。しかし何の因果かその時のユースのメンバーは間もなく3年生に進級という学年が、森、大島、当時国体選抜選手になった神戸学院大の藤谷、大体大の阿江洋介等。新2年生が現関学GKの水田泰広、国士舘の藤原宏樹、神戸学院の野間口慶太、新1年生が現関学の新保和也、甲南大学の陳賢太(1年間ヴィッセル神戸トップチームに所属)といった、現在もサッカーを続けており、ジュニアユース時代に悔しい思いをさせてしまったメンバー達であった。

秋口から練習を重ねたユースは、日本クラブユース選手権U-18大会関西予選で優勝を成し遂げ関西1位として全国大会出場を決めた。関西地域は3つの出場枠を争うのだが、毎年のようにガンバ、セレッソ、サンガに切符を取られていた。しかし、この年は1位として出場を果たした。ちなみに私は、ヴィッセルをやめるまで神戸FC 時代より通算してジュニアユース、ユース両カテゴリー合わせて日本クラブユースサッカー選手権大会本大会の出場を逃したことはない。

この年のユースはよく頑張り、夏の日本クラブユース選手権では毎年苦汁を飲まされてきた清水エスパルスに3-1で勝利し決勝トーナメント進出を果たした。(U-18大会は4チーム6ブロックで1次リーグを行い、各ブロック1位と成績のよい2位2チームの計8チームで決勝トーナメントを行う方式であり、最終順位5位以内に入ると高円宮杯全日本ユース選手権大会・現在のプリンスリーグへの出場権を得ることが出来た)決勝トーナメントの1回戦、ジュビロに破れ敗者戦に回ったユースは“最後の試合に勝てば高円宮杯へ出場が出来る”という試合の前の日、ある問題を起こしてしまった。

結果、私は6人いた3年生のうち5人を神戸へ強制送還した。ただ1人残した3年生と1,2年生で戦った5位決定戦の浦和レッズ戦。惜しくも0-1で破れ初の高円宮杯出場はならなかったが、私は3年生が起こした問題に対してよくよく彼らと話をし、私自身のこだわり、ポリシーをもって意見し、強制神戸送還を敢行した。プロになることを目指し、かなり厳しい練習をさせてきたが、同時に私は一人の人間としてサッカーを通しての生き方、正義、人情、常識、思いやり、真面目さ、砕けた表現だが人付き合い、会話などを学ばせたつもりである。だからこそ今を逃してはいけないと強制送還した。

夏が過ぎ強制送還させた子らは丸坊主にして私の前に現れた。どうやら改心したようである。様子を見ながら練習に参加させ、やがてJユースカップの1次予選を迎えた。結局、この年あれよあれよという間に優勝まで行き日本一を体験することになったのである。このJユースカップ大会、夏に強制送還された3年生もしっかりレギュラーを張り頑張ってくれた。

Jリーガーを育成する機関でも有る下部組織は、勝つことよりも育成することが重要だとよく言われる。私も今まで試行錯誤、悩みながら自問自答し戦ってきた。しかし私は、「この試合は0-2で負けてもよいから○○をしよう!」といってピッチに送り出すことなどありえないと考えている。試合は勝つためにするものであり、負けるためにする物ではない。ただ方法論にこだわらねばならないのである。負けて学ぶこともあるが勝ったらもっと学べるのである。勝つことと育成することは両立できる気がする。

当時こんなことをしたことがある。1999年、この年のJユースカップは予選リーグ3試合を終えた時点で1勝2分け1敗で後がない状態であった。大阪金岡でセレッソと対戦したユースは、開始7分に失点し非常に苦しい試合を進めていた。すると試合中に相手GKが蹴ったパントキックの浮いたボールが、ハーフウェーライン付近に飛んで来た。相手MFとヘディングで競るように見せかけていたはずの森が、急にジャンプを止め競るのを止めた。すかさず私は森に替え陳賢太を送り込んだ。プロになりたいと言っていた森に言った。「あれがプロのするプレーか?サボるのがプロか?」と。口で言うほど甘くはない。一つ一つをサボって何がプロか?

