久々に言いたい事2004-10-05

私は天才肌なのか・・・、なかなか原稿が進まない。書き出したら2時間とかからないのに気が乗らないとなかなかキーボードに向かうことがない。前回の24号から2ヶ月近くも経つ。「何が月2回だ!!」といわれることもしばしば・・・。ほんとうになかなか書けないものだ。

ここ数週間振り返り

前回コラムからこの約2ヶ月、どんなことがあったか少しかいつまんで振り返ると、8月22日〜27日まで大学のサッカー部夏合宿で大分県に滞在。これには神戸のサッカーのコラムでもおなじみの河村優君を特別コーチとして招き、彼と一週間一緒できた行事だった。イタリアへ旅立って以来だったので、とても久しぶりでいろいろな話を聞かせてもらった。とても楽しく有意義な合宿で、しかも今現在行われている関西学生秋季リーグ戦にそれなりに効果が出ているように感じている。

その大分から帰ってきてからは28,29日と連戦で練習試合をこなし、30日からは大学の授業の一環でマリンスポーツ実習のために徳島の阿南海洋センターまで行ってきた。これはサッカーに縁の無い一般学生を相手に9月3日まで行われたもので、私はカヌーコースというのを受け持った。10人ほどのグループで2人一組になってカヌー(二人乗りボートみたいなもの)に乗り、無人島探検や野外炊事を通して自然を振り返り、現在の自分の生活環境や生活の便利さを感じとり、今後の学生生活に何かしらプラスになる人間性向上を狙いとしたものである。期間中少し悪天候の日があり、ボートが転覆した二人組がいて、私が自分のボートから海に入り、泳いで助ける一幕もあった。その二人は高校時代にサッカーをしていた学生でなかなか面白い学生だったが、サッカーばかりしていたのかな?少し他のスポーツの経験が無かったのかもしれない。学生を助けるなんて体育の教員らしい・・・?でも誰でも助けることが出来たシュチエーションだったな・・・。

9月4,5日と練習試合をこなした後、12日からの学生リーグを迎えた。合間を縫ってアジュール兵庫の指導、全国大会の予選(ちなみにアジュール兵庫も5年連続5度目の全国大会出場を決めた。神戸のサッカーニュース・トピックスを参照)、大学の後期授業の準備などをしていった。今回の秋季学生リーグは上位ランク(春季リーグの成績によりランク付けをされる。1位は1部からの降格チーム、10位は3部からの昇格チームといったように)からの対戦になっており、なかなか気が抜けないため少しこのコラムへの集中が後回しになってしまったのかもしれない・・・。緒戦の12日はランク3位の天理大学。初戦のためか1回生がカチコチ。しかも先発の9名が1回生と言うわがチーム。3、4回生ばかりの天理大に前半はやられっぱなしとなり、0-2で後半に突入。しかし後半は7割近くポゼッションして1点返すものの、2点目が取れず痛い開幕敗戦となった。続いて2位ランク、1位ランクと対戦する組み合わせの状態での敗戦は、チームに暗い空気が漂うはずであった。しかしである、選手たちはむしろ開幕の緊張が取れたことと、後半追い詰めることが出来たと言う自信からか、2戦目の関西外国語大学(この大学も強化をしていて3、4回生中心で、しかも滝川第2高校や弘陵高校、広島皆実、奈良育英など名門高校出身選手ばかり)に1-1の引き分け、3戦目はなんと春季リーグ1部にいた甲南大学に3-2で勝ったのである。といってもまあここからが大変で、リーグ戦というものは下位チームに如何に取りこぼさず、上位を食って上昇していくかである。強いチームには気が張って戦うが、少しランクが下になると気を緩めてしまうことが往々にしてある。と言うことはこの開幕からの3試合で上げた勝ち点4(マックスで9点のうち4点を獲得)を、生かすも殺すも今後である。甲南大学に勝っても、下位に負けていたらせっかく取った勝ち点3がふいになってしまう。ぜひこれからの奮起にも期待したい。

