まとちかサッカー日記 :のじぎく国体に向けて2005-09-11

2005年9月8日~10日

 皆さんこんにちは。まだまだ残暑が厳しい日々が続きますが、朝、夜が随分涼しくなり秋が近づいているな~と感じています。忙しかった夏も終わり9月末からはLリーグも再開するという前に私はもうひとつ大事な大会、岡山国体を控えていました。他府県で行われるときは2級の審判が呼ばれることはほとんどないのですが、隣の県(近県)ということで参加する機会を得ました。

 ミニ国(国体近畿予選)は去年と今年に参加したのですが、国体(本大会)に参加するのは初めてで、元田崎ペルーレのGKだった友達に国体の話を毎年聞いていたので、そんな大会に出られるという緊張と楽しみで胸が高まりました。しかも来年は地元兵庫県で「のじぎく国体」が行われるということで、兵庫県の人はそれに向けてがんばってきているだけに、兵庫の代表として行くことにとても重みも感じていました。

 サッカー競技の日程は9月9日~13日だったので審判は8日に集まり、まずは魔の体力測定が行われました。家を出発した時はとても暑く、「今日走るのはつらいな~」と思っていましたが、測定の時になると、かなり涼しくなりお天気も味方してくれているようでした。おかげで12分間走では自己ベストが出て、200M走、50M走もなんとかクリア!無事大会に参加できそうです。でも集まった審判の方の数はとても多く、私のように近県派遣できている2級の人以外はみんな1級の方ばかりで「(私がいるのが)場違いかな・・」と思ってしまうほどの雰囲気でした。それでもLリーグでまだお会いしたことのない女子1級の方とお会いできたり、久々にお会いできた方、そして今年の夏に静岡でお世話になった方にもお会いできてとてもうれしかったです。

 次の日から試合が始まりました。今年のルール改正で「オフサイド」について変わり、副審にかかるプレッシャーも随分大きくなりました。そのことがいい緊張になりながら、場の空気に飲まれることなく、思った以上に自分らしくできたと思います。10日は女子の試合が1つの会場だったので、岡山湯郷でプレーしている幼なじみにも会え(今、靭帯を切ってリハビリ中ですが)、「こんな所で会えるようになるとはね」なんて話をしました。この日は兵庫の試合もゆっくり見れ、兵庫から見に来ているサッカー関係者の方々にも会い「来年の(のじぎく国体)のために・・・」という感じでした。私も今年国体に参加でき経験できたことを来年ののじぎく国体に少しでも活かせたらいいなと思いました。

P.S
女子審判員の中で「ハバタン」はもうすでに人気でしたよ!

まとちかサッカー日記 :忙しい夏パート3(これで締めくくり!?)2005-08-29

2005年8月26日~28日

 皆さんこんにちは。小、中、高の学校は夏休みが終わり、お母さん方はほっとしているのではないでしょうか?大学生の皆さんはあと半分夏休みが残ってるなんてうらやましい・・・。私は今年は夏らしい想い出は1つも作れずじまいです。大会に行きっぱなしで、それはそれである意味想い出なんですが、年頃の娘!?の想い出ではないですよね(涙)
でもこんなことをいいながらも、いろんな大会でいろんな人とお会いしてお話ができたりと楽しんでいたのですが、びっくりしたのが審判をしている方の中でも私の日記を読んでくださっている方が結構いたことです。前回お話した「ミニ国」でも関西の審判員が集まり懇親があったのですが、そのときに「読ませてもらってるよ~」と言ってくださった方が何人かいました。最近1番多いのは「審判ネタ」。下手なことは書けないな~なんてプレッシャーを受けたりしました。

 さてこんな私の夏を締めくくるのは、8月26日~28日にしあわせの村で行われた「KOBE CUP2005」という大会です。この大会は歴史ある大会で、震災前は私が所属していた神戸フットボールクラブが主催の大会で、小学生と中学生の名門チームが集まり、この大会に出場したことのあるJリーグ選手も何人かいます。レディースは出場することはなかったのですが、運営の手伝いをしてポーアイ、六甲I、磯上G、みさきG(今のウィングスタジアム)などの会場に分かれてお互い結果を連絡したりするのが楽しかったです。震災後は大会はなくなることはなかったですが、神戸フットボールクラブはお手伝いはしていましたが、主な運営はヴィッセル中心で行われていて、私も何年かこの大会から離れていました。今年は神戸市サッカー協会の人たちが中心となり手作りな大会をモットーに行われ、私も久々に参加することになったのです。しかもこれが変な!?縁というか世の中狭いというのか、前の事務所の先輩が「サッカー大会のアナウンスしない?」と声をかけてくださり、それがこのKOBE CUPだったということで、今回は審判でも指導者としてでもなく、アナウンスの方で参加することになりました。

 普段自分たちのお仕事を持っている方がボランティアで作りあげていく分、決定事項の連絡も遅かったですが、私はよく知る大会だっただけに不安はありませんでした。

 大会の日程、時間には限りがあるので、全部の試合に時間を取り派手に盛り上げていくことはできませんでしたが、決勝戦は盛り上げようと先輩もいろいろ考えていました。私もJリーグではこんな感じのセレモニーがありますなど意見を出したりもしました。しかも今回は震災10年ということで新潟、福岡のチームを招待しているし、決勝まで残ったチームはもちろん、参加したどのチームにも楽しい大会として想い出に残ればいいなと思っていました。そんなこんなで大会が始まり1日目、2日目の予選リーグではそれほど大変なことはなかったのですが、久々に「声」の仕事をするということと、「サッカーの私」をよく知っている人たちばかりの中で「アナウンスの私」を見せるのが少し恥ずかしかったというのもあり、かなり噛み噛みでしゃべっていました。(汗)

