ユニット的考えの薦め2003-11-07

我がごとの話しを今回も引き続いて・・・。

過日、10月25日を持って2003年度関西学生サッカー秋季リーグ・2部Bブロックが終了した。
我が姫路獨協大学体育会サッカー部は春季リーグにおいて2部自動昇格を果たしたことによりサッカー部創設依頼初の2部リーグを秋季に経験した。
結果は3勝3敗3分、勝点12で第6位となった。

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初陣のトライ

 

創部以来初の2部リーグを経験した我がチームのメンバー構成は3回生5人、2回生2人、1回生14人、マネージャー5人の計26人の部員。加えて実は今年の春に新入生を迎え入れてやっと11人以上のチームになったという事実がある。そのことを思えば春季リーグにおける3部総合優勝(A~Dブロック1位4チームでの順位戦にて優勝)、2部昇格はよく頑張ったと言える。

だが、この2部昇格劇は裏返せば秋季リーグに向けて補強無しで2部というワンランク上の舞台を戦えということである。つまり年度替りのときのように新入選手の力を借りることができないのである。本当に2部を戦えるのか?1部昇格どころか残留できるのか・・・?そんな思いをよぎらせながら7月、8月と準備をしていった。

2部リーグの相手に対して何が出来る?

 

2部リーグはA、Bと10チームずつ2ブロックで行われ、前季(秋季リーグで言えば春季リーグ)の順位を元に10チームをランキング付けする。1部から降格してきたチーム(降格したとはいえ実力は1部レベルであるからして)をランク1とし、1部との入れ替え戦にまで進出したがおしくも敗れ2部に残留したチームをランク2、以降は前季の成績によりランク3、ランク4と続いていく。我々は3部優勝で自動昇格をしたもののランク9、しかし自動昇格でなく入れ替え戦において昇格したチームはわれわれより下位とされ最後のランク10位と位置付けられた。

リーグ戦というものは対戦していく順番というものが実は重要なウェイトを占めている。今回は初戦がランク2(大阪教育大学)、第2戦がランク1(京都産業大学)といきなり強豪校との対戦が組まれた。しかし3戦目からは逆にランク10(大経法大)、ランク8位(佛教大)、ランク7位(神戸商科大)、ランク6位(大谷大)、ランク5位(神戸大)、ランク4位(龍谷大)、ランク3位(奈良産業大)と対戦していった。

その状況に合わせて私が戦前に選手たちに対して言ったことは

  • トーナメントでなくリーグ戦であることをよく考えること
  • リーグにおいては如何に負けないことを徹底するかが大切だということ
  • 9試合の試合をユニット分けして目標値をはっきりさせること

勝点3を取るべき相手と勝点1でも獲得すれば良しとする相手を区別してその相手別に試合展開を考え準備するという考え方、習慣の会得

  • 勝ちをものにする、勝ちを逃がさないために物事をやり通す力を付ける
  • 1対1の守備力向上

をあげた。はっきり言って今回はこれ以外何もしていない。

2部リーグで何を学ぶ

「対戦相手がどこであれ自分たちの持っている力を試合で出す」ということと「相手によってやり方を変えていく」ということをバランスよく実践していくということは指導者としてかなり頭を悩ますところではないだろうか。公式戦なら負けたくない思いが大きくのしかかり敗戦を覚悟してまで“経験”を優先させるということをチョイス出来るだろうか?こう言った割り切り、言い換えれば思い切った事というものを実際には実践出来ないと悩む。と言いつつも勝つために対戦する相手に対応して自分たちの戦い方を器用に変えていくといったことが出来るというわけでもないだろう。出場する選手の経験値により、やれる事とやれないことが限られるのであるから・・・。しかしながらどこかでそういったことも指導していかなければならない。出来るとか出来ないとかは別としてもそういったことが実践できる能力を身に付けさせる、または身に付かないまでもそういった考え方をしていくと言う事が必要だということをわからせる指導をしていかなければならない。
我がチームの選手たちが全員私の言うことを理解しており、それ相当の経験を私が選手全員にさせてきているかというとそうではないかもしれない。証拠に我がチームにおいても一分も出場していない選手もいる。リーグの状況(現時点で何勝何敗か?次の試合まで何日空いているか?など)、背景(前節良い試合が出来ていたか?今日は雨か?相手は前節調子を上げてきていたか?など)、選手を育てていく上でのプロセス上の課題、相手チームの状況、試合をしていく上での背景を考え、我が選手のやれる事とやれないことを整理し、やれるだろう人間がやれるだろう事をやってみて、その結果として評価をし、先発とリザーブ、エントリー外の選手が試合毎に決まる。しかしそれは一時的なことであり試合毎に変わるというのも事実である。日々、個人的に変化をしていきリザーブに、そして先発へと名を連ねてくることは当然期待している事であり、そうあってもらわねば困るのだ。

今回、第1,2戦の上位ランクとの連戦をマックス勝点6のところ(当然6取れればよいのだが)何とか2ないしは3を取ろうと言い、第1ユニットとして括り準備をした。常時7名は1回生が先発出場する我がチームはどうしても経験が不足している。最終ラインセンターを3回生で占め安定性を高めてはいるが・・・。私はこの経験の少ないチームに対して経験を積ませる事を第1優先課題としてずっと考えてきていると同時にどうしても3部降格を避けたいという思いを持っていた。この相反する思いを両方会得する術はないかと考えた結論が1対1の反復とやり遂げる強さの向上であった。

プラン

第1ユニットの2試合を両試合とも引き分けで乗り切り勝点を予定通り2点獲得した事は結局大きな自信となったのだが、緒戦と第2戦においてメンバーを半分入れ替えての勝ち点2であったことが大きい。緒戦のリザーブ選手はリザーブでなくなるというチーム内の競争を生んだのだから。この競争が第2ユニットと位置付けた次の4試合の初戦、通算で言えばリーグ第3戦の勝利につながった。これは記念すべき2部初勝利となった。2部昇格順位戦決勝にて1-0で勝利した大経法大にリベンジされないというモチベートで返り討ちにあわせた。

人間はまさかと思うことを成し遂げた後や自分の持っている力を目一杯出し切った後というのは達成感というものを覚えてくることを証明したのが通算第4戦の佛教大戦。前半開始早々のなんでもない縦パスに誰一人付いていけない。失点後攻め立てるも精度が低くサポートも遅い、切り替えも遅いとまったく良い所が出てこない。それはひどい試合だった。しかし、第3戦までに見られた緊張の連続の試合を狙い通りに進めてくれば自分たちが「結構上手いのでは」と思うのも無理はない。何せ経験がないのだから・・・。結果的にはこれも自分達の気を引き締めるのに大いに有効なゲームであった。第5戦・神戸商科大戦、第6戦・大谷大戦と勝利をし、勝ち点を11とした。

私は選手たちに「第1・2戦で勝点を2点、第2ユニット4試合で最低勝点9点を取る」というプランを伝えていた。もちろん負けてよいという意味で4試合マックス12点のところを9点でよいと言っている訳ではない。つまり、できるだけ早い時点で(最速で5試合終わった時点)勝点最低11と言う目標を立てたのである。その根拠はこうである。10チームの中で自動降格に該当する最下位は普通、全敗で勝点0点。入れ替え戦に出なくてはならない9位と8位はそれぞれ1勝8敗と2勝7敗と考えられ、勝点で言うと3勝分の9点を獲得すれば残留圏内と考えられる。まあ少し余裕を見て11点というところかというプランである。しかも早く決めてしまえばしまうほど残り試合において思い切った戦い方、トレーニング、経験ができると考えていた。しかし、結果的にはこの第6戦大谷大戦を終えても残留を決めらないどころか最終節まで順位がはっきりせずもつれ込んだ。勝点12点も上げたのに・・・。

最終節、奈良産業大学に終了間際のフリーキックを押し込まれ1-2で敗れた。勝っていればその同日に行われている他の試合結果にかかわらず自力で残留を決められたのだが敗れてしまった。しかし運も味方したのか争っていた大経法大、佛教大がともに破れ我々は結果6位となった。実はこの両校が勝利していたら8位となり入れ替え戦に出なければならなかった。反面、奈良産業大学に勝利していたら4位になる可能性もあったのだからいかに混戦であったかお分かりいただけるであろう。

プランに対する実践

初陣として如何に格上と戦いながら結果を残し、それでいて選手に経験をつませていくか・・・?

それは第1にさせる事が出来るだろう“経験”を欲張らないこと。経験させるといってもありとあらゆることを経験させられるわけではない。相手がいて自分たちがいる。勝ち星など状況もさまざま。何を経験できて何ができないか?私は今回、格上の能力を持った相手選手に一瞬速い反応を持って如何に先手を取れるかと言う点に絞って個々を観察した。そして、一瞬相手に離されず付いていく、そしてそれを何回もやり通す守備の強さを何回も反復し練習、トライさせた。ハンドパスで行う1対1、2対2等など。リーグ開幕前3週間はこのたわいもない1対1の反復練習ばかり行った。結果は必ずしも満足いくものではないがそれでもそれなりに戦えるものだなあと逆に選手たちの奮闘に驚きさえ持っている。やればできるものだと。

リーグも佳境に入れば攻撃の練習などもしていかなければならない。いくつか行ったとは言え結局基本は個々が一瞬速く先手を取ること。そして前出の守備。フォーメーションだのコンビプレーの練習などはリーグ前2ヶ月間を通して全体の2割位だろうか。それでもそこそこの結果が出るのだ。「いや~ そう言うけどそこそこの選手を集めているからでしょう?」って言う人もいるだろう?よければ添付の選手スタッツ、星取表を見ていただきたい。

私が今回言いたいのは長期のプランをもって今を欲張らず、選手に何をするかを理解させ、じっくり練習すること。そのテーマによっては経験と勝利の両方を得る事が出来るということ。

皆さんに私の言いたい事が上手く伝わっているだろうか?良ければ皆さんのご意見聞かせていただきたい。

追伸

皆様から「いつ更新するのか?」毎日ホームページ見なアカンと手間がかかると言うお叱りを頂きました。そこで、11月よりこのコラムを2週に1回アップしていきたいと思います。本当に可能か少し不安ですが・・・大学で論文も書かなければならないもので・・・しかしチャレンジしてみようと思います。第2、第4月曜日にアップと言うことでよろしくお願いします。

そして今回の話題についてとか全体を見渡して私に対する批評とか何でも結構です。ぜひホームページ、私のバナー下の“ご意見ご感想はこちら”と言うところからいただければ幸いです。

自分の指導とはどんなことをしてきた歴史なのか2003-10-02

少し前に我がチームの指導に関するお話を書いておきながら、続きがそのままになっている号が有る。実はその続きを書かねばと思いながらもついつい違う話題に走ってしまっている。今回こそ、その続きをと思いながらもまたしても違う話題にふれてみる。