さて今回の本題。

ワールドユースサッカー選手権アジア予選のすさまじさ

現在、ワールド・ユース・サッカー選手権アジア予選が行われているが、日本代表はカタールと壮絶な試合を繰り広げ、6大会連続の世界の切符を手にした。最近の日本サッカー界の様子しか知らない人は「負けるわけは無いだろう」とか「まだベスト8の戦いやで、4強ぐらい行かな」とかいう意見も聞こえそうだが、ほんの10年前は中東のチームには勝てるどころか引き分けに持ち込むことさえままならず、若年層では世界に出て行くなんて「できればいっか・・・」くらいな感じさえあった。当時の代表スタッフの方々には申し訳ないが、これは現在の周りの環境やメディアの状況、ファンの定着、協会の姿勢などどれをとっても過去とは雲泥の差があるのだから仕方の無い部分なのかもしれない。だから当時を非難するつもりもないし必要も無い。それが歴史なのだから。まあ、逆に言えば現在のサッカー界は、なるべくしてこういう結果を導き出しているのだから当たり前といえば当たり前である。

苔口卓也との縁

その日本ユース代表にレギュラーとして先発出場をして1、2戦とゴールを決めた“苔口卓也”と言う選手をご存知だろうか?現在はセレッソ大阪所属であるが、小・中・高校時代は岡山県で育った選手である。実はこの選手と少しばかり縁があるのである。彼が小学校6年生のとき、陸上の全国大会で100Mで3位か何かの優秀な成績を収めたことがある。岡山の知人にそういう情報を聞き、ヴィッセルとしてアプローチをした事がある。

当時の彼は、サッカーといっても小学校の小体連レベルで、不規則な間隔での練習しかしておらず誰の目にも留まることは無かった。地元の中学に進学と同時に、ヴィッセルとしては彼をいずれは獲得したいと言う前提で、よりよいトレーニングを施し中学校の先生・保護者と協力して育成しようと、私と当時の統括部長は考えたのである。中1の春休み・夏休み・冬休み、中2の春休み・夏休み・冬休み、中3の春休み・夏休みと長期の休みのたびに岡山駅から新神戸駅まで指定の新幹線に乗せ、新神戸の改札で合流し、各遠征先に帯同させた。第2土曜日・日曜日も学校行事が許す限り神戸まで呼び、練習に合流させた。もちろん神戸が全額交通費は出した。やがて高校進学になったとき、私は彼の実家に3回、中学校にもさあ、合計何回足を運んだろうか?勧誘に行ったのである、“ユースに入ってほしい”と・・・。

ヴィッセルの損失は統括部長の責任

彼が中3のときに当時の強化部長が8月に解任され、新しいチーム統括部長が赴任してきた。互いに引継ぎは無かったのだろう、前任の部長は何かとバックアップしてくれ、「寮は造れないにしても、下宿先や食事環境を整えてやれ」といってくれたが、新しい統括部長は全く下部組織に興味なし。しかもそれどころかヴィッセルのジュニアユース、ユースが小野浜にナイター照明車(荷台にアーム式の伸展式照明、ハロゲン球が6個ついたもので、高さは10Mの高さから照らせるもの)4台を搬入して練習を行っていたことにさえ「金を溝に捨てるようなものだな、育成の照明代は・・・」とまで言い放ったのである・・・その統括部長は。

結局、苔口君は中学3年生に進学する前の春休みに行われたナショナルトレセンに、中国地域トレセン選手として参加し、全国で注目されだしたのである。その後もヴィッセルとしては彼への活動を継続して行き、前述の実家への足運びとなったわけである。しかし、ご両親は本人に任せるといってくださったのだが、彼本人は神戸での生活に不安が有り、結局地元の玉野光南高校に入学をしたのであった。

今後のヴィッセルは・・・

その辺にある高等学校よりグラウンドの便が悪い。クラブチームは学校から帰ってきてから改めてグラウンドに出かけなくてはならないというハンディを背負っている。これを解消するに値するくらいのグラウンド環境が無ければプロではない。その辺の高等学校のほうがよっぽどプロである。また高校のほうが寮を持っていて、プロが寮を持っていないことが大半である。全く話にならない。プロと言う看板ははずしたほうが良い。あるいは育成に関しては断念したほうが良い。私がヴィッセルをやめさせられたからいっているわけではない。世間一般的にどう考えても、Jリーグとはサッカー界においては一番で無ければならない。最高のものを持っていなければならない。ハードもソフトも・・・。今まではお金が無くて出来なかった?良かったじゃない、民事再生法でスポンサーが楽天に変わって・・・。今後三浦統括部長の育成への考えが現実のものとして世に出てくることだろう。期待しよう。