 ヴィッセルガールをしているとき、試合前やその他のイベントなどでマイクを使って話すこともありましたが、そのときもやはりよく噛んでいました。でもサポーターやスタッフの方からは「これが的崎のしゃべり」という感じでうけていました。今回も知っている人が多く「あっまた噛んだ」とか「色気のない声やな~」なんて半分冗談で突っ込まれたりしましたが、久々とはいえ自分のしゃべりの拙さが少し情けなかったです。2日、3日目になるにつれ、自分らしさが少しづつでてきたのですが、それでも「(盛り上げていく中で)どこまでくずして話していいのかな?」という遠慮もあり個性を出し切ることはできなかったです。

 決勝戦は打ち合わせ通りうまくいき盛り上がりました。最後に閉会式の進行をして無事終了。一応何事もなく終わり、子供たちのやりきった顔を見ていると各チームそれなりに想い出が作れたように思いますが、もっと子供たちといっぱい接して、(言い方がおかしいかもしれませんが)「さわぎたかったな~」というのがありました。来年は違った形になっても参加してもっともっと自分自身も楽しもうと思いました。

P.S  「アナウンス」で参加した大会でしたが、3日目に1回審判やらされました・・・。(笑)「審判しているときは堂々としているのに」と声をそろえて言われてしまい、「まだまだアナウンスとしては勉強が足りなく、自信が出てないんだな」と思いました。

まとちかサッカー日記 :忙しい夏パート2(サッカーばか!?)2005-08-22

2005年8月11日~21日

 皆さんこんにちは。夏休みももうすぐ終わりが近づいてきました。お盆休みはゆっくりとれましたか?私は今年のお盆はたまたま15日が月曜で、店の定休日と重なり神戸に住んでいる父方の祖父母の所に行き、親戚の集まりに参加できました。

 Lリーグでプレーしている幼なじみが靭帯を切ってしまい、神戸に戻ってきて病院で入院しているので2回ほどお見舞いに行ってきました。お互いサッカーの話を1番よくするのですが、幼なじみに「ちかちゃんって、ほんとサッカーが好きだね」と言われました。私は、彼女はLリーグでプレーをするためにがんばっていたほど、そして靭帯を切ってもリハビリをがんばって続けるほどサッカーが好きなんだと思っていたのですが、彼女に「私はサッカーをする(プレーする)ことが好きなだけだから、引退しても指導者や審判などすることは考えられない。だからちかちゃんを見ていると本当にサッカーが好きなんだと思う」と言われて、なるほど・・・と思ってしまいました。小学校のときYMCAでサッカーをしていて、そのときの指導者を「リーダー」と呼ぶのですが、私はまだそのときのリーダーの数名と連絡をとっていて、その中の愛媛に住んでいるリーダーが神戸に遊びに来るということで、仕事が休めなかった私のために神戸に住んでいるもう一人のリーダーと私のいるお店に食べに来てくれました。そのときにはやはり昔話になり練習嫌いだった私がいまだにこうやってサッカーに携わっていることが、あのときからは想像できなかったと言われました。でもこのリーダーたちは今のサッカーばかな私の原点になった人たちの1人であり、今もこうやって連絡をくれ応援してくれる心強い支えなのです。

 こんなサッカーばかな私の忙しい夏の第2弾は、8月11日~13日に大阪長居で行われた女子のU-18の大会「アジアンフェスティバル」からスタートしました。

 日本、大阪、韓国、中国のU-18の代表がリーグ戦で試合をする大会で、私は副審で参加したのですが、2日目に中国からきたレフリーと組むことになり、初めて外国の人と組むという経験をしました。打ち合わせやコミュニケーションをとるときはもちろん英語で、お互いゆっくりジェスチャーや図を使いながら話したりと貴重な体験をしました! が、もう少し英語を勉強しとけばよかった・・・と思いました。(汗) 去年、日本の女子で初めて「1級審判」に合格した大岩真由美さんも来ていて、初めて彼女のレフリングを見ることができ勉強になりました。

 8月19日~21日は兵庫県でミニ国(国体近畿予選)が行われました。今年は成年の男女が近畿から2チーム出場できることもあって、少年の部だけが19日から始まり、成年は20日から行われたため、私も20日から参加しました。1日目は少年の第4審判に当たり、アスパ五色に行きました。国体で少年の部に当たるのは初めてで、少年といってもU-18(高校生)の男の子で、少年とは言い難い体の大きさでした。試合を見ていていてもやはり女子とは違うスピードやチャージなどがあり勉強になりました。2日目は成年女子の副審に当たり、加古川に行きました。成年女子は兵庫と大阪が代表に決まりました。本戦は9月の岡山国体、どちらも上位に入れるようにがんばってほしいです。

ミニ国も無事終わり、私の忙しい夏もあとひと踏ん張りです。

P.S
ミニ国では舞子ビラが宿泊先だったのですが、部屋の窓から明石大橋がすごく近くきれいに見えました。あまりにもうれしくて昼間も夜も写メールで撮っていたら、同室の京都の子に「(的崎さんは)地元ですよね・・・?」と少しばかにされてしまいました。(笑)
でもそういう彼女は、加古川から電車で帰ってくるとき反対角度から見える明石大橋を見て「あれって瀬戸大橋ですか~?」と言ってました。

まとちかサッカー日記 :忙しい夏パート1(黒くなった理由)2005-08-09

2005年7月31日~8月8日

 皆さんこんにちは。今年の夏も本当に暑いですね。最近は「熱中症」の事故も多いので水分や睡眠をしっかりとって体に気をつけてください。私はというと、5月の引越し、勤務場所が変わった辺りから少し体重が落ちてしまい、ここ何年かで1番体重が減って、インストラクターの方にも「体重落としすぎ!それでは夏もたへんぞ!」と注意を受けたりしたのですが、確かに忙しかったり新しい店のことなどで体重が落ちたのですが、ご飯はちゃんと食べるし睡眠もとっているので、けっこう健康的に痩せ、とても元気なんです。少し身軽になってうれしいぐらいな感じですが、さすがにこれ以上落とさないようにしようとは気をつけています。

 夏休みに入り、海やプールに行かれたりしましたか?私はもちろん行ってきました!というぐらい日焼けしていますが、サッカー焼けです(涙) 土、日が来るたびにお店のお客さんには「黒っっ!」と言われています。一応タレントという仕事もあるので極力日焼けには気をつけていますが、今年は大会が多くてあきらめていました。