90分の試合の中でわずか1回ヘディングをしなかったくらいで、ゲームの大勢には影響がないかもしれない。しかしながら沢山のファンを作らなければならないプロ選手が、観客に感動を与えられなくてファンが付くかということである。コツコツ一生懸命走ったり競ったりしてもなかなか試合に勝てないのに、ましてやさぼって勝てるのか?ファンが付くのか?ということである。前節、グランパスに3-1で勝利し初白星を挙げたのだが、その試合で自分が先発からはずされた森はどう思っているのか?「悔しい思いをしているだろう」と期待を込めてこのセレッソ戦に先発させたのだが、今言ったようないい加減なプレーを見せた。私はそれを指導したいがために、絶対的にチームの中心であった森を途中交代させた。前の試合に次いで「負けても構わない!でもどうしよう」と思いつつ、そして半面「次年度の契約は破棄かな?」と自分の身を心配しつつも交代させた。それを選手は知ってか知らずなのか、その試合は逆転し2-1で勝利を収めた。1週間後の一次リーグ最終戦は因縁のグランパス。この試合にもう一度先発出場のチャンスを森に与えた。森はJユースカップ初得点を挙げる活躍で、3-1とグランパスに連勝しリーグ1位抜けを決めた。決勝トーナメントに入ってからは、1回戦塩釜FCに3-1で勝ち、2回戦はなんとまたしても清水エスパルス。よくよく縁がある。しかしながら夏に続いてジュニアユース時代の借りを返す勝利。3-3のPK戦ではあったが勝ち進んだ。エスパルスに勝ち、ベスト4を勝ち取ったこの時点で、子供達の中には達成感があるのか妙な空気が流れていた。中3日しかないのに困ったものである。いぶきで練習をしていた出発二日前に、あるいい加減そうに見えるプレーを引き合いに出し、キャプテン大島を一発どついた。大島にしたらしっかりやっていたのだろう。口をとんがらせて文句を言いたそうであった。確かにそんなにひどいプレーではなかった。しかし、この達成感が招く変な空気を断ち切るにはこれしかない。大島には悪いがキャプテンの宿命、犠牲になってもらった。準決勝は愛媛FCに3-2、決勝はマリノスに2-0。子供達はヴィッセル神戸に念願の初タイトルをもたらした。

指導者の仕事の一つ

3年生よりは2年生、2年生よりは1年生と出来るだけ若くて戦力になりそうな選手を発掘し育成する、これは下部組織では常識的な話である。3年生の有能な子はサテライトもしくはトップで出場することになる。それに達しないレベルであれば高卒段階でのプロはありえないのである。だから3年生をJユースカップに使わない球団が多い。もう望みが無いとでも言うように・・・。しかし私は3年生を使ってきた。この年だけでもない、ずっとそうだった。この年は、森、大島がトップに昇格した。他は大学サッカーに行った。ただ「トップに昇格させてみるか」という話しのあった子は他にもいた。しかし私が止めるように言った子もいる。将来設計の中で、はっきりと可能性を伝えてやらなければならない子もいる。指導者はプロを育てることが仕事だといい、ただ闇雲に「チャンスはわずかだがやってみる価値はある!」と言ってプロの世界をトライさせるのか?大人というものはいつの時代もご意見番であり経験者である。やらせるのか、止めさせるのかをしっかり指導をしてやらなければならない。ゆくゆくは本当に子供達を一生懸命指導するハートを持った人に預けたいものだ。そのためには指導者自信がプロのレベルやアマチュアとの違いを把握、体感し、言葉として伝えられることが必要である。そう思うと日本のプロサッカー、育成の歴史はまだまだ始まったばかりである。そして元Jリーガーが子供達を教えるようになることがひょっとしたら大切なのかもしれないと思う。しかし、元Jリーガーはまだまだ体感的フィーリング指導が多い。

言い換えればつまり、元Jリーガーで実績、実技力があり、経験値も多い者が子育て、育成、指導、サッカーの捉え方、考え方、世間・社会とのコミュニケーション能力などのサッカー以外の能力を身に付けられるようになれば鬼に金棒である。(逆にサッカー以外の能力がある人がサッカーの能力を身につけるか・・・。)そうなった時が日本の子供達の更なるレベルアップがかなう時であり、安定した力を持ち一定レベルを維持するサッカー国になっていくのであろう。

今回、実名で教え子達に登場願ったが、私は決して私が育てたなんて思っていない。一通過点なだけである。それよりもっともっと飛躍して欲しい、まだ物足りないとさえ思っている。一紘もなかなか試合に出られていないわけだからまだまだやることはあるはず。この場を借りて教え子達にエールを送りたい。

今日の努力は明日への成功! 今を精一杯頑張れ!

まとちかサッカー日記 :おかげさまで1周年!!2003-09-15

2003年9月15日(月祝)  晴れ

 みなさん、こんにちは!この「まとちかサッカー日記」、おかげさまで1周年を迎えることができました。(わ~い!パチパチ・・)今回で25回目、初めは週1で更新してたのが最近では月1ペース・・・楽しみにしてくださってるみなさん、申し訳ありません…(汗)

 毎回ノートに下書きをしているのですが、そのノートも、もう1冊が終わろうとしております。(最初に比べるとだんだん雑字になってる汚いノートですが)
ヴィッセル神戸、審判活動、サッカースクールでの指導を中心に、その他サッカーを通じて自分の出来事や感じたことを書いているだけなので、読んでくださってる方はどう思ってるのだろうと不安になる時があるのですが、サッカーの会場等で「見てるよ」とか「早く更新してよ」と声を掛けてくださる人や「あの話良かったよ」「田崎の応援に行って来ました」と言ってもらえると、とてもうれしくなります。そんなお言葉のおかげで無事1周年が迎えられました。

 さてさて・・今日はライオンズ杯の決勝戦!!我がチームは残念ながら3回戦で引き分けになり、PK戦で敗退してしまったので、今日は審判でしあわせの村に行きました。(余談ですが、「まとちかサッカー日記」の私の写真は、去年のライオンズ杯の決勝で審判しているときに撮ってもらったものなんです。)