実は先日ある方から励ましメールを頂いた。その中でヴィッセル神戸ユース時代の話があればというお話しだったので、今回は少しそういったお話をしたいと思う。

神戸フットボールクラブ時代

私は大学卒業と同時に社団法人神戸フットボールクラブという日本初の社団法人を取得したサッカークラブへ技術職員、つまりコーチとして就職した。前にも述べたと思うが、指導者を志していた私にとって、とても魅力ある機会と思い迷わずお世話になった。それが1986年の4月。1995年にヴィッセル神戸が立ち上がるまで約9年、幼稚園児からベテラン(50歳台、60歳台のサッカーチーム)まで、老若男女問わず指導の現場を経験させてもらった。神戸FCには日本代表コーチを歴任された偉大な指導者、岩谷俊夫氏(故人)や大谷四郎氏(故人)らの教えが息つき生き続け、私にとってはサッカーとは何か?少年サッカーとは何か?と言うことを非常に強く教えていただいた。サッカーを捉える視点は、いつの時代でも多種多様いろいろな視点があるものであり、時代背景によっても当然違いは出てくる。正解なんてものはない。当時の諸先輩方が考えておられた視点、それはそれで大変考えさせられ、刺激を受けた。

私は《一通り知ることが出来るものは知りたい、読めるものは読んでいきたい、頭に入るものは入れていきたい、そこから指導の現場で子供達や選手に話してあげる内容は自分自身が知り得た物の中からチョイスして伝えればよい》と考えている。こう考えるようになったのもたくさんの先達たちが関わり、神戸のみならず日本の少年サッカーをも型作った神戸FCに携われたからであり、目から鱗が剥がれ落ちるような思いをたくさん出来たからこそだと思っている。そう思うと、大人でも子供でも環境というものが成長過程には大切なものであり、また個人の知識欲というものも大切なものなのだと感じている。

前出のお二人は“経験”という、ご自分でプレーされた中から培った視点でのサッカー分析・指導をされていた。それに加え、新聞社にお勤めだった関係上(運動部等でサッカーに関する記事等を書かれ著書も多数ある)考えをまとめたり、それを伝えていく能力に長けておられた。私は岩谷氏とは面識がないのだが、諸先輩方からは伝説のように聞いてきた。

神戸FCで公的な文書、保護者宛の文書、企画書などの書き方を教わり、また新聞の書き方まで教わった。これは紛れもなくこのお二人に代表される神戸FCの歴史・伝統が与えてくれたものだと確信している。現在では賀川浩氏(芦屋在住)が神戸FCの歴史・伝統を継承し次世代では神戸FC創設者の一人である加藤正信氏の次男・加藤寛氏が継承者であろう。彼らは神戸のみならず兵庫、日本のサッカー、少年サッカーの生き字引とでも言える存在である。

皆さんは縦書きの新聞記事で漢数字と洋数字の使用方法の区別がお分かりだろうか?スポーツ紙と一般紙では違うのだが年号、日付、年齢は漢数字(スポーツ紙や運動面は日付は洋数字)であらわし、「国際Aマッチ123試合出場の○○選手が・・・」といった場合は洋数字、競技の記録や売り上げ数字なども洋数字が使われている。

ヴィッセル神戸創設期

1995年4月にヴィッセル神戸は正式に協会登録をして世の中に誕生したのだが、実は1994年の夏以降頃から具体的には準備が進められていた。当時は神戸に本社があるダイエーがメインスポンサーについており「オレンジサッカークラブ」と言う名前の会社を立ち上げ動いていた。ダイエーのカラーのオレンジから付けられた名前であった。私も現ヴィッセル神戸ホームタウン次長・加藤寛氏(前出。神戸FC時代より様々なことを教えていただいた、言わば私のボスであり今現在もヴィッセル神戸に出向中)とともにオレンジサッカークラブ本社(当時ポートアイランド・北埠頭駅すぐ)に足を運びユニフォームの事や下部組織の事などの話に参加していた。

その後、1995年1月の阪神淡路大震災によりダイエーがスポンサーから撤退しオレンジサッカークラブもダイエー社員が撤退したため新たに作り変えることとなった。それに伴いチームカラーもオレンジを使うことをやめ現在のエメラルドグリーンをチームカラーとしたのである。4月から試合が始まろうかと言う直前のこの時期、発注を済ませ、すでに出来上がっているユニフォーム・サッカーパンツ・ストッキングには白と黒の縦縞(現在のチーム基調と同じ)にオレンジのストライプが入っていたのは言うまでもない。しかしながら当然お蔵入りである。現在、当時のユニフォームが新ヴィッセル神戸事務所のミーティングルームに1着飾ってある。

当時、トップチームの選手は川崎製鉄サッカー部の選手が大半であり、倉敷広江で練習を重ねていた。岡山からいよいよ神戸に来て「本格的に始動だ!」と神戸目指し集合し、出発予定の日が1995年1月17日、なんと大震災の日だったのである。選手は岡山に引き返し、神戸からの情報も入らず、「本当にヴィッセル神戸としてリーグに参加できるのか?」といった心配が漂うなか黙々と練習に励んでいた。先日、鳥取SCの塚野氏(当時のヴィッセル神戸の選手)ともそんな話をしたばかりである。現アビスパ福岡監督の松田氏も当時の選手で体験談を話してくれた。

育成部での出来事

一方、私が担当した下部組織はどうだったか? 下部組織は神戸FCのユース、ジュニアユースの選手が移籍する形で発足し、ユースを加藤氏、ジュニアユースを私が担当した。そこへ川鉄のコーチをしていたネルソン松原氏も加わり、ユースは2人体制になった。当時の本社は三宮駅東側の二宮(にのみや)地域にあったのだが、机が三つ、電話が一つだけ置かれただけの1階フロアーに育成部の席が設置された。15メートル四方くらいの、割と広い部屋に机が三つのみである。

震災後グラウンドが一つもない神戸でジュニアユースの選手を抱えていた私は、武庫川河川敷、姫路市内のグラウンド、神戸の西の西神地区での練習と、3ヶ所を巡回指導の形で1月22日に練習を始めた。神戸は震災で大変だとはいえ、それ以外の地域は大きな被害もなく、ごく普通に生活できていた当時、4月から全国大会の予選は予定通り始まっていくのは目に見えていた。何とか子供達に予選に出て試合だけでもさせてやりたいと思い、250ccのバイクを走らせ巡回指導をした。夏は夏で三木市内のグラウンドを借り、朝から中1、中2、中3の3部門を1人で指導した。子供達は入れ替わり立ち替わり、一学年3~4時間くらいの間で数試合をこなし、終われば次の学年がまた数試合・・・。朝からずっとグラウンド・・・。しかも夏の各学年の遠征の企画書、予算書、先方との交渉(皆さんもやられていることですから私だけが特別ではありません)と事務作業は溜まっていく一方・・・。練習試合の審判はしなければならない、先方からは携帯に連絡は入る・・・、夜は会社に帰って残りの事務・・・。結構痩せていた当時の私をお見せしたい・・・気がする。

結局その年の夏、関西の予選で3位となり全国大会へ出場、秋も県中学選手権優勝、高円宮杯関西大会優勝、高円宮杯本大会ベスト8まで勝ち進んだ。この年の子は清水エスパルスの市川選手と同世代の子達で、清水は日本代表U-15選手を多く抱え、圧倒的な強さを誇っていた。我々は、夏の日本クラブユース選手権大会も冬の高円宮杯全日本ユース選手権(U-15)大会も、両方とも清水にベスト4を遮られたのを覚えている。私のチームにも、当時日本U-15代表の選手がおり、アジア予選をフル出場するレベルの子だった。藤原功旨(のりよし)といい、兵庫県三木市別所少年団出身で古谷先生に指導を受けてきた子でかなりのレベルの選手だった。高校進学とともにサテライトに合流させ練習を積ませるくらいに・・・。

つもり・・・

結局、藤原は本人の生活環境に少し異変がおき、サッカーをやめてしまった。私の知らないところで物が動き、進学する高校が決まった。親元を離れ社会人寮に入り、学校とサッカーの生活。よほどの自己管理と周りの良好な生活環境がない限りうまくいくはずがない。ましてや直接指導していた私の知らないところで物が決まっていくのだからサポートがしにくくなった。結果は・・・そう、サッカーをやめてしまったのである。プライバシーのこともあるのでここまでにしておくが、私が子供達に対して“責任”というものを知っていたような気になっていた時代から、親身になって考えるようになれた転機だったかもしれない。それまでも親身になってはいた。しかしそれは今から思えば親身になっていた“つもり”だったのかもしれない。今でも“つもり”だけなのかもしれない。今後もっと大きな出来事に出くわせば・・・そう思うに違いない・・・今は精一杯でも。

トップチームのコーチ

藤原の一つ下の学年には、現在ヴィッセル神戸のトップチームに所属する森一紘と当時一緒にトップチームに昇格し、現在ヴォルテス徳島に所属する大島康明がいた。森、大島時代のジュニアユースは夏の関西予選を、決勝戦で3点差スコアーにするくらいの力で優勝したのだが、続く全国大会では2年連続のベスト8に終った。秋の県中学選手権では、決勝戦で若草中学に1-2の惜敗で高円宮杯への出場はならなかった。彼らをユースに送り出した後も、続けてジュニアユースを指導したが森、大島世代の次の世代は関西5位、全国大会本大会1次リーグ負け、高円宮杯県予選では3位に終わり、満足行く成績を残せなかった。続くその次の世代、現大学2年生世代になるのだが、この子達は全国大会でやっとベスト8の壁を破り3位になった世代である。しかし準決勝で敗れた相手はまたしても清水エスパルスであった。

この年の中3を送り出した秋の1998年9月、トップチーム監督ベニート・フローロ氏(スペイン)がリーグ15連敗の責任を取って辞任。それに伴いヘッドコーチの松田氏(現アビスパ福岡監督)が監督代行職を務め、三浦コーチがヘッドコーチに就き、同時に私もコーチに就任しトップチームのサポートをした。主にはサブメンバーのトレーニングを行ったが、ユニバー競技場でのJリーグや当時の参入戦と言われる最後の残留争いの戦い等で常にチームに帯同した。特に参入戦ではホーム&アウェーでコンサドーレ札幌と対戦。アウェーの北海道厚別に行き、息詰まる接戦に先勝。神戸に帰っての第2戦はユニバー競技場での試合。勝てば残留が決まる試合でも勝利し残留決定。今でもあの喜びは忘れない。