 7月31日~8月3日に私は静岡の磐田で行われる「全国高校女子選手権」に関西から行かせていただけることになり行ってきました。1日目の7月31日はテストがあり、ホテルに着くとすぐに移動し、12分走、200M走、50M走と測りました。私のように研修で来ている女子審判員は8人、私はどれも一応クリアしましたが、とても速い人もいて、「すごいな~」と自分の走り込みの足りなさを実感しました。沖縄から来た子と同室になり4日間過ごすことになりました。夜には私の1番苦手なペーパーテストもあり、ルール改正直後もあってそれなりに山をはって勉強したのですが、無残なもので答案が戻ってこなくて少しほっとしました。(汗)

 2日目からは大会が始まり、私たちは2グループ(4人づつ)に分かれて割り当てをいただき各会場に分かれました。1日に主審1試合と4審を1試合づつ、3日間しました。さすがに1日目の体力テストの疲れと毎日暑い中での試合もあり、筋肉痛と暑さとの闘いでしたが、一生懸命試合をしている高校生の女の子の中で、私も負けずに思いっきりいつも通りの自分でやれたと思います。その他に、私と同じように上の級を目指す人たちの審判を見たりでき、とても充実した日を送りました。最初は話をするのもぎこちなさのあった8人でしたが、最後の夜はジュースやお茶で少しの時間「お別れ会」をするほど仲良くなりました。今度は昇級テストでこのメンバーの人たちと会えたらいいなと思いながら神戸に帰ってきました。

 静岡から帰ってきた2日後の8月5日、私は昼過ぎからいつものように店で働き、夜の11時に店を閉めてから一度家に帰ってシャワーを浴びて、兄に借りた車で網野へと出発しました。5日~8日は指導しているチームの毎年恒例の網野合宿で、子供たちみんなはこの日の朝出発しているのですが、静岡から帰ってきたばかりで何日も店を空けるわけも行かず、この日は仕事を終えてから1人で向かうことにしました。夜中の舞鶴道はとてもさみしく、ついつい独り言をいいながら運転していました。(笑) 私の慣れない運転を心配してくれて3時過ぎの到着まで寝ずに待っていてくれたコーチもいました。

 眠さと闘いながらも、次の日の朝から大会が始まり、私はいつもの担当の6年生と会場に行きました。今回で11回目の参加になる私はすっかり網野の方にも覚えていただいてて、お会いしてすぐ「今年は黒いね~どうしたん!?」と言われてしまいました。(涙) 子供たちは暑さに負けて悪い癖が出てしまい、いい試合ができず私も怒りっぱなしでしたが、2日目になるとようやくいつもらしいチームに戻り、楽しくサッカーができました。最終日の8日は試合は無く、カヌーを体験して帰る予定だったのですが、神戸で使用しているグランドの抽選会がこの日にあったため、もう一人のコーチと私だけ前日の夜に先に帰ることになりました。家に着いて鏡で自分の姿を見て「また黒くなってる・・・」とかなりびっくりしてしまいました。当分、タレントの方の事務所には顔を出せないかも・・・。

まとちかサッカー日記 :やっぱり大好き2005-07-11

2005年7月9,10日(土、日)雨

 皆さんこんにちは!「今年の梅雨は雨も降らずにどうなってるの~?」と前回言っておりましたが、7月に入り雨雨雨・・・。ここまで毎日続くと洗濯もできずでうんざり・・・。早く梅雨明けしてくれないかな~と思う今日このごろです。

 さて、今年はLリーグが始まってから見事に毎週毎週Lリーグの割り当てをいただき、Lリーグでは副審までしかできないので、「主審もやっておいたほうがいい」とインストラクターの方のやさしい心遣いで中学男子を中心とした練習試合の審判に行かせてもらっているおかげで、土、日どちらも審判漬けで、指導している子供たちに約2ヶ月近く会っていません。去年みていた5年生を、そのまま持ち上がりで6年生の担当になっていますが、リーグ戦の結果は聞いてるものの、みんな元気にやっているのかな?と気になっていました。

 8月の始めに毎年恒例の「網野合宿」もあるので、それまでに顔を出したい!と思って、7月10日は審判をはずしてもらい、練習を見に行くことにしました。その分7月9日は練習試合の審判をさせてもらうことになっていたのですが、グラウンドの関係で時間が大幅に変わって行くことができなくなってしまい、ちょうど9日も子供たちのリーグ戦が入っていたので、急遽そちらに行けることになり、大雨の中、原付に乗って会場に向かいました。行く途中、約2ヶ月ぶりに会う子供たちに「何しに来たん?」など言われたらどうしよう・・と少し不安になったりしました。しかし会場に着くとそんなことがいっぺんに吹き飛ぶぐらい「あっ的崎コーチ来た!」といつものように声が上がり、それぞれ自分たちの最近ことを、ちょくちょく報告してくれる子供たちがすごくかわいかったです。

 試合前に「久々に見るねんからいいとこみしてや!」と声をかけると「まかしとき~」といわんばかりの「はい!」という声が返ってきました。試合は雨の中ドロドロになりながら一生懸命がんばりましたが、1-2で負けてしまいました。でも今日は最後まであきらめなかった子供たちに満足、やっぱり指導者っていいな~と思いました。翌日の10日、練習でもはりきってみっちりやってきました。

まとちかサッカー日記 :3度目の出場、狙いは2連覇2005-06-26

2005年5月29日(日)、6月25日(土)

 皆さんこんにちは。6月に入ってもなかなか梅雨入りすることなく天気の良い日が続きますね。雨が嫌いな私なので晴れることはうれしいですが、水不足はやっぱり気になります。

 さてさて毎年恒例のネタになってしまいましたが、今年も懲りずに「ニッポンハムカップ」のミックスクラスに出場することになりました。何せ異様なつながりで寄せ集まって大会に出場するというチームで、今年は、去年までの男性メンバーが転勤などで関西に居なくなってしまい、出場する話もなかなかでなくてさみしいな~と思っていたのですが、そのことをいつもまとめてくれている人に言うと、喜んで集めてくれて今年も無事出場することになりました。