 1部、2部、3部、4部(女子)の準決勝、決勝が行われました。私は3部(4年生中心)の準決勝、東舞子ーマリノの主審と、3部決勝、東舞子ー若草の副審をしました。久々に小学生の主審をしたのですが、小学生は女子より男子の試合の方が、私にとってやりやすいです。理由は、男の子は最近「手」を使ったファールが多いのですが、それは「故意」のプレーなのでファールをとります。女の子の場合は勢いよく走ると急には止まれなくて両者がぶつかることがあります。これは「故意」ではないのでファールをとるべきか、どちらのファールかと判定しにくいことがあるからです。

 最近、小学生の試合は、サポーター(お父さん、お母さん)がとても多いです。そういう方が多くても、プレッシャーを感じることはないのですが、中にはヴィッセル神戸のサポーターで私のことをよく知っている人がいます。会場で声を掛けてくださるのはうれしいのですが、「うちの子○○チームやねん、審判当たってたらよろしく!」と(冗談でですが)プレッシャーをかけてこられます。(笑) なにぶん、ばか正直で不器用な私なのでどちらかをひいきする審判なんて器用なことはできません。そこのところご理解ください(笑)

 結局、今日は声を掛けてくれた方のチームが負けてしまったのですが、後から、「いい審判やったな」と言ってくださってとてもうれしかったです。負けたチームがそう思えることはなかなかないと思うので、とても励みになります。

 これからもサッカーを通じて、この日記を通じて、たくさんの人と知りあい、何かを伝えられたら・・とがんばっていきますので、応援よろしくお願いします。(礼)
(日記の写真を見て1年経った事に気づいた私でした・・・)

サッカーとハート :芯を持て!売れ!2003-08-20

何日経ったことか・・・、「夏休みこそ時間があるから毎週書いたんねん!」と意気込み、ある人に豪語までしたのに・・・これや、情けない・・・。それでも「まだですか?楽しみにしていますよ」と言ってくれる人が多少なりともいてくれて・・・ありがたいものだ。このコラムごときを読んでくれる人がいる限り頑張って書くぞー!・・・と反省する今日この頃である。

家で寝る

大学の指導をするようになってめっきり遠征や合宿が減った私の夏休み(今現在9月中も大学生達は夏休みではあるが)。今年も40日間ある夏休み期間中、家で寝る日が家で寝ない日を上回った。わが家族は私が家にいるということに対してどうも不思議な感覚を抱いているようである。家族だけではない、私自身にとっても不思議な感覚、違和感はある。17年間ずっとそうなのだが、40日ある夏休み期間中、10日間も家で寝るか寝ないかの状態を過ごしてきた私にとって、毎日が学校と家の往復、しかも決まった時間に決まったところで練習を行う、と言う事への違和感、不思議な感覚はない。

環境は絆を強くする

神戸FC時代もヴィッセル時代もそうだったが練習会場といえば公共のグラウンド。しかもグラウンド抽選会に並んでくじを引いてこそ借用の権利があるのであってくじを引かなければ使用の権利そのものがない。ましてや希望の曜日、時間帯を使用しようと思えばより小さい番号のついたくじを引かなければならず、子供達の都合に合わせてグラウンドを手配するというのは至難の業でありグラウンドを使用できないという事態などは容易に起こりうるのである。それでいてグラウンドを借りられたら借りられたでそのグラウンドにトレーニング機材、補給用の水などのサプリメントなどを車で運んでいかなければならない。そんな生活を17年続けていたのだ。

おもしろい話がある。1999年、ヴィッセル神戸ユースは当時(今もそうであるようだが)三宮の南、海岸近くにある“小野浜球技場”という公営の土のグラウンドを借りて月曜日以外毎日練習をしていた。震災後に開設され、当初はナイター照明もなく(今もないが)、更衣室もないただ空き地があるというようなグラウンドであった。その後コンテナーを利用した簡易更衣室が二つとトイレが設置されたが、いまだに水道は散水栓しかなく照明は工事現場のナイター車両をレンタルで借りてグラウンドを照らしている状態である。当時の選手達は震災復興途中の街を見て「サッカー出来るだけでも幸せだ」と私らを泣かすような心意気を持ってトレーニングに励んでいた。その年の暮れに行われたJユースカップで初優勝を成し遂げたユースのメンバー達は今現在も全員、何らかの形でサッカーを楽しんでいるようである。トップチームに昇格した森一紘、大島康明(現ヴォルテス徳島)、陳賢太(現甲南大)をはじめ大阪体育大学(阿江)、関学(水田、新保)、甲南大(早野、河合、、谷)神戸学院大(藤谷、野間口、小菊)、大教大(長手)、国士舘、慶応等々。当時の彼らの後輩達もジュニアユースとして一生懸命練習に励んでいた。彼らの活動場所も悲しいかな小野浜グラウンドが精一杯であった。しかし愚痴一つ言わず頑張った選手達がつかんだ物は優勝というものであり、同時に互いの絆というものであったのだろう。どうやら定期的に当時のメンバー、ジュニアユース時代のメンバーも含め40人以上集まってはサッカーのゲームをしているようである。私も喜びは忘れないし選手達への感謝の気持ちは表しようのない大きなものである。