ユースの監督時代の荒療法

残留を決め再度育成部門に戻り、今度はユースの監督に就任することになった。しかし何の因果かその時のユースのメンバーは間もなく3年生に進級という学年が、森、大島、当時国体選抜選手になった神戸学院大の藤谷、大体大の阿江洋介等。新2年生が現関学GKの水田泰広、国士舘の藤原宏樹、神戸学院の野間口慶太、新1年生が現関学の新保和也、甲南大学の陳賢太(1年間ヴィッセル神戸トップチームに所属)といった、現在もサッカーを続けており、ジュニアユース時代に悔しい思いをさせてしまったメンバー達であった。

秋口から練習を重ねたユースは、日本クラブユース選手権U-18大会関西予選で優勝を成し遂げ関西1位として全国大会出場を決めた。関西地域は3つの出場枠を争うのだが、毎年のようにガンバ、セレッソ、サンガに切符を取られていた。しかし、この年は1位として出場を果たした。ちなみに私は、ヴィッセルをやめるまで神戸FC 時代より通算してジュニアユース、ユース両カテゴリー合わせて日本クラブユースサッカー選手権大会本大会の出場を逃したことはない。

この年のユースはよく頑張り、夏の日本クラブユース選手権では毎年苦汁を飲まされてきた清水エスパルスに3-1で勝利し決勝トーナメント進出を果たした。(U-18大会は4チーム6ブロックで1次リーグを行い、各ブロック1位と成績のよい2位2チームの計8チームで決勝トーナメントを行う方式であり、最終順位5位以内に入ると高円宮杯全日本ユース選手権大会・現在のプリンスリーグへの出場権を得ることが出来た)決勝トーナメントの1回戦、ジュビロに破れ敗者戦に回ったユースは“最後の試合に勝てば高円宮杯へ出場が出来る”という試合の前の日、ある問題を起こしてしまった。

結果、私は6人いた3年生のうち5人を神戸へ強制送還した。ただ1人残した3年生と1,2年生で戦った5位決定戦の浦和レッズ戦。惜しくも0-1で破れ初の高円宮杯出場はならなかったが、私は3年生が起こした問題に対してよくよく彼らと話をし、私自身のこだわり、ポリシーをもって意見し、強制神戸送還を敢行した。プロになることを目指し、かなり厳しい練習をさせてきたが、同時に私は一人の人間としてサッカーを通しての生き方、正義、人情、常識、思いやり、真面目さ、砕けた表現だが人付き合い、会話などを学ばせたつもりである。だからこそ今を逃してはいけないと強制送還した。

夏が過ぎ強制送還させた子らは丸坊主にして私の前に現れた。どうやら改心したようである。様子を見ながら練習に参加させ、やがてJユースカップの1次予選を迎えた。結局、この年あれよあれよという間に優勝まで行き日本一を体験することになったのである。このJユースカップ大会、夏に強制送還された3年生もしっかりレギュラーを張り頑張ってくれた。

Jリーガーを育成する機関でも有る下部組織は、勝つことよりも育成することが重要だとよく言われる。私も今まで試行錯誤、悩みながら自問自答し戦ってきた。しかし私は、「この試合は0-2で負けてもよいから○○をしよう!」といってピッチに送り出すことなどありえないと考えている。試合は勝つためにするものであり、負けるためにする物ではない。ただ方法論にこだわらねばならないのである。負けて学ぶこともあるが勝ったらもっと学べるのである。勝つことと育成することは両立できる気がする。

当時こんなことをしたことがある。1999年、この年のJユースカップは予選リーグ3試合を終えた時点で1勝2分け1敗で後がない状態であった。大阪金岡でセレッソと対戦したユースは、開始7分に失点し非常に苦しい試合を進めていた。すると試合中に相手GKが蹴ったパントキックの浮いたボールが、ハーフウェーライン付近に飛んで来た。相手MFとヘディングで競るように見せかけていたはずの森が、急にジャンプを止め競るのを止めた。すかさず私は森に替え陳賢太を送り込んだ。プロになりたいと言っていた森に言った。「あれがプロのするプレーか?サボるのがプロか?」と。口で言うほど甘くはない。一つ一つをサボって何がプロか?

90分の試合の中でわずか1回ヘディングをしなかったくらいで、ゲームの大勢には影響がないかもしれない。しかしながら沢山のファンを作らなければならないプロ選手が、観客に感動を与えられなくてファンが付くかということである。コツコツ一生懸命走ったり競ったりしてもなかなか試合に勝てないのに、ましてやさぼって勝てるのか?ファンが付くのか?ということである。前節、グランパスに3-1で勝利し初白星を挙げたのだが、その試合で自分が先発からはずされた森はどう思っているのか?「悔しい思いをしているだろう」と期待を込めてこのセレッソ戦に先発させたのだが、今言ったようないい加減なプレーを見せた。私はそれを指導したいがために、絶対的にチームの中心であった森を途中交代させた。前の試合に次いで「負けても構わない!でもどうしよう」と思いつつ、そして半面「次年度の契約は破棄かな?」と自分の身を心配しつつも交代させた。それを選手は知ってか知らずなのか、その試合は逆転し2-1で勝利を収めた。1週間後の一次リーグ最終戦は因縁のグランパス。この試合にもう一度先発出場のチャンスを森に与えた。森はJユースカップ初得点を挙げる活躍で、3-1とグランパスに連勝しリーグ1位抜けを決めた。決勝トーナメントに入ってからは、1回戦塩釜FCに3-1で勝ち、2回戦はなんとまたしても清水エスパルス。よくよく縁がある。しかしながら夏に続いてジュニアユース時代の借りを返す勝利。3-3のPK戦ではあったが勝ち進んだ。エスパルスに勝ち、ベスト4を勝ち取ったこの時点で、子供達の中には達成感があるのか妙な空気が流れていた。中3日しかないのに困ったものである。いぶきで練習をしていた出発二日前に、あるいい加減そうに見えるプレーを引き合いに出し、キャプテン大島を一発どついた。大島にしたらしっかりやっていたのだろう。口をとんがらせて文句を言いたそうであった。確かにそんなにひどいプレーではなかった。しかし、この達成感が招く変な空気を断ち切るにはこれしかない。大島には悪いがキャプテンの宿命、犠牲になってもらった。準決勝は愛媛FCに3-2、決勝はマリノスに2-0。子供達はヴィッセル神戸に念願の初タイトルをもたらした。

指導者の仕事の一つ

3年生よりは2年生、2年生よりは1年生と出来るだけ若くて戦力になりそうな選手を発掘し育成する、これは下部組織では常識的な話である。3年生の有能な子はサテライトもしくはトップで出場することになる。それに達しないレベルであれば高卒段階でのプロはありえないのである。だから3年生をJユースカップに使わない球団が多い。もう望みが無いとでも言うように・・・。しかし私は3年生を使ってきた。この年だけでもない、ずっとそうだった。この年は、森、大島がトップに昇格した。他は大学サッカーに行った。ただ「トップに昇格させてみるか」という話しのあった子は他にもいた。しかし私が止めるように言った子もいる。将来設計の中で、はっきりと可能性を伝えてやらなければならない子もいる。指導者はプロを育てることが仕事だといい、ただ闇雲に「チャンスはわずかだがやってみる価値はある!」と言ってプロの世界をトライさせるのか?大人というものはいつの時代もご意見番であり経験者である。やらせるのか、止めさせるのかをしっかり指導をしてやらなければならない。ゆくゆくは本当に子供達を一生懸命指導するハートを持った人に預けたいものだ。そのためには指導者自信がプロのレベルやアマチュアとの違いを把握、体感し、言葉として伝えられることが必要である。そう思うと日本のプロサッカー、育成の歴史はまだまだ始まったばかりである。そして元Jリーガーが子供達を教えるようになることがひょっとしたら大切なのかもしれないと思う。しかし、元Jリーガーはまだまだ体感的フィーリング指導が多い。

言い換えればつまり、元Jリーガーで実績、実技力があり、経験値も多い者が子育て、育成、指導、サッカーの捉え方、考え方、世間・社会とのコミュニケーション能力などのサッカー以外の能力を身に付けられるようになれば鬼に金棒である。(逆にサッカー以外の能力がある人がサッカーの能力を身につけるか・・・。)そうなった時が日本の子供達の更なるレベルアップがかなう時であり、安定した力を持ち一定レベルを維持するサッカー国になっていくのであろう。

今回、実名で教え子達に登場願ったが、私は決して私が育てたなんて思っていない。一通過点なだけである。それよりもっともっと飛躍して欲しい、まだ物足りないとさえ思っている。一紘もなかなか試合に出られていないわけだからまだまだやることはあるはず。この場を借りて教え子達にエールを送りたい。

今日の努力は明日への成功! 今を精一杯頑張れ!

芯を持て!売れ!2003-08-20

何日経ったことか・・・、「夏休みこそ時間があるから毎週書いたんねん!」と意気込み、ある人に豪語までしたのに・・・これや、情けない・・・。それでも「まだですか?楽しみにしていますよ」と言ってくれる人が多少なりともいてくれて・・・ありがたいものだ。このコラムごときを読んでくれる人がいる限り頑張って書くぞー!・・・と反省する今日この頃である。

家で寝る

大学の指導をするようになってめっきり遠征や合宿が減った私の夏休み(今現在9月中も大学生達は夏休みではあるが)。今年も40日間ある夏休み期間中、家で寝る日が家で寝ない日を上回った。わが家族は私が家にいるということに対してどうも不思議な感覚を抱いているようである。家族だけではない、私自身にとっても不思議な感覚、違和感はある。17年間ずっとそうなのだが、40日ある夏休み期間中、10日間も家で寝るか寝ないかの状態を過ごしてきた私にとって、毎日が学校と家の往復、しかも決まった時間に決まったところで練習を行う、と言う事への違和感、不思議な感覚はない。

環境は絆を強くする

神戸FC時代もヴィッセル時代もそうだったが練習会場といえば公共のグラウンド。しかもグラウンド抽選会に並んでくじを引いてこそ借用の権利があるのであってくじを引かなければ使用の権利そのものがない。ましてや希望の曜日、時間帯を使用しようと思えばより小さい番号のついたくじを引かなければならず、子供達の都合に合わせてグラウンドを手配するというのは至難の業でありグラウンドを使用できないという事態などは容易に起こりうるのである。それでいてグラウンドを借りられたら借りられたでそのグラウンドにトレーニング機材、補給用の水などのサプリメントなどを車で運んでいかなければならない。そんな生活を17年続けていたのだ。