 今年は私が言いだしっぺだけに、がんばらねば・・と思っていたのですが、予選が行われた5月29日、前日の仕事の疲れで思いっきり寝坊してしまい、1試合目に間に合いませんでした(汗)

 常に女性が2人が出ていないといけないミックスクラスで、この日参加できた女性メンバーは私をいれて3人だけ・・私が遅れた1試合目は2人でがんばってくれました。(ごめんね・・)2試合目ははりきって先発出場!しかし相手もかなり上手くて苦戦。相手にリードされながら進んだ後半途中、必殺の交代でキーパーにキャプテンである高ちゃん(女の子)をいれて攻撃に男性陣を増やしました。高ちゃんは怖がることなく、男性のシュートもナイスセーブ。それに応えるように男性陣も決めてくれて見事勝利!!無事予選を突破できました。

 さてここまでくればもう2連覇をいただくしかないでしょう!?という感じで6月25日(土)を迎えたのですが、この日私は、仕事を抜けられず、参加できなくなりました。代わりに参加してくれたのが高ちゃんの友達で、決勝でもまたまた高ちゃんのキーパーのおかげで優勝したよ。と連絡がはいりました。一緒に味わいたかったな~と思いながらもちゃっかり後日、参加賞をしっかりいただきニッポンハムを味わいました・・・・。

サッカーとハート :現役のプロ選手って?2005-05-24

新企画は?

いままでこのコラムで私は思うままに好きなことを書いてきた。そろそろ「もういい加減にしろ!お前の話は聞き飽きた」という声が聞こえそうである。そこで今回は少し企画を変えて見たいと思う。私のコラムを見ていただいている方々の多くはサッカーへの興味を持っておられると思う。それがプレーのことであったり指導の事であったり、教育のことであったりと観点は色々あるだろうが・・・。

そこでサッカーを愛するそういった様々な背景を持った我々の仲間になにかしらプラスになることはないだろうか・・・・と頼りない頭をひねってあれこれ思案。そこで思いついたことが今回の企画である。現役のプロ選手がプロになっていくまでのプロセスにおいて何を感じ、何を思って成長を成してきたのか、そして成長のプラスになったあるいは刺激になった思い出の一幕があったのではないか・・・そういったことを聞けることができれば我々サッカー指導者、または教育に携わる者にとって参考になるのではないか、それこそ刺激になるのではないか・・・と。私の能書きを聞いていただくよりよっぽどプラスになるのではないか・・・そう考えたのである。

そこでヴィッセル神戸のジェネラルマネージャーの安達貞至氏(初代ヴィッセル神戸ジェネラルマネージャー、このたび5月中旬頃より神戸を立て直すために就任された) のご理解を頂き、岩元里奈広報担当の尽力の元、ヴィッセル神戸の現役選手へのインタビューをすることが実現し今回のコラムに至ったのである。

思えばヴィッセル神戸も2004年民事再生法を適用し再建にいたったのだが現在は神戸市の理解をそのまま得てクラブハウス・練習場をリニューアルし、下部組織の充実、地元サッカー協会との密接な関係造りの必要性を新たにし、いわゆる新生ヴィッセル神戸と言う香りがたくさん漂ってきている。

いぶきの森にあるヴィッセル神戸クラブハウス

ヴィッセルは地元に根付いたクラブに生まれ変わろうとしている。私は皆さんにヴィッセルの生まれ変わっていく様子をぜひ感じていただきたいとも思っている。このコラムが少しでも皆さんの理解・応援を得ることに、そしてヴィッセルそのものの変革の手助けになればという思いもある。ヴィッセルだけを応援するわけではないが、しかしながら我々地元のプロクラブを応援し“おらがチーム”と思うことは言うなれば至極自然なことなのだから・・・。

いぶきの森人工芝でトレーニングをするユース選手

さて今回、私の質問に熱心に答えてくれたのは地元神戸出身の和多田充寿(わただみつとし)選手。なぜ最初が和多田選手なのかと言うと、私がまだヴィッセルにいた頃にヴィッセルの一員としてプレーをしていたので私としても話がしやすかったこと、そして何より地元神戸出身の選手と言うことで読者の皆さんにも興味を抱いていただけると思いお願いをした。彼は嫌な顔ひとつせず答えてくれ、むしろ熱く語ってくれた。正直私は驚きと最近の調子の良さを見たような気がした。

クラブハウスでのインタビュー風景

実は私としてはインタビュアー初経験である。終わってから「あれしたら良かった、これもしておくべきだった」と今自宅で書きながら思っている。今回はインタビュー内容を録音をせず、メモで書きとめ後でまとめる方法をとったのだが、一言一句間違わずに掲載するほうが良かったのだろうかとも思っている。がしかし正確な語尾は別として話してもらった内容のニュアンス、語意は何とかお伝えできていると思うのでご了承願いたい。

質問(1) サッカーを始めたきっかけは?

和多田選手のお父さんが神戸市内の少年サッカーチームの指導者をしておられたということで物心付いたときにはグラウンドに出入りし、ボールを触っていたらしい。いつといわれると答えるのが難しいがサッカーを始めたきっかけは環境がそうさせたというしか答えようがないということだった。

質問(2) 少年サッカーチームから高校時代、神戸で過ごした時期は・・・

私が大学を卒業して神戸FCのコーチを始めたとき和多田選手は小学校5年生だった。その頃私は神戸市選抜U-12のお手伝いをしていた時代であった。私のコーチ2年目、和多田選手が小学校6年生のときのある話である。当時神戸市選抜6年生は神戸市選抜活動の集大成行事として中学に進学する直前の12月末、清水市で行われていたチャンピオンズカップというとても大きく盛大な大会に参加していた。当時の選抜6年生の監督・コーチ以下数人で神戸中央球技場(現在はウイングスタジアムになった)サブグラウンド横の喫茶店で最終選考練習会終了後、清水遠征の最終メンバーをセレクトする打ち合わせ会議を開いていた。結果としてはそのときの清水遠征メンバーに和多田選手は残念ながら漏れてしまった。その話を和多田選手にしてみたのだが、私としては「とても悔しかったですよ。悔しかったからものすごく練習をしたんだ!」というようなセリフが帰っくると想像していた。しかし予想に反して「そのときは何も思わなかった」と言う返事だった。そう聞くと何かしらネガティブなイメージを持ってしまいがちだが彼の話はこうである。