しかし、優勝の歓喜覚めやらぬ2000年、年明け早々、球団に更なる下部組織飛躍のためにせめて水道を設置して欲しいなどの環境の改善の話し合いをしたく(何処へどう話を持っていけば改善できるか等相談をしに行ったのだが・・・)部長の元に行ったのだがその時のリターンは『やったら出来るじゃないか。今の環境で十分だろ。』であった。そして03年の今になって「選手をしっかり下部組織から育てろ」と指令が飛んでいるらしい。ナイター照明車のレンタル料金を見て「どぶに捨てるようなもんやな!」と言い放たれた時代から見るとヴィッセルも少しばかり進歩しているように思われる。

そんなことはいいのだが、今大学という環境にいて何が幸せといえば、目の前にグラウンドがあり、機材置き場の倉庫があり、雨でも使えるのである。そして水道があり、更衣室がありシャワーまである。しかも温水・・・。欧米のスポーツ環境なら当たり前のことが日本では当たり前ではない。学校という施設が公共の施設よりはるかに整っている。こんな環境でトレーニング出来る喜びを我が校の学生にも感じ取って欲しい。だからというわけではないが1回生には練習前のグラウンド整備を課している。ポイントの跡一つ付いてない位にきれいなグラウンドにするため、釘を2センチ間隔に打ったお手製のトンボで毎日・・・。

“環境”はクラブの“芯”を作り、そして“芯”は球団そのものになる・・・だから“芯”なのだ

今年の40日間の夏休みの間に私はアディダスカップ第18回日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会の仕事のためにJヴィレッジに一週間行っていた。それは技術委員として大会優秀選手を選考する仕事であったのだが久しぶりに全国大会に顔を出したもののJクラブの指導者の顔ぶれが半分以上代わっていたのには驚いた。これは良いことなのか良くないことか・・・。どっちともいえないがプロ選手になるにはこういった突然、もしくは年度のたびに監督が代わることに慣れるという意味ではよい事なのかもしれない。しかし、Jチームであろうと町クラブであろうと監督が代わるにしろ代わらないにしろ大切にしていかなければならないことは、いわゆる “芯” となるものは変えてはいけないということである。では芯とは何か?芯、すなわちそれがクラブ色である。そしてそのクラブ色となる “芯” がクラブの売り、セールスポイントとなる。あるクラブは “芯” を指導方針であると言うだろう。あるクラブは指導者自身であると言うだろう。また、クラブ自身の組織力、機動力がセールスポイントかもしれない。そういったそれ(芯)を見て世間のプレーヤー達(子供たち)が「どの球団(クラブ)がいいかなあ?自分に合っている球団(クラブ)は何処だろう?自分をどう育ててくれるのだろうか?」といろいろ考えて選択していくのである。良い”芯“を持っている球団(クラブ)に選手が集まるのは当然のことである。今や球団、クラブが選手を選ぶ時代ではない。選手が球団、クラブを選ぶ時代である。

現在の私の“芯”は・・・

それは現在の私とて同じである。姫路獨協大学サッカー部の芯は何なのか?どんなチームにしていきたいのか?どんな選手に育てたいのか?売りは何なのか?ということである。それがきちんと整えば、「だからこんな選手に来て欲しい!」ということになる。あまりプライベートな要求は公の場では公私混同なので差し控えるが簡単に言えば“芯”を作るということは指導に関すること・人に関することなどのソフト面と環境・サポート体制などのハード面とを確立させることである。今現在の姫路獨協大学サッカー部はそれらを整理していく段階であるのだがわずかずつではあるが変わりつつある。よい学生、社会人、人間を育成するには“素材”と“磨く方法”と“磨く機材”が必要なのである。素材は多数の先生方のおかげで早くも素晴らしい生徒が学生として入学してくれている。磨く機材として大学も積極的にサポートしてくれ、公式戦などはバスをチャーターして学生への金銭的負担を回避したり設備、機材の充実を進めている。後は磨く方法・・・、これは私の問題であり改善の余地が多いかもしれない・・・。
何が“芯”なの?と聞かれたら?

まあ平たく言えば
【サッカーをなめずに真面目に取り組み、サッカーを大事にしてくれる選手達と共にプレーしたい】
ということである。

この“芯”に興味を持って一緒にチームを作って行きたいと我がチームが選んでもらえるかもらえないかである。選んでもらえなければ衰退していくだけである。衰退がいやなら方策、方針を変えていくか・・・である。
どのチームも“売り”となるものを掲げなければならない。それをアピールする場?それは試合であり公の場への奉仕である。怠慢すれば忘れ去られていくのである。私の書いているこのコラムのように・・・。

まとちかサッカー日記 :夏合宿2003-08-04

2003年8月1日~8月4日  晴天

 暑中お見舞い申し上げます

長い梅雨がようやく終わり夏本番です!私がコーチをしているサッカースクールでは、毎年恒例の合宿があります。それは、3泊4日の網野合宿です。京都の北丹にある網野町はほんとうにのどかで日本海のきれいな町です。私たちはそこで「網野カップ」という大会に参加します。今年は小学生(5,6年生)3チームと中学生2チームが参加しました。指導者9年目の私は、この合宿も9回目、去年は合宿3日目にヴィッセルのホームゲームがあったので、途中抜けたり、仕事などでここ2、3年は、丸々4日間過ごせることがなかったのですが、今年はフル参加です。