おもしろい話がある。1999年、ヴィッセル神戸ユースは当時(今もそうであるようだが)三宮の南、海岸近くにある“小野浜球技場”という公営の土のグラウンドを借りて月曜日以外毎日練習をしていた。震災後に開設され、当初はナイター照明もなく(今もないが)、更衣室もないただ空き地があるというようなグラウンドであった。その後コンテナーを利用した簡易更衣室が二つとトイレが設置されたが、いまだに水道は散水栓しかなく照明は工事現場のナイター車両をレンタルで借りてグラウンドを照らしている状態である。当時の選手達は震災復興途中の街を見て「サッカー出来るだけでも幸せだ」と私らを泣かすような心意気を持ってトレーニングに励んでいた。その年の暮れに行われたJユースカップで初優勝を成し遂げたユースのメンバー達は今現在も全員、何らかの形でサッカーを楽しんでいるようである。トップチームに昇格した森一紘、大島康明(現ヴォルテス徳島)、陳賢太(現甲南大)をはじめ大阪体育大学(阿江)、関学(水田、新保)、甲南大(早野、河合、、谷)神戸学院大(藤谷、野間口、小菊)、大教大(長手)、国士舘、慶応等々。当時の彼らの後輩達もジュニアユースとして一生懸命練習に励んでいた。彼らの活動場所も悲しいかな小野浜グラウンドが精一杯であった。しかし愚痴一つ言わず頑張った選手達がつかんだ物は優勝というものであり、同時に互いの絆というものであったのだろう。どうやら定期的に当時のメンバー、ジュニアユース時代のメンバーも含め40人以上集まってはサッカーのゲームをしているようである。私も喜びは忘れないし選手達への感謝の気持ちは表しようのない大きなものである。

しかし、優勝の歓喜覚めやらぬ2000年、年明け早々、球団に更なる下部組織飛躍のためにせめて水道を設置して欲しいなどの環境の改善の話し合いをしたく(何処へどう話を持っていけば改善できるか等相談をしに行ったのだが・・・)部長の元に行ったのだがその時のリターンは『やったら出来るじゃないか。今の環境で十分だろ。』であった。そして03年の今になって「選手をしっかり下部組織から育てろ」と指令が飛んでいるらしい。ナイター照明車のレンタル料金を見て「どぶに捨てるようなもんやな!」と言い放たれた時代から見るとヴィッセルも少しばかり進歩しているように思われる。

そんなことはいいのだが、今大学という環境にいて何が幸せといえば、目の前にグラウンドがあり、機材置き場の倉庫があり、雨でも使えるのである。そして水道があり、更衣室がありシャワーまである。しかも温水・・・。欧米のスポーツ環境なら当たり前のことが日本では当たり前ではない。学校という施設が公共の施設よりはるかに整っている。こんな環境でトレーニング出来る喜びを我が校の学生にも感じ取って欲しい。だからというわけではないが1回生には練習前のグラウンド整備を課している。ポイントの跡一つ付いてない位にきれいなグラウンドにするため、釘を2センチ間隔に打ったお手製のトンボで毎日・・・。

“環境”はクラブの“芯”を作り、そして“芯”は球団そのものになる・・・だから“芯”なのだ

今年の40日間の夏休みの間に私はアディダスカップ第18回日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会の仕事のためにJヴィレッジに一週間行っていた。それは技術委員として大会優秀選手を選考する仕事であったのだが久しぶりに全国大会に顔を出したもののJクラブの指導者の顔ぶれが半分以上代わっていたのには驚いた。これは良いことなのか良くないことか・・・。どっちともいえないがプロ選手になるにはこういった突然、もしくは年度のたびに監督が代わることに慣れるという意味ではよい事なのかもしれない。しかし、Jチームであろうと町クラブであろうと監督が代わるにしろ代わらないにしろ大切にしていかなければならないことは、いわゆる “芯” となるものは変えてはいけないということである。では芯とは何か?芯、すなわちそれがクラブ色である。そしてそのクラブ色となる “芯” がクラブの売り、セールスポイントとなる。あるクラブは “芯” を指導方針であると言うだろう。あるクラブは指導者自身であると言うだろう。また、クラブ自身の組織力、機動力がセールスポイントかもしれない。そういったそれ(芯)を見て世間のプレーヤー達(子供たち)が「どの球団(クラブ)がいいかなあ?自分に合っている球団(クラブ)は何処だろう?自分をどう育ててくれるのだろうか?」といろいろ考えて選択していくのである。良い”芯“を持っている球団(クラブ)に選手が集まるのは当然のことである。今や球団、クラブが選手を選ぶ時代ではない。選手が球団、クラブを選ぶ時代である。

現在の私の“芯”は・・・

それは現在の私とて同じである。姫路獨協大学サッカー部の芯は何なのか?どんなチームにしていきたいのか?どんな選手に育てたいのか?売りは何なのか?ということである。それがきちんと整えば、「だからこんな選手に来て欲しい!」ということになる。あまりプライベートな要求は公の場では公私混同なので差し控えるが簡単に言えば“芯”を作るということは指導に関すること・人に関することなどのソフト面と環境・サポート体制などのハード面とを確立させることである。今現在の姫路獨協大学サッカー部はそれらを整理していく段階であるのだがわずかずつではあるが変わりつつある。よい学生、社会人、人間を育成するには“素材”と“磨く方法”と“磨く機材”が必要なのである。素材は多数の先生方のおかげで早くも素晴らしい生徒が学生として入学してくれている。磨く機材として大学も積極的にサポートしてくれ、公式戦などはバスをチャーターして学生への金銭的負担を回避したり設備、機材の充実を進めている。後は磨く方法・・・、これは私の問題であり改善の余地が多いかもしれない・・・。
何が“芯”なの?と聞かれたら?

まあ平たく言えば
【サッカーをなめずに真面目に取り組み、サッカーを大事にしてくれる選手達と共にプレーしたい】
ということである。

この“芯”に興味を持って一緒にチームを作って行きたいと我がチームが選んでもらえるかもらえないかである。選んでもらえなければ衰退していくだけである。衰退がいやなら方策、方針を変えていくか・・・である。
どのチームも“売り”となるものを掲げなければならない。それをアピールする場?それは試合であり公の場への奉仕である。怠慢すれば忘れ去られていくのである。私の書いているこのコラムのように・・・。

コンフェデ杯が教えてくれたもの2003-07-14

先般行われた大陸王者選手権のFIFA CONFEDERATIONS CUP。ジーコジャパンは1次リーグ敗退という結果に終った。そして忘れてはならない190cm、80kgの不屈のライオンといわれたカメルーン代表のメンバー、マルク・ビビアン・フォエ選手が帰らぬ人となった大会。本当にサッカーは魅力あるものでありながらその反対側で牙を出し、苦しみ、悲しみを待っていたかのように突然襲い掛かってくる。我々サッカーに携わるものにとって一番辛いことは選手が一番喜ぶべき試合で悲しみに陥ることだ。あまりにもショッキングな映像を忘れる事が出来ない。人間はあんなにもろく倒れるものなのか・・・と。私には何も出来ないが、少なくとも同じ悲劇を繰り返さないように注意を払って選手と向き合うこと、これしか今はない。ご冥福をお祈りします。

結果は出ない

ジーコジャパンは今回、1勝2敗の勝ち点3。3試合戦って4得点3失点、4点の得点のうち3点は格下といわれるニュージーランド -結果から言っての格下であって本当はどちらが上か…- からあげたもの。様々な雑誌を見るといろいろな人が“評”を記している。「ごく常識的な基準にも達していない」「ワールドカップ常連国に180分戦って1点、大会がアウェーであったことを差し引いても不満が残る」といった具合に。彼らはそういった記事を書くことで生計が成り立つのだからそれはそれで終らせよう。私は私なりに書かせてもらう。

今回の日本代表の試合ぶりについては昨年のワールドカップの成績から考えて、それなりに期待するものはあった。期待というのは結果のことだけではなく、代表チームの進むべき方向がどのような方向なのか、そしてそれが青少年の指導の現場にどのようにフィードバックされてくるのか、また実際の代表チームの状況がどうなのか、新監督になってどのようなサッカーを目指しているのかというような部分である。そう簡単に結果が出るとは思はなかったがやはり良くはなかった。

そもそもチームを作るということは大変な作業を要することである。人材、時間、道具、場所、お金といったハード面の問題とトレーニングに関するソフト面とがより精巧に、しかもよりハイレベルで、それでいてグッドなタイミングでマッチしなければならない。そして最大難所は人間という計算しづらい生き物のピークパフォーマンスも考えなければならないということである。このようなありとあらゆる作業があってこそチームという生き物は活躍もし元気なく過ごすことにもなる。そう思うと今回の日本代表は良い成績を出しにくい状況であったことは日本代表に付きっきりで帯同していない私にだっておおよそ見当は付く。Jリーグファーストステージ戦の最中にリーグを中断して代表に切り替える選手、長く厳しいリーグを乗り越え本来ならオフであるはずの海外チーム所属選手、咥えて環境が違う選手が一緒に練習をする機会の少ない状況、新監督になって目指すサッカーが浸透していない状況、どれをとってみても極めて結果の出にくい厳しい状況であったのだから。

言いっ放しは聞きっ放しに通じる教育とサッカー

私は今の日本代表を見てこのままで終るとは思っていないがいくつか考えることがある。まず一つ目はジーコ監督の考えについて。

トルシエ監督がチームの進むべき方向性、チームの戦術、その戦術の実行方法、サッカーの考え方等を具体化したのに比べ、ジーコ監督は選手の閃き、即興性を前面に出している。日本の選手には一番得意な方法と一番苦手な方法があまりにも対照的に、しかも急激に対比されてしまった様に感じる。この事を我々指導者も含め選手、環境(環境を作る者)が感じ、対応しなければならないという事である。

日本の教育における“学校”は時間がきてチャイムが鳴ると先生が教室に入ってきて授業を進め、一方的にしゃべる。終了時間のチャイムと共に先生は授業を終わらせ教室から去っていく。つまりこういった授業が主流になっているという現実がKEYである。今、これをダメだと言うつもりはない。しかし【言いっ放しは聞きっ放しにつながる】という言葉があるように、こういった習慣でずっと育った日本のプレーヤーに  -しかも6・3・3制の都合12年も-  果たして即興性を期待できるのだろうか。成人になって代表チームに入ったときいきなり「自分の考えを大切にしろ」「自分で考えろ」「閃き、アイディアを大切にしろ」「即興性だ!」といわれても困るのではないか。困るだけならいいのだが実践できないとなればサッカーという現場においてはまったく意味がない。

考えるサッカーの浸透性

4のチーム力を3ランク上げて7にするのと7のチーム力を3ランク上げて10にするのとは同じ3ランクアップでも中身はまったく違う。低いレベルのチームがある程度のレベルには達するのは割とたやすい。しかしそこからが大変なのである。当然、8や9のレベルのチームとの対戦ともなると以前対戦した5や6のチームと比べてもレベルが高くなっている分、苦戦が予想されるのは当たり前。普通に練習、試合をやっている程度では追い抜けない。並以上の事を行ってやっと人並みというところか。つまり4を7にするためにはトルシエ流サッカーが必要とされ7を10にするためにはジーコ流のサッカーが選択されたということである。今までの日本のサッカーにおいてはトルシエ流具体化サッカー、オフト流具体的やる事提示サッカーのほうが選手も受け入れやすく結果も出やすいといったところだろう。あまりあれこれ考えずに限られた事を必死にやる、という事は責任も少なく比較的たやすいのであるから。