当時小学校時代はお父さんを始めとしてチームの監督・コーチも「勝て勝て」とか「何で負けたんだ」というようないわゆる近年の“加熱“傾向がなく、あれこれ言われなかったそうである。それゆえにのびのびとサッカーをすることが出来、後々のハングリーさや負けたくない気持ちが逆にいっそう強くなったと語ってくれた。そして彼はこう付け加えてくれた。「負けたくないと言う気持ちは自分で感じ、思うこと。人に悔しくないのかと言われ”あ〜負けることは悔しいものなんだ、“と押し売りされるものではない。そうやって覚えた悔しさは本物ではない。」と。それが後々の和多田選手を作っていったのだと思う。彼は中学時代、高校時代においては全国大会の舞台にあまり縁が無かった。あまり・・・と言うのは実はひとつだけ兵庫県選抜として国体において準優勝をしたことがある。彼は自分のチームでは残念ながら全国大会への切符は手にすることが出来なかった。それゆえ悔しい思いをしたという。そのときの悔しさは自らが感じ、思った感情であり本物の“悔しさ”であったと推測できる。これは直接的に言葉として発言があったわけではないが会話の前後・抑揚からして彼がそう思ったことに間違いはない・・・と私は感じ取った。

彼は自分の将来のことをこう思っていたという。「もちろんサッカーは続けたい。しかしまだまだ自分には経験が足らない。自分のプレーに自信をつけなければならない。そのためには大学に進んでプレーとともに知識をつける必要がある。」と。そのため運動選手としての生理学・栄養学・心理学的な知識などを身につけることが出来、なおかつサッカーの実技面でもレベルの高い大学と言う選択条件から筑波大学への進学を希望していたという。しかし筑波大学への推薦の条件は全国大会ベスト4以上。自チームで全国への切符が閉ざされたとき、国体へのかける思いは並々ならぬものがあったのだろう。結局筑波大学入学を成し遂げ和多田選手はユニバーシアード日本代表選手にも選ばれるに至った。

熱心に語ってくれる和多田選手

質問(3) 大学時代の印象に残る指導者の言葉は?

和多田選手がサッカー選手として育って行く過程の中で様々な経験を希望に近い形で得ていった中、いよいよプロとして、大人として飛躍していく最後のカテゴリーの大学生時代、いったいどのようなことが彼の背中を押してプロの道へと勧めてくれたのか・・・今、私が大学生を指導しているからなのか少し興味を抱き聞いてみた。

当時ユニバー代表の監督がたまたま関東学生選抜のコーチもしていたということでよく話しを聞いたという。そのなかで印象に残っていることは「良いところを伸ばせ!」と言う話だったという。

スピードを伸ばせ・・・すれば縦に抜ける速さが身に付く。思い切りのいいプレーをしろ・・・シュートが打てる。フィジカルトレーニングをしろ・・・あたりに強くなれる。遠目からシュートが打てる。そういったことからそのコーチは「相手の嫌がるプレーをしろ!」とも教えてくれたという。

当たり前なことではないか・・・と一見思えるようなこと。しかしこうやって個の力で局面を打開できる選手が現代サッカーではどれだけ必要なことか。技術・戦術・体力といわれるサッカー、結局すべて必要だと思うのだが最終目標はいつの時代も同じ。点を入れて点を与えないこと。難しい戦術やトリッキーなフォーメーションより結局必要なものは個の力なのである。おそらく和多田選手は経験を求めて進んでいった大学時代に周りのハイレベルの選手にも揉まれながら個の力で自分の周りの環境を打破していき、自信を付け・深め、プロの世界へ飛び込んでいく決断が出来たのだ。この1年単位の契約の世界で生きていく自信を。

質問(4) 生涯の友人の中においてサッカーの友の占める割合は・・・

少し漠然とした質問なのだが和多田選手はサッカーを小さい頃から続けてきたおかげで良い友に恵まれてきていると思うのだが、実際に仕事がサッカーということはプライベートの時間もサッカーの友人となりはしないか?となると休日のリフレッシュができるのだろうか?少し答えにくい質問だったのだが和多田選手はこう答えてくれた。

「大学を出たての頃はサッカーとはあまり縁の無い友人たちに”プロってすごいね“とか”好きなことが仕事になっていいね“とか言われました。それをなんか素直に受け取れない時期があったのも事実ですね。なら自分達もやってみたらいいのにとか、やってみないと分らないしやってみたら出来るだろうから羨ましがらずにトライしたらいいのに・・・とかね。しかしこういった思いは年齢を重ねるとともに考え方も変わってきて今では逆に他の業界の友人にその人の仕事の話とか聞くのが面白いんですよ」って。
和多田選手は自分の好きなことを職業にして生きて行っている事を楽しんでいるようだ。だから逆にサッカーにおいて妥協できないって話してくれた。そうした“自覚”がなせる業なのか「若いうちに経験したい、若くても経験は出来ると思っている」と。今時分の年齢で人付き合いが出来てきて(大人としての)受ける影響は日に日に増してくるという。まさに一期一会だ。最近は他種目のスポーツ選手とか同級生のサラリーマンの人と話しをしたりするという。

よく体育の世界では”レディネス“と言う言葉がある。これは準備が出来ている状態を表す言葉なのだがまさに和多田選手は今”レディネス”状態で心身ともに充実しているのかもしれない。

質問(5) 自分の中で今後変えていかなければ?付け加えていかなければ?と思うことは

先ほどの質問(4)と重複するところがあるのだが自分の描いてきたこと、必要だと思ってきたこと、つまり”経験”と言うものがまだまだサッカーの世界での経験でしかないという思いがあると話してくれた。