私はこの合宿に来るとよく自分の指導について振り返ります。コーチをやり始めたきっかけは、私が高校3年の時で、大学も決まりあとは卒業を待つだけとなった3学期に、あの大震災が起きました。神戸は変わり果てた姿になり、「子どもに笑顔を!」ということで、神戸FCのスタッフが、長田の小学校を中心にサッカースクールを行う時、ポートアイランドに住んでいてそれほど被害を受けずにすみ、動き回れた私は、お手伝いをすることにしました。

もともと、子ども好きで先生になろうと思ってただけに、元気のなかった子達が楽しくサッカーをする姿を見て、わたしもすごくうれしくなり、その後もサッカースクールを手伝うことになりました。その頃はまだ私自身も現役でバリバリ!?サッカーをやっていたので、自分の練習、試合のない日に教えに行ってたのですが、次第に教える方が楽しくなり、現役を引退し、コーチを中心にしました。その後は、地域C級や、準指導の資格などを取って自分なりに勉強してきたつもりですが、子どもたちにとって私はどんなコーチなんだろうと考えます。良い指導者とはどんな指導者なんでしょう?

私のサッカースクールには、上手い子、下手な子、サッカーの好きな子、親に言われてきてる子等いろんな子がいます。好きな子、上手い子は、ある程度ほうっておいても、どんどん吸収し、伸びていきますが、そうでない子もいます。

私が小学校の時は、親友につられてやり始め、練習嫌いだったので、全然上手くなりませんでした。今になって、あの時にもっと練習していれば・・・と思います。子どもたちが卒業して、私から離れても、ずっとサッカーが好きであるように、たとえサッカーをやめても、何か一生懸命なることがあることの楽しさを忘れないでほしいと思ってます。
1年目にコーチをした時の6年生の子たちは、来年成人式を向かえます。私がコーチをやり始めた年齢よりも上になってしまいました。汗・・ほとんどの子は、今どうしてるか分かりませんが、たまにハガキが送られてきたり、道で会って声をかけてくれて、「がんばってるよ~」と言ってくれる時が、本当によかったと思える時です。8年間やってきて、私はまだ「良い指導者です」とも言えないし、子どもからも教えられることも多いですが、一緒になって頑張って、喜んで、泣いて、怒ってしてるコーチですが、私のようなサッカー好きが増えたらナと思ってます。

そんなことを思いながら、網野での4日間、暑い中、全10試合(1チームあたり)行いました。毎年この合宿で、子ども達はぐっと成長します。今担当している6年生がどのように変わり、今後どう伸びていくのか楽しみです。

追伸・・・
合宿の最終日に1時間ほど、海水浴の時間があるのですが、泳げない私は毎年カメラマンを担当します。今年もそのつもりだったのですが、途中子どもにのせられて海に入ってしまいました(しかも服のまま)笑
帽子もかぶって日焼けには気を使ったのですが、それでも真っ黒に・・・汗。モデルとしてもまだまだのようです。社長、ごめんなさい!!

サッカーとハート :コンフェデ杯が教えてくれたもの2003-07-14

先般行われた大陸王者選手権のFIFA CONFEDERATIONS CUP。ジーコジャパンは1次リーグ敗退という結果に終った。そして忘れてはならない190cm、80kgの不屈のライオンといわれたカメルーン代表のメンバー、マルク・ビビアン・フォエ選手が帰らぬ人となった大会。本当にサッカーは魅力あるものでありながらその反対側で牙を出し、苦しみ、悲しみを待っていたかのように突然襲い掛かってくる。我々サッカーに携わるものにとって一番辛いことは選手が一番喜ぶべき試合で悲しみに陥ることだ。あまりにもショッキングな映像を忘れる事が出来ない。人間はあんなにもろく倒れるものなのか・・・と。私には何も出来ないが、少なくとも同じ悲劇を繰り返さないように注意を払って選手と向き合うこと、これしか今はない。ご冥福をお祈りします。

結果は出ない

ジーコジャパンは今回、1勝2敗の勝ち点3。3試合戦って4得点3失点、4点の得点のうち3点は格下といわれるニュージーランド -結果から言っての格下であって本当はどちらが上か…- からあげたもの。様々な雑誌を見るといろいろな人が“評”を記している。「ごく常識的な基準にも達していない」「ワールドカップ常連国に180分戦って1点、大会がアウェーであったことを差し引いても不満が残る」といった具合に。彼らはそういった記事を書くことで生計が成り立つのだからそれはそれで終らせよう。私は私なりに書かせてもらう。

今回の日本代表の試合ぶりについては昨年のワールドカップの成績から考えて、それなりに期待するものはあった。期待というのは結果のことだけではなく、代表チームの進むべき方向がどのような方向なのか、そしてそれが青少年の指導の現場にどのようにフィードバックされてくるのか、また実際の代表チームの状況がどうなのか、新監督になってどのようなサッカーを目指しているのかというような部分である。そう簡単に結果が出るとは思はなかったがやはり良くはなかった。