――((実際にはたやすい事でもなくかなりの苦労、努力があってこそ今の日本サッカーがあることは紛れも無い事実であり、それをレベルが低いとは言わない。ただここでは世界ナンバーワンを10とした物差しでの話である事をご理解いただきたい))――

やるべき事がはっきりするということは、選手個人が持っている力を何の迷いも無く「俺にはこれしかない」とか「失うものは無い、監督を信じて突き進め-」といった精神的相乗効果を得る事ができる。対戦レベルも下のレベルであればなおさら結果も早く反映するだろう。しかし、そこから上のレベルに押し上げていくにはそれまで以上の物を付け加えなければならないということである。そうでなければいつまでたっても相手とのレベル関係は同じままである。となると今まで以上のものとは何なのかという事になる。つまりそれがジーコ監督の言う一定の約束事の中に一瞬の閃き、即興性ということになる。このことを日本サッカー協会は選択したということである。

瞬時に判断する事、自分で考える事は今現在、少年サッカーが普及していく中で指導者講習会等ですでに盛んにレクチャーされている。全国各地の指導者は自分で考える事の大切さを選手や保護者に伝え、三位一体になることでより良い選手を育成する努力を重ねている。しかしながらそういうレクチャーを受けた選手が今20歳以上の年齢に幾人いるのか、またそういったレクチャーを受けてきたとしてもそれはその子供が育った地域レベルでの閃き、即興性でありまだまだ全国区、海外レベルにまで研ぎ澄まされてきてはいないと考えられる。トレセンシステムは1978年ころより始められているが本当の意味で世界を意識して選手を育成してきたのはここ4~5年ではないだろうか。コーチングシステム、コーチの質、情報量も変ってきている今、代表監督もジーコという閃き、即興性を重視する監督に代わり日本としては方向性を統一する時期なのかもしれない。

ワンクッション欲しい代表

しかし私個人としては少し時期が早いような気がする。トルシエ監督の具体化サッカーとジーコ監督の即興性サッカーの間にその中間的なレベルの折衷サッカーを表現できる監督を置くべきだと思う。私はレベルをアベレージに上げるにはトルシエ監督、将来的に理想とするサッカーを何にするかといえばジーコ監督の閃き、即興性、考える習慣のサッカーであるべきとは考える。しかし、全国的にまだまだ閃き、即興性、考える習慣を浸透できていない状況ではタイムリーではない。

となるとジーコ監督には代表監督というより日本のテクニカルダイレクター的な存在として代表チームからU-15,U-12世代の代表、ひいてはJの下部組織、国内の普及までを一手につかさどるセクションを田嶋幸三氏とともに就任してもらい全国に種をまく仕事が今の時期には良いと考える。そして期が熟してから満を持して代表監督に就任する。といった具合はどうだろう。

もう一つは環境

そしてもう一つは環境である。ジーコ的閃き、即興性、考える習慣はサッカーにおいて絶対必要な能力である事は疑いの無い事ではあるが、今の日本の中ではそれを育む環境が無いように思われる。つまりこれをどこかで変えていかなければ半永久的に日本のサッカーは世界レベルに成り得ないと言う事である。言い換えれば世界レベルの成績が出たときこの環境が出来たという事なのかもしれない。

いくらサッカーのコーチが叫んで「自分の考えを大切にしろ」「自分で考えろ」「閃き、アイディアを大切にしろ」「即興性だ!」といったところで1日24時間、1週間で168時間、その中で何時間選手と接する事ができるというのか。1日2時間、週3回の練習としても6時間、多く見積もっても週10時間しか接する事は無いのだ。その他は他の影響力を受けるわけである。そこにもし旧態依然とした方法論、考え方しかないとしたら…。

もう一つの環境

つまり、文部省が掲げる週5日制によるゆとりの教育というものは今までの日本の教育の欠陥を訂正しようと言うものである。総合学習とは何かと考えるにこういうことだと思う。

教室の中に問いかけがあり教室の中に答えがある時代の教育では現代社会に対応できないという事である。実際社会は教室にあるだけでの答えではとうてい対応できない時代になってきているということである。「子供たちに毎日魚を与えると食べていって生きていくだろう。しかし同じように釣竿を与えれば一生食べていけるだろう」という中国の諺があるが、つまり毎日食べるという事が大切だと教えるのではなく魚のとり方を教える事が大切であるということである。日本の教育は体験をさせる事が無く、すべて教室で答えを見つけようとしていたのである。

サッカー界は地域型スポーツクラブ、生涯スポーツを提唱し人材育成に力を注いでいる。以前にも述べたが子供というのは自立の躾と共生の躾が必要である。共生の躾には集団が必要である。その集団こそ地域スポーツクラブであり、少年野球でありサッカーである。

ジーコ監督が今回のフェデレーションカップにおいて我々に見せてくれたサッカーはまさに鏡である。鏡というのは自分が映っている鏡だという事。結局、日本のサッカーは本気で立ち向かったもののレギュラーを欠いた国に勝てないという事が映し出されたのである。2002年W-CUPで強くなったと思っていてはいけないのである。根本的な改革、改造のヒントをジーコ監督は自らの思想を持って日本人に教えてくれたのである。ただ、本人も考えてはいなかっただろうが…この結果は…。

日本サッカー協会が指針としてどのような事をジーコ監督になってからの日本サッカー若年層に出してくるか非常に興味深い。

もしあなたがチームの強化をつかさどる立場の人間であったなら何を重視してどんな人材を選択するか…
目の前の出来事が大切か長い目で見た将来を優先させるか、またこの部分での考え(サッカー界)のみならず他のあの部分(教育についての影響力)における事にも配慮をして考えるか…

など考え出したら面白いものだ。良くも悪くも強化担当者であるあなた次第の世界。悪ければ責任をとらなければならない。代表、Jリーグという影響力の大きい世界であれば責任はなお大きい。今回は日本代表についての考えを述べた。このコラムが誰にどんな影響を与えるのか定かではないが責任は大きいと思っている。

神戸、兵庫の子供たちに良い影響力を与えられたらこれ幸いである。このコラムをお読みの方にぜひ感想をお聞かせ願いたい。匿名でも結構、ぜひメールください。

プロとアマの違いは何?Part.22003-06-10

今回はこれです。少し我が事を書かせていただきますのpart II。

◇ 比較はしない ◇
 練習時間に遅れずに来るようになった選手達に何を練習させるか・・・私が一番気を付けたことは今まで指導した選手と比較しないことだった。「以前、私が指導した選手達だったらこんなこと平気でしてしまうぞ!」などという言葉は絶対口しないと決めたことだ。獨協大の選手達の実力があるのか無いのか、以前指導したヴィッセルの選手達の実力が上なのか?それはおそらく私以上に選手達が気に懸けていたことだろうし私にはそんなこと関係ないことだった。目の前にいる選手に足らないところを補ってやる、ただそれだけである。何かにつけ比較されるかもしれないと気にしているだろうし、それでなくてもJリーグの下部組織チームというブランドが獨協大の選手達の純な気持ちに嫌気だとかモチベーションの低下を投げかけてしまう可能性があるのだから。

だから私は最初に選手達自身の現段階の力量を知らしめることから始めた。体力など自身の能力を数値で表すことによって、その後のトレーニングで自身の力が変化していっているということがわかりやすいだろうと考えた。人との比較で無く自分自身との比較である。トレーニング前と後での数値の比較ならおそらく一層のモチベーションになるだろうしその変化がどうして起こったのかが理解できれば“なぜこの練習が必要なのか” を感じ“だから頑張るんや” と言うところへ選手自身が繋げていけるだろうと。ほって置いても・・・。

もう一つ私が選手に言い伝えたかったのは、「サッカーという競技をよく理解すること」であった。

チャンピオンシップスポーツとして試合は負けるためにしているわけではない。「今から0-3で負けて来い」といって送り出すような試合は絶対ありえないのだ。負けて「勉強になった」ということは嘘でもないし確かに勉強できることもあると思う。しかし、勝った試合ならもっと勉強できるのである。負けたときにしか出来ない勉強もあるがそれは本当に力いっぱい力を出して負けたときに勉強できるのであって、力を100%出すことができないでいた試合では「本当は100%力を出してれば勝てるのかなあ?」という疑問を残すこととなり、結局勉強したような気になるだけであり勉強するには物足りない状態で終るのである。だから、私はまず

(1)全力を出し切る習慣をつけること
そのために
(2)よい準備を周到に行うこと
そして
(3)サッカーに必要なことをすること
と言うことをしつこく言ってきた。

(1)は何事にも通ずる事だとも思うが全力を日頃から出す習慣を持っていない者はといざという時に全力を出せはしない。一生懸命全力を出してサッカーをしたとしても世の中、上には上がいるのにいわんや全力を出さないをや・・・である。それでいて、一方では力の抜き方も覚えて欲しいとも思っている。人間張り詰めてばかりでは息が詰まる。どこかでファジーでなければよいアイディアも浮かばないのである。本来サッカーという競技はどんな競技か考えてみると興味深い。「サッカーとは相手の逆をついたり、緩急・右左・縦横と相反するものを組み合わせるスポーツ」という特徴がある。相手の出方を見て「こう来たらこうしよう」とあれこれ考え相手チームを料理するのであり、「こう仕掛けたら相手はこう出てくるかもしれない」と考え自分のポジション取り、スピードなどを調整する。ゆえに全力を入れることと力を抜くことの妙を会得しなければサッカーは出来ないのである。しかし最終的には、ここというときにネジを巻きなおせる者、エンジンをかけ直せる者、そういうパワーを持ち合わせた選手であることがチャンピオンシップサッカー、競技力の高いサッカーをするには絶対必要条件であり、そうでないと格上の相手、頂点へ上るとき、劣勢を跳ね返すといった場面ではことごとく負けこむであろう。6~7割の力を出しただけで勝てる試合ならおそらく相手との力関係は最初から勝っていたという状況であるというだけである。今これをお読みの皆さんも格上の相手に一泡吹かせようとしたらそれなりの気構え、準備、作戦を練るであろう。要はそれが大事ということである。それをつまり日頃からしていると結果が出るということである。