「世の中には様々な考えを持っている人がいて自分の知らないことがたくさんあると思う。サッカー以外の人と出会いサッカー以外の刺激を受けたい」と。そして
「すぐカーッとなったりすることも無くし、もう一歩というところで手を抜かず頑張るという、いわゆる“際どい状況”で踏ん張りが利く人間になりたい。世の中でよく言われることで“自分のではやっているつもりでも人から見ればまだまだに見える”ということがあるだろうけど今まさに自分がそうではないのかと思い続け自分の中にそういった振り返る力を取り入れていきたい」と。ONとOFFを使い分け色々なことを吸収したいといってくれた。

私が言うのもおかしいのだが“大学出たての和多田充寿”から1976/3/26生まれの“29歳の和多田充寿“は変革をしていた。本当に”大人”で自分を高めたいという思いが伝わってきた。私はぜひ応援をして行きたいと思う。
ぜひヴィッセルの現時点での苦しい状況に負けず飛躍してほしいものだ。

インタビュー終了後のショット
若さの和多田選手とおじさんくさい私の2ショット

まとちかサッカー日記 :引越し2005-05-09

2005年5月9日(月)

 皆さんこんにちは。4月から新しい生活が始まった方々は、もうそろそろ落ち着いてきている時期ではないでしょうか?そんな頃に私は新しい生活をスタートさせようとしています。今まで2~3個もアルバイトをして生活費を稼いでいたのですが、4月から7年ほど夕方からバイトをしていた飲食店で、昼間の仕込から入ることになって、他のバイトを辞めてそこのお店1本で仕事をすることになりました。

 マスターがずっとサッカーをしており、私のこともずっと応援してくれていて「サッカーとタレントの仕事は優先していいから」というなんとも心の広い条件でそこのお店1本で行くことに決めました。

 今まで三宮店の方で働いていたのですが、5月に灘区にある本店がリニューアルオープンすることになり、それに伴い私もしばらく本店に手伝いに行くことになるということと、体力トレーニングをするのに王子公園近辺の環境が良いということで、灘区に引越しすることに決めました。家探しをする中、なかなか条件にうるさいもので、かなり不動産屋泣かせだったのですが、たくさん物件をみてようやく決まり、5月9日に引っ越すことになりました。

 仕事の合間に少しづつ荷物をまとめていってたのですが、ダンボールに詰めても詰めても荷物が減らない気が・・・。(汗)以前実家からこの家に移ったときは、引越し屋に頼まず、父の車を借りて少しづつ1人で地道に運んだのですが、今回はそれは無理なようです・・・。引越し当日も朝から引越し屋さんが来るまで、一生懸命荷物をまとめていました。友達が手伝いに来てくれていたのですが、引越し屋さんもきてびっくり!思わず私の友達と2人で住んでいるのかと思ったらしく、「2人にしては荷物が多いですよね。(笑)」と笑顔で言われてしまい、とても「私1人の荷物です」とは言えませんでした。それでもなんとか荷物を押し込み、無事新居へ・・・。断腸な思いでいろんな物を結構捨てたのと、前より少し広い部屋になったのでゆとりの空間ができました。あとはこの状態をどれだけ長く保つかが、私の試練ですね(笑)新しい生活環境のもと、リフレッシュスタートです。

P・Sサッカー雑誌はやっぱり捨てれませんでした。(笑)新居の方にロフトが付いているのでそこがサッカー部屋となりました。

まとちかサッカー日記 :待ちに待った対戦2005-05-03

2005年5月3日(火、祝) 快晴

  皆さんこんにちは。今年のゴールデンウィークは何連休とれましたか?サッカーをしている方は、この連休はサッカー三昧といったところでしょうか?私はもちろん仕事とサッカーで毎日大変なゴールデンウィークです。

 Jリーグもゴールデンウィークになると立て続けに3~4試合行われ、選手は中3~4日で次の試合を行うというきついスケジュールになります。今まではそれを「大変だろうな~」と人事のように思っていましたが、今年はLリーグでそれを体験しました。普段違う仕事をしているとはいえ、副審の私でさえこんなにしんどいなら、選手は本当にきついだろうな・・・と実感しました。

 そんな連休の中でも私は5月3日に割り当てられた、アスパ五色で行われたLリーグ、田崎ペルーレ vs 岡山湯郷Bellの試合をとても楽しみにしていました。この日記で何度かお話している私の幼なじみが湯郷でサッカーをしているからです。本当は去年のシーズンでペルーレを引退した親友がまだ現役でプレーしているときに、この対戦で私が主審としてピッチに立つのが1番の理想だったのですが、それが叶わなくなっても、この対戦でまだ副審としてですがピッチに立てるのがうれしかったです。しかも去年はサブが多かった幼なじみが、今年はスタメンで出場することが多くなっていたからです。

 しかし両チームのメンバー表が配られたとき、幼なじみはサブメンバーに印が入っていました。少し残念に思いながらも「怪我したのかな?いやサブには入っているから大丈夫だろう・・」といろいろ考えましたが、ウォーミングアップで元気にボールを蹴っている姿を見て少しほっとしました。

 この日私は「副審1」といってベンチサイドの副審をしました。ベンチ横でずっとアップをしながら、試合を見て声を出している幼なじみが背中にいました。結局この試合では彼女が出場することはなかったのですが、今度出場しているときにまたやりたいという楽しみができました。

 帰り際にメールで「何でサブだったの?」と聞いたら、「連戦ですこし調子が悪かったから」と返ってきました。この連休、選手たちには本当に大変なスケジュールなんだと思いました。次はなか4日で5月8日の試合があります。私も体調崩さないようにがんばらないと・・・。

サッカーとハート :コーチとしての成長プロセス2005-04-20

祝30号

これといって理由はないのだが日々の鬱憤を晴らすべくコラムに着手。なんだかんだと30号である。まとちか日記、カルチョの旅には号数抜かれたがこれからも書きます。嫌がられても・・・。