そもそもチームを作るということは大変な作業を要することである。人材、時間、道具、場所、お金といったハード面の問題とトレーニングに関するソフト面とがより精巧に、しかもよりハイレベルで、それでいてグッドなタイミングでマッチしなければならない。そして最大難所は人間という計算しづらい生き物のピークパフォーマンスも考えなければならないということである。このようなありとあらゆる作業があってこそチームという生き物は活躍もし元気なく過ごすことにもなる。そう思うと今回の日本代表は良い成績を出しにくい状況であったことは日本代表に付きっきりで帯同していない私にだっておおよそ見当は付く。Jリーグファーストステージ戦の最中にリーグを中断して代表に切り替える選手、長く厳しいリーグを乗り越え本来ならオフであるはずの海外チーム所属選手、咥えて環境が違う選手が一緒に練習をする機会の少ない状況、新監督になって目指すサッカーが浸透していない状況、どれをとってみても極めて結果の出にくい厳しい状況であったのだから。

言いっ放しは聞きっ放しに通じる教育とサッカー

私は今の日本代表を見てこのままで終るとは思っていないがいくつか考えることがある。まず一つ目はジーコ監督の考えについて。

トルシエ監督がチームの進むべき方向性、チームの戦術、その戦術の実行方法、サッカーの考え方等を具体化したのに比べ、ジーコ監督は選手の閃き、即興性を前面に出している。日本の選手には一番得意な方法と一番苦手な方法があまりにも対照的に、しかも急激に対比されてしまった様に感じる。この事を我々指導者も含め選手、環境(環境を作る者)が感じ、対応しなければならないという事である。

日本の教育における“学校”は時間がきてチャイムが鳴ると先生が教室に入ってきて授業を進め、一方的にしゃべる。終了時間のチャイムと共に先生は授業を終わらせ教室から去っていく。つまりこういった授業が主流になっているという現実がKEYである。今、これをダメだと言うつもりはない。しかし【言いっ放しは聞きっ放しにつながる】という言葉があるように、こういった習慣でずっと育った日本のプレーヤーに  -しかも6・3・3制の都合12年も-  果たして即興性を期待できるのだろうか。成人になって代表チームに入ったときいきなり「自分の考えを大切にしろ」「自分で考えろ」「閃き、アイディアを大切にしろ」「即興性だ!」といわれても困るのではないか。困るだけならいいのだが実践できないとなればサッカーという現場においてはまったく意味がない。

考えるサッカーの浸透性

4のチーム力を3ランク上げて7にするのと7のチーム力を3ランク上げて10にするのとは同じ3ランクアップでも中身はまったく違う。低いレベルのチームがある程度のレベルには達するのは割とたやすい。しかしそこからが大変なのである。当然、8や9のレベルのチームとの対戦ともなると以前対戦した5や6のチームと比べてもレベルが高くなっている分、苦戦が予想されるのは当たり前。普通に練習、試合をやっている程度では追い抜けない。並以上の事を行ってやっと人並みというところか。つまり4を7にするためにはトルシエ流サッカーが必要とされ7を10にするためにはジーコ流のサッカーが選択されたということである。今までの日本のサッカーにおいてはトルシエ流具体化サッカー、オフト流具体的やる事提示サッカーのほうが選手も受け入れやすく結果も出やすいといったところだろう。あまりあれこれ考えずに限られた事を必死にやる、という事は責任も少なく比較的たやすいのであるから。

――((実際にはたやすい事でもなくかなりの苦労、努力があってこそ今の日本サッカーがあることは紛れも無い事実であり、それをレベルが低いとは言わない。ただここでは世界ナンバーワンを10とした物差しでの話である事をご理解いただきたい))――

やるべき事がはっきりするということは、選手個人が持っている力を何の迷いも無く「俺にはこれしかない」とか「失うものは無い、監督を信じて突き進め-」といった精神的相乗効果を得る事ができる。対戦レベルも下のレベルであればなおさら結果も早く反映するだろう。しかし、そこから上のレベルに押し上げていくにはそれまで以上の物を付け加えなければならないということである。そうでなければいつまでたっても相手とのレベル関係は同じままである。となると今まで以上のものとは何なのかという事になる。つまりそれがジーコ監督の言う一定の約束事の中に一瞬の閃き、即興性ということになる。このことを日本サッカー協会は選択したということである。

瞬時に判断する事、自分で考える事は今現在、少年サッカーが普及していく中で指導者講習会等ですでに盛んにレクチャーされている。全国各地の指導者は自分で考える事の大切さを選手や保護者に伝え、三位一体になることでより良い選手を育成する努力を重ねている。しかしながらそういうレクチャーを受けた選手が今20歳以上の年齢に幾人いるのか、またそういったレクチャーを受けてきたとしてもそれはその子供が育った地域レベルでの閃き、即興性でありまだまだ全国区、海外レベルにまで研ぎ澄まされてきてはいないと考えられる。トレセンシステムは1978年ころより始められているが本当の意味で世界を意識して選手を育成してきたのはここ4~5年ではないだろうか。コーチングシステム、コーチの質、情報量も変ってきている今、代表監督もジーコという閃き、即興性を重視する監督に代わり日本としては方向性を統一する時期なのかもしれない。