今回はここまで。次回は(2)から書きたいと思います。

追伸

昨日、テニスをしている長女を迎えに行って帰ってきたら玄関の壁にゲンジホタルがとまっていた。一瞬「何や、変な虫や。」とおもいびっくりしたが子供が「お父さん、ホタルや!」って。「風流なもんやなあ」と思いじっくりと観察し、その後、近くにある川にホタルを逃がしに長女と出かけた。実は歩いて5分ほどのところに天然のホタルが毎年いっぱい飛び交う小川がある。「そこから飛んできたんやろうけど何でうちの家やったんやろな?」と長女とあれこれ話し、「なんかいいことあるんちゃう?親切なホタルやなあ、でもはよ皆の所へ逃がしたろ。」という長女。それを聞いた弟は「飼いたい~」すると「ホタルって寿命が短いねんで、かわいそうやん。」と長女。こんなやり取りを聞いた次の日の今日、朝刊に大きくゲンジホタルの話が・・・。

子供達のこんなたわいも無い会話にほのぼのとしていい気分になったオフであった。
この子供達の会話の中に「おとうさん・・・」という言葉が頻繁に出てきた。そう、私は子供を持つ親なのだと。しっかりせにゃ・・・と気を奮い立たせるのでした。なんでもないようなことがふと幸せに感じたり我が振りなおさせたりと、感受性があるということは大切なことだと思う。我が子にも自然を感じる心、人を感じる心が育まれていけばなあ・・・と考える一コマであった。いったいどうなんだろうか?我が子達は・・・。ホタルが運んできた“いいこと”というのはこの振り返る時間をくれたことだったのかもしれない。

プロとアマの違いは何?2003-05-29

いやあ、いつも書き上げたあと、「来月は早く書こう」と思っているんですよ。。。
少し油断すると1ヶ月に一度、いや1ヶ月半に一度のペースになっていますね。
今回はこれです。少し我が事を書かせていただきます。

自動昇格

4月6日に開幕した関西学生サッカー春季リーグ3部Cブロックも5月11日に全日程が終了し、我が姫路獨協大学サッカー部は7勝1分、得点28、失点4という成績で優勝することが出来た。その後、AからDまでの各ブロック優勝チーム4チームにて順位戦も行われ、200年度秋季リーグ2部リーグ在籍の大阪経済法科大学を3-2、摂南大学を1-0で連破し、3部総合優勝を勝ち取り、2部自動昇格を決めた。同時に、夏の総理大臣杯予選を兼ねた関西学生サッカー選手権大会にも出場する権利を得ることも出来た。

今回から数回、私の1年2ヶ月の姫路獨協大学サッカー部における指導のお話しをしたいと思う。

赴任当初

2003年度関西学生サッカー春季リーグ戦が4月6日(日)から一斉に開幕し、5月11日(日)を持って我が大学が所属する3部Cブロックは終了した。私は昨年4月(2002年度)から姫路獨協大学サッカー部を指導することになったのだが、当時の2002年度春季リーグは開幕前の1月頃から新3回生を中心にトレーニングを重ねてきた学生達の希望もあり、4月から赴任してきた私は何も言わずただ毎日毎日練習、試合を見学していた。その春季リーグは学生達もよく頑張り、ブロック4位という成績を収めた。ただ、2部昇格への挑戦は出来ない状況であった。

リーグを終えた学生達は私のところへ来てくれ、「練習を見て欲しい」というようなことをいってきた。そのために大学に赴任したのだから私として指導することはやぶさかではない。さて何から始めようかと思って見ると・・・そう、こうなると、2ヶ月黙って練習、試合を見てきた事が功を奏す。各選手達の特徴、ウィークポイントがよく分析できた。
そして始めて指揮をとったのが6月の天皇杯兵庫県予選であった。初陣は先輩、甲南大学であり選手達はよくやったのだが0-6で破れた。しかし、これを機に私はチーム強化のビジョンを示し、チーム内における規律、練習の目的、行い方、考え方などを明示し、選手が納得した上でトレーニングをしていけるよう環境整備、状況整理を行った。

まだ・・・? 一度だけ・・・?

その後前期試験を挟んだものの練習は月曜日以外毎日行った。しかし当時のサッカー部員は10時の練習といえば10時過ぎに集まり、11時といえば11時過ぎに集まる。時間前に来たとしても1分前に歩いてやってくる。申し訳なさそうな振りも無い。早く来るように言っても直らない。言って直るくらいならとっくに実行している。そんなチームだった。土日に学校が無いときなどは10時から練習を行うと固定した。規則正しい生活リズムを作らせるためである。私は8時には必ず学校に行き少し仕事をし、9時前にはグラウンドに行き、考えたメニューに通りにコーン等、用具を設置した。9時半にはグラウンドに練習の格好で待っている、そんなリズムを通した。百聞は一見にしかず、選手達は次第に早く来るようになった。私は何も腹を立てることなく、ガミガミ言うことも無くただ早く来て用意をするだけだった。

ただ、一度だけ選手をこっぴどく怒った事がある。ある土曜日、10時から練習のあった日である。練習開始4~5分前に慌ててグラウンドに現れたある選手が「時間が無い」といってパンをグラウンドのベンチで食べだした。その時点で時計は10時を回っていた。“良い準備は良い結果を生む”という言葉をスローガンにしていた私はこの準備不足をしかった。そして何よりも皆が準備をして今まさに練習を始めようとしているグラウンド上の空気が読めないことに怒りを覚えた。というよりも情けなく思った。

「周りに敏感になれ、周りに敏感になれないものは上達しない」という確信に近いものを持っている私にとってそれは逆行する行為であり、理屈をあれこれ語るより私の喜怒哀楽を見せ付けることもたまには大切だと思いかなり激しく怒った。まあ、それ以来、当然のごとくそういったことは起こらないがなんとも情けない一幕だった。その子が今、警察の公務員試験に一次合格したと言ってきた。次の2次試験も頑張れ!!今回はここまで。

次回は私の考え方と指導内容について書きたいと思います。

許せるミス2003-04-25

久しぶりに教え子に逢った。就職が決まり研修期間が終ったようだ。来週の月曜日(28日)に東京に配属になるそうだ。この不景気な時代にNestleに就職でき、逢った日は会社の研修最終日だったようで少し疲れているようだった。しかし疲れている中にも気持ちの面で充実したものがあるのだろう、顔には自信と希望に満ちたエネルギーが沸いて出ていた。

今、私の周りにも大学生がたくさんいるが彼らが今後社会に巣立っていくことを思うと私自身の責任、我々大人の責任は大きなものだと思い知らされる。そして反面、それぞれの結果が私たち自身の成果、喜び、次へのエネルギーとして跳ね返ってくる。なぜ人間はこの精神的な部分のつながり、関わり、跳ね返りのためだけに力を注げるのだろう。よく考えたら何か形に残る品物が手に入るわけでもないのに・・・。

そう、そこだと思う。人は情で繋がるのだ。義理、人情、誠意、思いやり  つまり・・・“情”・・・。教育なんて大きなことは言えないが私は実は今こんなことを考える。大学の先生というのは専攻する学問、テーマをそれぞれ持って学生にレクチャーしている。私の場合は「サッカーのゲーム中に見られる事象の有効な改善方法」つまり指導法とサッカーの本当のルーツを探ってみようなどと考えているが、実は「スポーツの場面における“情”の有効性」・・・(ちょっと難しく考えすぎだな)・・・、つまりスポーツを通して義理、人情、誠意というものを学んでいく事の大切さを実地訓練させたいと思っている。

サッカーの監督をしていていつも選手に言うのだが、「君達が最善の努力をしたかどうかを何によって私は理解、判断することが出来ると思う?」と。「私はあなた達の頭の中にミクロになってもぐっていける訳がない。心の中に入っていき心の中を見られるわけでもない。ではどうやって私は君達を判断するのか。それは君達のプレーぶりでありピッチ内外で見せる誠意だ。」と。

お分かりいただけるだろうか。選手を信用していないわけではないがたくさんの言葉を並べられるよりプレーを見たい。本当にパスが欲しい、今もらったらチャンスなのに・・・というときは真剣にパスをもらうための動作をするだろう。失いたくないときは真剣に周りを見るだろう。(その真剣さを見極めしっかり理由をつけて評価をしてあげるのが良い指導者であり監督であると私は思っているのだが・・・。)だから指導者はそのときその時の事象を的確に捉え、その原因を探ると同時に、何人の選手がそのプレーに関わりどう関与してどうミスが起こったかをその選手の心境を加味しながら分析できなければならない。故に、時には激怒したり、時にはミスを許したり・・・。許せるミスというものを作ってあげなければならない。しかし、それは何度も言うが当事者の熱意、やる気、ファイト、考え、人情、誠意がそうさせるのである。

よく指導者は「最後は精神力だ」とか「根性だ」とか言う。決して間違えではないが、もしそれを選手に望むなら、それは常日頃から自分の心を表すトレーニングや、精神力を引っ張り出したり、根性をいざというときに引っ張り出すトレーニングをしていなければならない。アー言えばコー言う子供を見ると「生意気だ」とけむたがり非難する。大人(指導者)は自分のモノサシ、秤の中に入れ測定をはじめ、測定しきれないとその子を批判する。実はアー言うてコー言う子供は自分を表現しているわけである。少し方法が間違っているだけなのかもしれないが・・・。それなら自己表現の方法を教えてやればいいだけなのだ。でなければ自己表現、自己アピールがいつまで経っても下手なままである。誠意、やる気、熱意を伝えられる選手を作るには大人が子供達に思いを伝えることが出来る環境を作ってやることが必要なのである。

しかし、これとてある年齢になった選手(子供)こそできることだろうし、何よりそういったことを指導、誘導、コントロール、導いてやれる“分別のつく常識のある大人”がいてこそなのだが・・・。

 皆さんはどう思われますか?

振り返る時間は大切2003-03-10

1月15日以来のコラム。この年度替わりというのは何かと気ぜわしいというか落ち着かないものだ。慣れない職場・・・、各種決算期・・・ まあ忙しいということはありがたいことで、お仕事頂くありがたみを感じながら一つ一つ仕事をこなしていたここ1ヶ月ちょっと。

思い起こせばちょうど1年前、ヴィッセルをやめて大学へ勤務するまでの3ヶ月は何もすることなく、またする気にもならずただ家で暇してたなあ・・・。

新人研修?