はじめに恒例の近況報告を・・・

2005年度関西学生サッカー春季リーグは4月3日(日)に開幕。我々姫路獨協大学の初戦は3部から昇格してきた京都大学と対戦。ここ2シーズン初戦を落として苦労をしているだけに今回は勝利で初戦を飾りたいところ。開始から良く走り、シンプルにロングボールを多用してくる京都大にイージーミスをしないように慎重に応戦。立ち上がりから20分間は中盤を支配され、守備の時間帯が多かった。が半ば過ぎにカウンターで左サイドからのセンタリングをきれいにヘディングで合わせ1-0。その後も追加点を入れ2-0と勝利で開幕戦を飾った。

翌週4月9日・10日と2節・3節が連続で行われた。1-0で大阪市立大を、2-1で神戸大を破り開幕3連勝。4月17日には4節として京都教育大と対戦。4-1と前節までに比べると少し点が取れた試合になり4連勝を飾った。

17日時点で勝点・得失点差・総得点・総失点も同じで甲南大と暫定同率首位。以下近畿大(3勝1分け)、関西外国語大(3勝1敗)、奈良産業大(2勝2敗)、大阪市大、京都教育大と続いている。

関西学生リーグの記録はこのホームページにて見ることが出来ます。

近況報告IIを・・・

それではもう少し近況報告。このコラムは2月7日付からかなりご無沙汰をしている。コラムを見てくれる人は少ないとは思うが、わずかながらでも見てくれる人がいるのであれば「多大なるご迷惑をおかけしたことと期待(?)を裏切る形になったことを深く反省し今後は定期的に出せるようにしていきたいと思う」と反省せねば・・・。いつものことながら。 言い訳をするわけではないがこの間の状況は以下のような感じであった。
2月10日〜13日 神戸市サッカー協会U-12少女神奈川遠征
2月15日 姫路市助成事業・研究発表会(大学関連)
2月19・20日 兵庫県サッカー協会 U-16県民大会
2月20日〜25日 姫路獨協大学自然活動実習(スキー実習) in戸隠スキー場(大学関連)
2月26日 姫路獨協大学サッカー部新入部員説明会
2月28日、3月2日 関西学生選抜練習会(大阪萩谷、阪南大学 etc)
3月3日〜6日 デンソーカップ 日本学生選抜地域対抗戦(新居浜)
3月8日〜11日 姫路獨協大学サッカー部合宿(岡山)
3月26日〜30日 神戸市サッカー協会U-12上海キャンプ
4月1日・2日 兵庫県サッカー協会 2006年兵庫国体U-16選抜対象学年合宿
4月3日 春季学生リーグ開幕
4月5日 大学入学式
4月6日 大学新入生オリエンテーション開始
4月9・10日 春季学生リーグ 2・3節
4月11日 大学授業開始
と・・・。 この時期大学は授業が無く、自分の研究に時間を割く・・・というのが大学の先生の一般的な行動パターンのようだが、なぜかこまごました行事が立て込んでゆっくり落ち着いて“物を書く”とか“研究”をするという状況ではなかった。こうやって日を並べてみるとそれなりに空いてる日もありそうなのだが・・・・実はその空いた日は空いた日で何やらはいってくる。この2月から新年度に向けては仕事の面でもサッカーの面でもたてこんでしまった。

サッカーしたけりゃ仕事せい・・・!

その空いた日にこんなことが・・・。
私は学内ではサッカーばかりしている奴と思われているのではないか・・・と実は心配していた。現実にエレベーターである先生と鉢合わせて二人きりになったとき「この世界は論文だよ。いくら実技に熱心でも論文。ろ・ん・ぶ・ん・・・・。」といわれたことがある。だからというわけではないが赴任1年目と2年目にそれぞれ1つずつ論文を書いていた。大したものではないがそれぞれA4サイズ1ページあたり2,500字で26〜27ページくらいは書いただろうか。その甲斐あってか2004年末から昇進人事に懸かり2005年2月の教授会における昇進人事委員会の審査発表を経て3月の教授のみによる人事教授会で正式に内定が出た。4月1日付けで助教授になってしまったのである。なんてこった・・・。

それと平行して2月には日本サッカー協会指導者養成チーフの山口隆文氏より公認B級コーチ養成インストラクターの打診を受けた。拘束時間もそんなに多くも無く学内の業務に支障も少ないだろうということ、そして何より自分自身にも良い経験になると思い引き受ける返事をした。すると何がどうなったのか・・・よほど成り手がないのだろうか・・・今度は田嶋幸三氏、日本協会技術部部長松田氏より連絡が入り、ナショナルトレセンコーチ就任依頼の話が入ってきた。どのくらい拘束時間があるのか・・・というレベルを超え多忙になるだろうと思ったのだがこういう仕事はなかなか出来るものではない。仕事に支障をきたすことなくトレセンコーチ業務を引き受けようと思い大学にもきちんと話を通し、受託することにした。

こうやって空いていたはずの日はこまごまと調整に追われてしまったのである。

JFAへの顔利き

自分の本音のところではこういう考えがある。兵庫県は過去から歴史的に日本サッカー界を引っ張ってきた先達が多く排出されてきている。現兵庫協会会長の村田氏もそうだ。日本サッカー協会専務理事をされていた方だ。過去には日本代表選手、日本協会技術委員長、日本代表監督等の役職を歴任してきた大先輩が多くいる。数えたらきりがないくらいだ。そしてその先輩たちは半端な立場でなく日本サッカー協会、日本サッカー界において実績を残しかつ影響を与えてきた人たちばかりである。あまりに大きな存在であるがゆえに近年こういったことが言われて久しい。「兵庫からは現在日本サッカー協会に顔が利く人間が出てきていないのではないか?」と。最近で言えば黒田先生か加藤氏くらいか・・・。しかしその先輩も53〜55歳になる。早く先輩に追いつけ追い越せの40台、30台が出てこないと兵庫危うし・・・であると。