ワンクッション欲しい代表

しかし私個人としては少し時期が早いような気がする。トルシエ監督の具体化サッカーとジーコ監督の即興性サッカーの間にその中間的なレベルの折衷サッカーを表現できる監督を置くべきだと思う。私はレベルをアベレージに上げるにはトルシエ監督、将来的に理想とするサッカーを何にするかといえばジーコ監督の閃き、即興性、考える習慣のサッカーであるべきとは考える。しかし、全国的にまだまだ閃き、即興性、考える習慣を浸透できていない状況ではタイムリーではない。

となるとジーコ監督には代表監督というより日本のテクニカルダイレクター的な存在として代表チームからU-15,U-12世代の代表、ひいてはJの下部組織、国内の普及までを一手につかさどるセクションを田嶋幸三氏とともに就任してもらい全国に種をまく仕事が今の時期には良いと考える。そして期が熟してから満を持して代表監督に就任する。といった具合はどうだろう。

もう一つは環境

そしてもう一つは環境である。ジーコ的閃き、即興性、考える習慣はサッカーにおいて絶対必要な能力である事は疑いの無い事ではあるが、今の日本の中ではそれを育む環境が無いように思われる。つまりこれをどこかで変えていかなければ半永久的に日本のサッカーは世界レベルに成り得ないと言う事である。言い換えれば世界レベルの成績が出たときこの環境が出来たという事なのかもしれない。

いくらサッカーのコーチが叫んで「自分の考えを大切にしろ」「自分で考えろ」「閃き、アイディアを大切にしろ」「即興性だ!」といったところで1日24時間、1週間で168時間、その中で何時間選手と接する事ができるというのか。1日2時間、週3回の練習としても6時間、多く見積もっても週10時間しか接する事は無いのだ。その他は他の影響力を受けるわけである。そこにもし旧態依然とした方法論、考え方しかないとしたら…。

もう一つの環境

つまり、文部省が掲げる週5日制によるゆとりの教育というものは今までの日本の教育の欠陥を訂正しようと言うものである。総合学習とは何かと考えるにこういうことだと思う。

教室の中に問いかけがあり教室の中に答えがある時代の教育では現代社会に対応できないという事である。実際社会は教室にあるだけでの答えではとうてい対応できない時代になってきているということである。「子供たちに毎日魚を与えると食べていって生きていくだろう。しかし同じように釣竿を与えれば一生食べていけるだろう」という中国の諺があるが、つまり毎日食べるという事が大切だと教えるのではなく魚のとり方を教える事が大切であるということである。日本の教育は体験をさせる事が無く、すべて教室で答えを見つけようとしていたのである。

サッカー界は地域型スポーツクラブ、生涯スポーツを提唱し人材育成に力を注いでいる。以前にも述べたが子供というのは自立の躾と共生の躾が必要である。共生の躾には集団が必要である。その集団こそ地域スポーツクラブであり、少年野球でありサッカーである。

ジーコ監督が今回のフェデレーションカップにおいて我々に見せてくれたサッカーはまさに鏡である。鏡というのは自分が映っている鏡だという事。結局、日本のサッカーは本気で立ち向かったもののレギュラーを欠いた国に勝てないという事が映し出されたのである。2002年W-CUPで強くなったと思っていてはいけないのである。根本的な改革、改造のヒントをジーコ監督は自らの思想を持って日本人に教えてくれたのである。ただ、本人も考えてはいなかっただろうが…この結果は…。

日本サッカー協会が指針としてどのような事をジーコ監督になってからの日本サッカー若年層に出してくるか非常に興味深い。

もしあなたがチームの強化をつかさどる立場の人間であったなら何を重視してどんな人材を選択するか…
目の前の出来事が大切か長い目で見た将来を優先させるか、またこの部分での考え(サッカー界)のみならず他のあの部分(教育についての影響力)における事にも配慮をして考えるか…

など考え出したら面白いものだ。良くも悪くも強化担当者であるあなた次第の世界。悪ければ責任をとらなければならない。代表、Jリーグという影響力の大きい世界であれば責任はなお大きい。今回は日本代表についての考えを述べた。このコラムが誰にどんな影響を与えるのか定かではないが責任は大きいと思っている。