大学に自然活動実習という授業がある。これは単に屋外で身体を動かすというだけでなく、日常の人工的な環境を離れ、変化に富んだ自然環境の中で、人間も自然の一員として、自然との接触を楽しみながら自然を理解し、自然を愛し、自然を大切にする活動を体感する授業であり、夏のマリンスポーツ実習と冬のスノースポーツ実習と二通りの授業を開講している。

2月の下旬にこのスノースポーツ実習として戸隠高原に行きアルペンスキー、スノーキャンプ、歩くスキーというものを体験した。私が学生の頃にも大学のカリキュラムにスキー実習があり、菅平高原に行きアルペンスキー(ゲレンデで滑るスキー)のほか、クロスカントリースキーの裏にアザラシの皮を装着し、標高1200~1300M位の山に登り、登りきった頂上でその皮をはずし、一気に頂上からクロスカントリースキーを使って滑り降りてくるようなプログラムを体験したことはあったが、何せ10数年ぶりに本格的にスキーをすることになったため、今回私は研修生として学生と同じメニューを“学ぶ”というスタンスで参加した。私にとって教え方を教わるといった感じであった。

歩くスキー

今回、ゲレンデではボーゲン、シュテムターン、パラレルターンなど専門用語に加え、技術を習得すること、また実際デモンストレーションが出来るレベルにまで上げることが狙いであったが、それが出来れば資格が取れそうだというくらい練習をしたつもりだがなかなかどうして・・・手ごわい。

ある日はスノーキャンプというプログラムの中で歩きながら自然を観察する歩くスキーというものも体験した。これはクロスカントリースキーを履いて道なき道を歩いていくものである。本来はるか上に見える神社の鳥居が積雪(積雪2M位)のおかげで目の前に見えたり不思議な体験が出来るのである。学生を5人ほど連れて先輩先生と一緒に歩くのだがアルペンスキーと違いスキー板が細く、かかとが固定されておらず浮き上がるようになっているため結構歩きにくいものである。バランスをとるのが難しい。

クロカンスキーを履いて道なき道を、しかも誰の足跡も着いていない新しい雪の上を歩いていくと本当に不思議な気持ちになる。簡単に言えば新鮮な気持ちなだけであるのだが・・・不思議である。啄木鳥(キツツキ)の木をつついた後が見え、熊が餌を冬眠前に食べた後、気によじ登った爪のあと・・・  俗世界にいる私になどには無縁のものが目の前に次々と現れてくる。

狐の足跡、狸の足跡、ウサギ、リス、イタチと・・・朝一番で歩いてみると夜の間に動き回った動物の足跡もいっぱい残っている。何もかもが新鮮であった。この足跡というのは動物によって形状がすべて違い上級者にとって見れば種別、大きさなど簡単に見分けられるという。アニマルトラッキングという研究をされている先生がいる。動物によっては前足の跡の上に必ず後ろ足を重ね合わせて歩く動物とバラバラに歩く動物とがいる。イタチやオコジョは重ねて歩くタイプである。また、足跡が4つずつつくタイプ、3つずつ付くタイプ、2つずつつくタイプがあるのも興味深い。

途中、啄木鳥の木をつつく場面と音に遭遇した。その音はとても大きく森に響き渡るくらい大きい。そしてその姿を見ることはとてもまれで貴重なことだという。このドラミング(つつく音)の音がものすごくきれいなのには驚いた。アカゲラというのが正式名称で上見下ろうが下向きだろうがポジションを決めて木をつつくのである。餌をとっているらしい。

中道

戸隠というところは信仰神が山であり山岳修行が盛んに行われてきたところである。確かに南側から見た戸隠連峰は断崖となっており、山全体が覆いかぶさってきそうな迫力のある山である。威圧感がありながらも厳かな雰囲気を感じさせる山である。神としてあがめられるのもわかるような気がする。その戸隠において荒行を行い、何年も山にこもり修行をしていくと、あるとき目の前が開け悟りを開けるという。そうなると高僧として全国に赴き教えを広め、庶民の苦を取り除いていくのである。ただ、その荒行に耐えられるものは少ないという。

余談になるが仏教というのは釈迦が35歳のときにインドのブッダガヤという土地で悟りを開き仏陀になったものであり、その教えは中道の教えである。ブッダ(Buddha)とはサンスクリット語で「目覚めた人」という意味でそのブッダの教えだから仏教という。仏教は中道の教えであるということはどういうことか?というのは人類の宗教の歴史の中で釈迦以前には宗教の修行と言えば苦行しかなかったのである。釈迦は苦行は心理にいたる大道ではない事に気づき快楽におぼれることもないが苦行をすることもないゆったりとした歩みのなかで苦しみから人々を救ってやろうと考えたのである。

荒行、苦行の戸隠でゆったりとした気持ちになり自然を見つめる・・・なんか皮肉な感じがする一幕であった。

精神あってこそ

最終日にはこんなプログラムもあった。昼から穴を掘り、一晩その雪穴で過ごすというものである。自分で自分が寝る穴を掘り、シュラフ(寝袋)に身をまとい20:30スタートで翌朝朝食まで寝るのである。穴をどうやって掘ったらよいのか、どのくらい掘ったらよいのか各自色々考えて見るのである。私も一晩寝た。私は縦に自分の背丈くらい掘り足元から今度は横に掘り自分がすっぽり入るくらい彫ったのである。寝返りを打てるくらい、膝が曲がるくらいの穴を掘り準備OK。夕食を食べ準備を整えいざ就寝。これがまた結構暖かいものである。しかし、閉所恐怖症の人は耐えられないだろうし穴が潰れたらどうなるだろうと考えると不安は尽きない。しかしそれを振り払って寝るということが人を鍛えるにはよいのだろうし一人自然の中で過ごすということが色々考えさせるのである。早く寝つけたと思いながらもシーンとした屋外に1人ぽつんと寝て、あれこれ考えて結構時間が立ったのだろう。ラジオもテレビも携帯も明かりもないのである。さて学生達は何を考えたのだろうか?

私は人生振り返った。いや、振り返っていた自分があったのである。小さい頃、学生の頃、神戸FCの頃、ヴィッセルの頃いろいろと。結局、自分のしたいこと、自分に向いていることを考えていたのである。悟りなどと大それた事は言わないが、自分自身がしてきたことの良いこと、良くないことを考えなぜあの時こうなったのか整理がついたようにすっきりした気持ちになった。いや。本当に先達が修行をして悟りを開こう、煩悩を払おうと思う気持ちもわからなくないような気がした。今でもスポーツ選手が座禅を組んだり滝に打たれたりするが、それはそれで大切なことのように感じてきた。理論も大切だが精神も大切だということが体感できた。

幹部候補生

プロを育てる、優秀なサッカー選手を育てる、人材を育てる、人を育てる、どれも大切なことだし、必要なことだし、誰かがしなくてはならない。しかし自然に育つこともある。あまり堅苦しく考えずに自分の出来ることを一生懸命やるだけかなと思う。背中を見て育つという言葉もあるし・・・。ネガティブでなくポジティブである。苦行でなく中道である。自分では出来ないことはコンビネーションでカバーをしたい。

今、私が理事長をしている県クラブユースサッカー連盟では次期連盟を支える幹部候補生を育成するために20歳代のプロパーコーチを集め色々な経験させることを始めた。組織運営、事業の進め方、対外交渉の仕方、人脈の広げ方など。一般企業においては社員研修がありみっちり鍛えられるだろうが、どうもサッカーコーチというのはいきなり選手や保護者の前に出て一国一城の主になるがために世間知らずが多い。(私もそうだが・・・)それを改め、組織を背負ってくれる立派なコーチになってもらいたいと思う。苦行でなく中道で・・・。

啐啄(そったく)2003-01-15

すっかりご無沙汰で時間が空いてしまった。No6を書き終えNo7を書き出す間になんと世の中は新しい年がスタートしているではないか・・・。と言うことは「新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくごひいきにお願いいたします。」

私にとって2002年は激動の1年だった。あれもありこれもあり・・・。これ以上のことはもう今後ないやろと思えるくらい○○だった。

しかしこう見えても私はまだまだ厄年ではない。冒頭の写真を見てから生年月日と比較すると えっ・・・?と言う声が聞こえそうだがそう、これからが厄本番なのだ。昨年以上にこれからもっと“凄い事”が起こるのであろう・・・。しかし凄い事と思っていたことでも後々になるとありがたいもので経験として語り伝えたりそれ以降の人生の矯めになったりするものだ。ありがたく受けいれよう・・・くじけずに。

伝わらなかったこの気持ち

新しい職場に来て早いもので一サイクルが終ろうとしている。今週で後期の授業も終わり後は定期試験と成績付け。慣れない教員生活の一年の締めである。

私はこう見えても実は高校、中学の保健体育の教員免許を持っている。体育系の大学を卒業すれば誰でも取れるものなので以外と身近に教員免許を持っている人は多い。しかし、だからといって即、教員になれるものではない。教育委員会と言う日本の教育をつかさどる機関がその本人を審査する。それにパスしないと教師として活動が出来ないのである。

残念ながら私は18年前に難解な質問をプリントで出され返事を求められた。その返事の答え方は確か指定の丸いところを塗りつぶして伝えるものであったように記憶している。しかしながらどうも教育委員会にうまく私の思いが伝わらなかったのか教師としての活動を許してもらえなかった。しかしそれが、今日では教壇に立ち能書きを喋っているのだから世の中は怖い。「お前に何が出来るんや?」と言う言葉を今年1年さて、何回聞いたことか・・・。

教育実習

大学4回生の時、教育実習のため母校の高校にお世話になったことがある。3週間ほど3年生、2年生の体育の授業と保健体育の授業を実習した。そして放課後はサッカー部の指導。どちらかと言うとサッカーの指導がしたいという思いのほうが強かったようで放課後ばかり張り切っていたような気がする。後から実習生にはあまり無い事だと聞いたがちょうど実習期間が県総体の最中であり、宿泊を伴いながら総体に参加するサッカー部の臨時コーチとして帯同を許可され出かけて行ったこともある。サッカー部の顧問先生はいたのだがサッカーの経験が無い先生であったため校長先生が特別に許可を下さったと聞いた。顧問先生もとても良い方で、たいして指導経験も無い私を立てて頂き、やり易い環境を作って頂いた。

そもそも当時サッカーの指導者になりたいと考えていた私にとっては本当に貴重な経験であった。当時はサッカーの指導でメシが食えるなんて思っても見ない時代であった。故にサッカーの指導をするには学校の教員しかないと思い込んでいた頃の出来事である。

恩師の教え

そんなある日、小学校の恩師を訪ねた。現在もご健在だがもう80歳を越えられている。女性の先生で小学校時代の恩師なのだが一度も担任を持ってもらったことはない。しかしものすごく担任になってもらいたかった先生だった。中学、高校時代に家を訪ねて遊びにいくわけでもなくただ漠然とそう思っていただけだったのだがなぜかしら教育実習中に家を訪ねていった。

私はその先生に実習に来ている事、採用試験を受ける事、指導者に成りたい事など色々話しをしたと記憶している。先生はただじっと聞いてくれて最後にこんな話しをしてくれた。
「“そったく”という言葉を知っている?これはね私がとても大切にしている言葉なのよ。この言葉の意味はね卵から孵ろうとしている雛の手助けをしている親鳥の様を表す言葉なのよ」と。