恐れ多くも自分がそういった立場になると言うことではないが何かしらパイプを維持し、後世につないでいくことも今回のJFAの依頼は自分に課せられた使命ではないのかと考えたのである。直接私でなくても良い。うまくパイプをつないで“外様”の私でない誰かが兵庫のリーダーになったらどうだろうかと。

協会業務の優先順位

ヴィッセルをクビになったときも実はナショナルトレセンコーチの打診はあった。当時は現サンフレッチェ広島監督の小野剛氏から頂いた。そのときはJFAと契約をするという形態であったが現実的には金銭面で条件が合わずお断りした。しかし先にも触れたが前々から兵庫県サッカー協会への思いや自分自身の指導者としての目標としていつかJFAの仕事をしたい・・・という思いは持っていたので素直に再度の打診は嬉しくそしてやってやる ! という思いで受けた。(別に謙遜するわけではないが自分の何が評価されての打診なのだろうかという思いはある。・・・自分では分ったような分らない状態である。)

しかし仕事を受け入れると何かを削らなければならなくなる・・・というのは世の常。体はひとつしかないのだから。人間出来ることは限られている。いくらスーパーだといっても行事が重なれば物理的に無理なのだから。ましてやスーパーマンでない私ならなおさらである。そこで私は私自身が優先させる仕事の順位としてJFAを1番にあげた場合、必然的に関西、兵庫、神戸と並んでしまうだろう。となると神戸が一番最後?JFAの仕事が重労働であるがゆえ関西、兵庫、神戸FAの仕事を下りてしまったとしたら(JFAの仕事オンリーになったとき)数年後JFAの仕事を今度は交代(降りた)したときに私の周りには協会の仕事が何もなくなることになる。こんな先のことを心配することもないのだろうがこれも何か淋しいもので・・・。別にしがみつくわけではないが経験値を還元するのが大切だと言う思いがあるため出来るだけ現在の仕事も継続し多くを還元したいと思うのはむしが良いのだろうか。

若いコーチに・・・私の生き様

JFAの仕事がすべてではないし最高のものだとも言わない。しかし少なくとも大きな経験値としては財産になり一生残る履歴になる。いわゆる自分史の1ページとしてはそれなりに大きな出来事であろう。そこで私はいつも思う。よく「名選手名監督にあらず」と言う言葉があるが本当にそうだろうかという意見。しかし私は「名選手名監督に近し」ということは間違いないと思っている。紛れも無く経験値があるのである、名選手には・・・プレーヤーとしての。私はJリーグの選手経験も日本リーグの選手経験もない。しかし20年の指導経験はある。いいことも悪いことも、怒られた事も失敗したことも・・・すべて経験地として残っている。

実は私は旧公認C級(現在のB級)を取得したときに次のステップのB級(現在のA級)への関西協会枠推薦をもらえなかったことがある。理由はC級の成績が悪いからだと言う。その時点で今後一生B級は受講できないものだと思い、指導者としてはやっていけないと思った。しかし「指導者は資格がすべてではない。資格が無くても選手の心に響く指導は出来る。」と考え直し指導を黙々と続けた。その後ヴィッセルが神戸に誕生したときコーチになる話をもらった。そのとき「どこかで誰かが見てるんかな?」という思いを漠然と感じ日々の努力の結果を不思議な思いで感じていた。その後Jリーグ推薦枠で何とかB級を受講し現在に至る。

こうやって見ていると指導者も人間であり多くの失敗、経験を積むのである。要はいかにその経験値を吸収し次に生かせるかである。それに長ける事がよいコーチ、良いビジネスマンになれるのだと思う。そうすれば子供たち、選手、客は自然に反応し、結果も付いてくるのではないだろうか。多くのサポートがあったからこそだが私にとってヴィッセルジュニアユースで日本クラブ選手権3位、高円宮杯全国ベスト8、県選手権優勝、ユースでJユースカップのタイトルをとったのは大きな経験であったし結果であった。しかし移籍する前、少年チーム(神戸FCボーイズ)を指導し県大会3位、神戸FCジュニアユースを指導し県選手権3位になったことが実は大きかったように思う。こういった経験があってこそ全国ママさん大会でも優勝できた。そして少年から高校生、現在は大学生、ヴィッセルではサテライト、思えば幼稚園児も女子も・・・Jリーグの選手経験が無くても日本リーグの選手経験が無くても、そして名選手が名監督に近いと言う理屈のあるなかで・・・努力次第でコーチとして型が出来て、そしてどこかで誰かが見ていて評価してくれるのである。

今指導を始めて間もないコーチ・悩み始めているコーチ、努力はしなくてはならないのだ。努力していても自分では指導力が進歩しているか分らないだろう。しかし日々起こった出来事を消化し、次に生かすというサイクル・・・これが日々のコーチとしてのトレーニングではないだろうか。講習会を受けたときだけ勉強した気になってはいないか?勉強ネタはいつでもどこでも落ちている。それを拾って吸収できるか見逃してなくしているか・・・それが大きな違いだ。周りに敏感になる。これがヒント。

以前元日本女子ソフトボール代表チームの監督をしておられた山根重樹氏の話を聞いた事がある。氏は試合中あまりがみがみ言わない方らしい。ある試合でのことである。1塁ランナーに盗塁のサインを出した。チームの約束事でサインが分らないときには選手から「もう一度教えてください」と言う意味のサインがあるらしい。そのとき1塁にいた選手がその「分りません。もう一度お願いします。」サインを出したらしい。すると監督は何も言わずに再度出したという。結果、バッテリーに投球をはずされ易々と2塁でアウトにされたという。そこで監督は盗塁を刺されて帰ってきた選手にこういったらしい。「二度もサインを出せば相手に感づかれるのは当たり前だろう。アウトになるとわかっていて同じサインを出したんだ。これで分っただろう。いいか、いつどこで何があるか周りに敏感になっていなければ一流にはなれんのだ。」と。何を隠そうそのアウトになったのが私の嫁である。そのおかげで大人になれたといっている。何事も経験である。

いうまでもなく私はいつも家で周りをきょろきょろみて研ぎ澄ましているのである。