神戸、兵庫の子供たちに良い影響力を与えられたらこれ幸いである。このコラムをお読みの方にぜひ感想をお聞かせ願いたい。匿名でも結構、ぜひメールください。

まとちかサッカー日記 :日本女子代表2003-07-12

2003年7月12日(土)  曇り

 今日はJリーグ第12節。私はいつものようにウィングスタジアムに行き、ヴィッセル神戸vs名古屋グランパスエイトの試合が始まるのを待ちながら、もう一つの試合結果を気にしてました。それは、東京国立で行われている日本女子代表vsメキシコ女子代表の試合。W杯アジア予選で4位に終わった日本は、プレーオフでメキシコとホーム&アウェーで戦い、勝った方がW杯の出場権を得るという大事な試合。5日にアウェー、メキシコで2-2という結果。今日は絶対勝たなければなりません。しかし、メキシコは女子のトップリーグである、アメリカリーグで活躍する選手が何人かいるとても強いチーム。アウェーのメキシコで引き分けた時、勝ったようなうれしい気持ちでした。神戸のLリーグチーム、田崎ペルーレからも5人、代表に選出されていたので、私の友達も国立に応援に行ってました。その友達から2-0で勝ったと報告が入った時飛びあがるように喜びました。

 その日の「スーパーサッカー」ではトップで取り上げられたし、翌日のスポーツ報知では裏一面を飾ってました。そして、国立の入場者数が1万2000人!!すごい!すごい!!女子サッカーがこんなに注目されてるのを初めて見たので、とてもうれしくなりました。私が何故こんなに喜ぶかというと、女子サッカーLリーグは「プロ」ではないことのいろんな大変さをみてるからです。以前は、中国などから外国人選手を入れてやってたころもありましたが、不景気でチームも減ったし、環境も厳しくなりました。田崎ペルーレだと、半日社員として働き、午後から練習しています。

 でもこれはまだ恵まれた環境で、他のチームでは、昼間それぞれが違う仕事(バイト)をして夕方から練習するというチームもあります。そして日曜日はリーグ戦、アウェーになると移動もあるので、自活で生活している人には本当に大変な毎日だと思います。代表キャプテンの大部さんが言っていた「本当にサッカーが好きじゃないとできない・・」という言葉がすごく良くわかります。もちろん、プロの世界も厳しいですが、女子の場合、やっているもの(求められるもの)はプロで、それプラス生活していく仕事があるのです。だから、今回の出場は本当にうれしかったし、選手の涙、応援している人の喜びはそんなところも含めて大きいものになったんだと思います。9月にあるW杯に向かって頑張ってください。みなさんも応援よろしくお願いします。女子も盛り上げてもっとサッカーを広げましょう!

 さて・・・私の方は、2級のテストが近づいてきました(汗)負けずに気合入れて頑張りたいとおもいます。

まとちかサッカー日記 :今も審判を続ける理由2003-06-22

2003年6月22日(日)  雨のち曇り

 ここ2、3年梅雨でもあまり雨が降らず、「今年の夏は絶対水不足になるよ!」なんて、らしくもない心配をしていた私なのですが、今年の雨の多さにはうんざりしている今日この頃です。

 22日の日曜日も天気予報では曇りといっていたのに、朝から雨が・・・。もともとは、午後から啓明で行われる高校女子選手権予選の3決と決勝があり、その3決の割り当てだったのですが、午前中に王子競技場で関西女子リーグの、神戸FC対高槻の試合があって、その第4審が足りないということで、頼られるとうれしい私は行くことに・・・でもそうすると、午後からの3決の試合に間に合わなくなるので、決勝の試合に変更してもらいました。が、割り当てを見てみると、決勝の主審に!ちょっとびっくりしてしまいました。クラブチームでやっていた私は、高校の大会に出ることはなかったのですが、後輩が啓明や日ノ本に行って出場してたことがあったので、よく見に行ってた大会でした。大会の大きさが分かるだけに決勝の主審はちょっとプレッシャーに・・・そんな感じでまず、午前中に関西女子リーグの第4審をしながら、神戸FCの後輩の成長と、次にやる主審の為にこの試合の主審をされてた2級の方の動きを見ていました。試合が終わり、啓明Gに移動・・着いた時にちょうど3決の試合が始まったところでした。

 ここでも主審の方の動きや高校女子のレベルをチェックするように試合を見ていました。そしていよいよ決勝戦、啓明ー日ノ本の試合がきました。両校とも、全国の出場は決まっていましたが、1位2位で入るブロック(対戦相手)が変わるため、ぴりぴり・・・私は平常心で、いい試合にするため、最初のファールはびしっと決めようと心がけていました。試合開始すぐにファールがあり、びしっととれたのですが、3決の試合とはまるで違う体の使い方、動きに、戸惑ってしまい、ファールの基準がバラバラになりがちでした。とにかくプレーの近くで見ようと走りまくりました。試合の結果は0-1で日ノ本の勝利。終わってから、審判のインストラクターの方に久々にこっぴどく指導を受けました。

  自分でもよくわかった「こうすれば良かった」ということと、どうすればいいか分からないことで自己嫌悪になっているとこに「がんばってよく走れてた」などの良いところをいわれても、「頑張る」のは当たり前!私には何のなぐさめにもなりませんでした。少し荒れた試合になってしまった反省点は多々・・・。久々に少しへこみました。

 私が今も審判をしているのは、サッカーをしている人にいい試合をしてもらうため、サッカーを楽しむ人が増えてほしいという思いから・・・なのに今日の私の主審ではほど遠かったです。唯一救いになったのは、日ノ本のキーパーだけが、「ありがとうございました」と笑顔で声をかけてくれたこと。早く試合をした全員にそう思われる審判になりたいです。