続けてこう話しをしてくれた。
「卵から孵ろうとする雛は一生懸命中から殻を割ってるでしょ。まだ弱いくちばしで一生懸命。それを親鳥は強すぎず弱すぎず外から雛と同じ力で殻を割る手助けをしてるのよ。強すぎたら雛が傷つくし弱すぎたら割れないし・・・。」・・・と。

つまり指導者たるもの子供達と同じ目線に立って考えてあげることが大切なのだということを教えてくださったのだ。本当はこのコラムの名前を“そったく”にしようと思っていたくらいである。

そったく同時

人に物を教える時、教師が子供にそうするように我々は日頃から“そったく”の機会が沢山ある。目の不自由な人に出会ったらどうする?障害者に対して心を同化させ、労わりの心を持つ。これも“そったく”の心である。

我々指導者、あるいは選抜の指導者達・・・どうしてこれが出来ない?  と怒っていない? 初めてトライする事にどうしてもこうしても無い。出来ないから練習をしているのである。言ったことをすぐさま出来るのに時間がかかるのが人間である。ましてや各チームの選手を集めた選抜チーム(様子も良く分からない選手達なのである)ともなれば時間がかかるのは目に見えている。サッカーのシステムだ戦術だの言ってもなかなか出来ないのはあたりまえである。それよりも後々の戦術に対応するためのしっかりとしたボールタッチ、ボールフィーリング、判断力を限られた時間ではあるが指導しなければならないのが選抜チームなのである。月2回程度の練習でどれだけ向上するのかは知れたものかもしれない。しかし選抜の意義というものは大きく責任あるものなければならない。

神戸FA 選抜チーム

協会としての選抜活動の考え方はサッカー選手としての技量、理解力の向上もさることながらいわゆる物事の考え方(人との関係などヒューマンな部分やメンタルな部分)とか、サッカーという物の考え方(相手の裏をつくにはどうするか相手を引っ張り出し守備の綻びを作るにはどうしたらよいか等戦略的な部分)だとか、サッカー通じて(・・・いや、利用してという言い方や媒体としてという言い方のほうがよいのかもしれない)何を学ぶかの修行の場であると私は考えている。もちろんサッカーのチームであるからしてサッカーという競技として当然勝利を目指すのは言うまでも無い。ただ、方法論を間違えてはいけないのである。無茶な方法で勝つよりも選手達が理解をしてトライして負ける方がよいのかもしれない・・・、極端な例えだが・・・。

選抜チームにも様々な年齢がある。小学生から大人まで。しかしみな同じ。基本が大切。考え方が大切。

神戸の選抜に入ったら人には経験できないことが経験でき教えてもらえる、そんな魅力ある選抜を編成できる神戸でありたい。“そったく”の心をもって・・・。

環境整備がサッカーの隆盛2002-12-15

我が振り直す

 
12月8日は地域C級指導員の、14日には少年少女指導員の養成講習会にそれぞれしあわせの村と龍野・誉田小学校におじゃました。私もここ数年、力不足でありながら講習会の講師をする機会が多くなってきたのだがそのたびにサッカーの隆盛に驚き、指導者の熱意に頭が下がる思いがする。

私が大学を出て指導者の資格を取ったのが1986年11月(認定されたのが87年1月)、当時で言う“リーダ”といわれる資格だった。大学を出てすぐのことであり、まだ少年サッカーだとか指導者とはだとかをよく理解できていないころだったと思う。・・・今でも理解していないかもしれないが・・・。今回講習会におじゃましたとき自分の頃を思い出し「皆さんの役に立てれば良いが・・・」と思いながら講習をこなしてきたが役に立っているのかなあ・・・?

こうやって指導者になりたい、勉強したいと言う方がどんどん増えていく一方で生涯現役と言わんばかりに実際にプレーを楽しんでいる人たちもいる。まさにサッカーの隆盛でありサッカーに携わってきたことの喜びを感じる昨今である(なぜ昨今喜びを感じるのかは後を参照)。

指導者の資格がすべてではないがこうやって勉強をする場面、人の話を講習と言う形で聞く機会と言うのは大人になるとそうあるものではない。ややもすれば逆に偉そうにしゃべる機会のほうが増え、偉くも無いのに偉くなったと勘違いして調子に乗ってしまうことのほうが多いかもしれない。私にとって今回が我が振り直すいい機会になったことを受講者の皆さんに感謝、感謝・・・。

キャプテンズミッション

さて、生涯現役について。前回も書いたが生涯現役といえばママさんサッカーもそうである。

いつまでも若い者と一緒には走れない、しかしサッカーはずっとしたい。男性が今、シニアリーグを作って盛んに生涯現役の環境を整備している。であるなら女性にも年齢別、レベル別でサッカーをプレーしていける環境を作っていく必要性があるのではないだろうか。しかし、現実的にプレーヤーの絶対数がまだまだ少ないのが女子サッカー、ママさんである。今の現状でママさんの環境を幾つかに分けて何かをするというのは難しいと言わざるを得ない。

2002年10月9日、川渕キャプテン(JFA会長)がキャプテンズミッション(日本サッカーのより一層の環境充実と競技普及を目的に立案された今後JFAが取り組むべき重点施策)を発表したのだが、その中にママさんサッカーの活性化が謳われている。

ママさんがサッカーを好きでいる、ママさんが小さい頃からサッカーをしていた・プレーしていた、とい環境があるとするならそのママさんの子供はサッカーを好きになり、サッカーの隆盛は続くであろうと考え、すでに数々の先輩指導者達が環境整備をしてこられている。現に今回のアジュール兵庫のメンバーは高倉SC・高倉中学のOGや神戸FCのOGが沢山いる。田崎真珠・神戸FC レディーズ(現田崎ペルーレ)のLリーグOGまでもいるのである。そう考えると神戸はキャプテンズミッションの素地があると言える。であるなら今後は育成環境の整備のみならず女性のサッカーにも男性のシニアリーグのような長くプレーをしていける環境を整備していく必要があるのではないか。30・40代リーグと50代以上リーグと言った(単に年齢で分けるのはおかしいこともあるが・・・)リーグを。となると我々の世代が先輩に続けと言わんばかりに環境整備へのエネルギーを出していかなければならない。そう思うと少女サッカー、中学年代の女子サッカーの指導者達の大変さを改めて感じることになる。私は女子の選抜、単独団を指導しているわけではないが協会の立場としてお手伝いできればと思う・・・。

なぜ私がこうやって協会のお手伝いをするか・・・人が人を動かす

簡単に言えば人に考えさせられ人に救われたと言うこと。

昨年の暮れ、ヴィセル神戸との契約更改の日、球団のチーム統括部長の西真田氏に来季は必要の無い指導者だと言われた。そして、ヴィッセル神戸を契約満了の翌年1月31日を持って退団することになった。当時少なからず自分のほうからも考えていることもあった。確かにJリーグの世界はサッカー界の中でもいうなればメジャーな世界であり、日の目が当たる世界であることは間違いない。その世界にいたほうが情報も早いし一般の指導者が経験できない世界のことが経験できることも事実である。しかし、プロコーチという契約の世界であるはずなのに契約の評価システムがもし確立していなかったとしたら契約システムにしている意味がない上にリスクが大きすぎる。また練習や試合を見に来たことの無い者が指導者個々の指導力を評価し、給料だの来季に必要だのを査定したとしたらどうだろう。そしてプロを育てる環境はそうそう簡単に作れるものではないことは皆知っている。しかしプロを育てる環境を作ろうとする“意思・意欲”が有るのと無いのとでは大違い。環境を作る気が無い人間がいたとしたら寂しい限りではないか。結局、私がしてきた地元協会と良い関係を作る、地元指導者と良い関係を築くと言う作業も評価されていなかったのである。であるからしてまあ言うなればよっぽど私という人間は仕事の出来ないひどい人間だという評価なのだろう。だから私も大して文句も言わず「わかりました」と・・・。

その後、幾つかのチームと交渉をしていった。ヴィッセルをやめたとはいえJリーグと言う世界に対して魅力が無かった訳ではない。が契約の世界でありながら評価システムが確立されていない世界に飛び込むのであるのなら同じことの繰り返しではないか?それよりもそういった経験を糧に色々な環境整備に力を入れていって子供達にサッカー環境、選択肢を与えてはやれないか?また自分自身の存在価値は何なのか?本当に必要とされているのか?でも家族を食わせていかなければならない?家族がこのまま路頭に迷うのか?自分が本当にしたいことは何なのか?3ヶ月自問自答をし、悩み、考えた。この3ヶ月は家族にとっても大変な3ヶ月であったに違いない。なにせお父さんは朝からずっと家にいるのだから・・・子供達も変だと持っていたに違いない。

そして、ついには純粋に指導をしていきたい、選手(子供)の一つ一つの反応を感じながら指導をしたいという気持ちにたどり着いた。ヴィッセルにいたときは自分らしさを忘れていたのではないか。自分はプロを育てることも好きだが実は人を育てる事をしたかったのではないか?と。そしてヴィッセルを退団するときに沢山の人に心配をしてもらい、心救われた。そして協会関係の方々にも様々な反応をいただき救われた。その時の恩を何かしらの形でお返しできたらと思うようになった。

自分も指導をすることができるうえに様々な環境の整備をするお手伝いが出来る、それでいて恩返しも出来るところは無いだろうかと考えた。するとまた人に救われた。今現在こうして地元に残り、サッカーに携わることが出来るのも周りの人たちのおかげである。貴重な(指導、組織)体験をさせてもらったのもヴィッセルのおかげである。そしてそれらすべてが今現在、私にこのような行動をさせているのである。

今現在の職場は大学の教員と言う立場で、あくまでも本業は教員であり学生の指導、教育と言うことになる。しかし、幸いにも姫路獨協大学は地域に還元、地域に貢献をすることを奨励している。本業をおろそかにすることなく協会の仕事も出来れば言うこと無い。まあ焦らず一歩一歩進んでいこうと思う今日この頃だ。

それぞれの立場で・・・

ちょっと毒舌吐いたがもう時効でしょう。プロ球団だから今年は昨年と違い修正してあるでしょう。

当時、一緒に育成の仕事をした若いコーチ達にこの前久しぶりに会った。彼らに対して今回は失礼な文章だったかな?しかし、本気でこの世界で生きていこうと思えば自分の財産、売りを作っておかないと。自信となるものが無いと何処に出て行くにもステップアップできない。これはヴィッセルでも、大学でも、サラリーマン、営業職、専門職問わず皆同じ。

しかし心配すること無いみたいで、1年弱ぶりに彼らの指導をしているところ見た。指導者として映った彼らの姿はとても頼もしくみえた。(自分が必要なかった理由がわかったゾ~)ヴィッセルに無くてはならない存在になったようだ。頑張れ。(ちょっと偉そうな言い方だったかな?)

協会、一般市民としてずっと応援しているよ。