「えらそうに言うな」とか「お前がヴィッセルにいるときはそんなこと言わなかったぞ」と思われるかもしれないが、あたりまえのことである。どこの世界に自分の会社のことを世間様に愚痴ったりしゃべったりすることがあろうか・・・?決して自分の会社の情けない部分などは、口が裂けても言わないものである、たとえ本当に情けないと思っていても・・・。しかし中には、いるのである平気で自分の会社のことを言う人が・・・。

それでもっと驚くのが、ヴィッセルは特殊な職種で様々な雇用形態が存在しているのだが、決まって“出向社員”が他人事のように言っていることである。契約で一年一年を勝負している人の立場を考えて発言をしてもらいたいものである。ましてや、本当に今の仕事がいやなら辞めたら良いのである。辞めたくないのなら言わないほうが良い。そういうことは内部で解決してくれ。出来ないのならサッカー協会、地元のファンをもっと巻き込んでいけという話だ。

そういった社員の統率が取れないようでは、これからのヴィッセルも今までと変わらず、それぞれ各個人がそれぞれの仕事を淡々とこなすだけであろう。それでもチームは存続はしていけるであろう。しかし、社長以下アットホームな社内の雰囲気、ファンがついつい寄りたくなるような、人を引き込むような空気はいつまでも奏でられないだろう。

ハードとソフト、そしてハーモニーである。

私は三浦統括部長を応援している。彼はトップから育成、サッカー文化を根付かせようとしているし、よく事情を理解している。がんばってほしい。

WMについて2004-08-22

少年サッカー選手にサッカーを学ばせるのにはWMシステムがよいという。ではどこがどうよいのだろうか?今回はWMシステムについてかんがえてみる

サッカーの流れは?

現在、世界のサッカーの流れはどのようになっているのか?この問題の答えはありそうでない。いや、なさそうであるのか・・・?その年その時に世界大会規模、あるいは大陸規模での大きな大会、つまりワールドカップやヨーロッパ、アジアなどの大陸ごとの選手権でそのトレンドを測り知ることができる。

いまはレススペース、レスタイムのコンパクトなサッカーからそれらを打ち破る個の時代に入ってきているように感じる。まだまだ組織だったシステマチックなサッカーが多く、“連動”だの“コンビネーション”という用語は死んではいない。むしろ輪をかけて緻密になっているのかもしれない。

しかしながら、それ故に個の重要性がクローズアップされ重要視されていると思われる。組織立ったディフェンスもオフェンスも結局は個の集合体なのであるから・・・。

言い換えれば、ひと昔前のマラドーナやプラティニといった、局面を一人で変えられる技量の必要性、タレント性を時代は必要としているのではないかと思う。

では、そういった個を育てるということはまず初めに何が必要かというと、基本の習得である。“基本とは何か?”ということこれがまた難しいものである。人それぞれ認識が違い、共通のイメージを持ちにくい。しかしながら相手に取られないボール捌き、相手選手を察知し見る力(察知し見て状況にあわせてボールを捌くプレー)など個人で必要とする能力とフォーメーションを通して学ぶカバーリング、パスワーク、ゴール前へのつめ方、ゴール前の守り方などは、ほとんどの人が共通した絵を描けるのではないだろうか。ならばこういった“共通した基本”を習得する必要が生まれるわけであるし、習得する方法が必要になってくる。そしてこれらはグラウンドの上でレクチャーされる事が大切になってくる。

これらを網羅するのは“ゲーム”である。トレーニングも必要だが結局ゲームの中から分析されトレーニングされ、最終的にはゲームに戻っていかなければならない。ならば、ゲームにおいて、より効果的であり効率的なものはないだろうか?言い換えればそのゲームをすることで否応なしに学んでしまう何かスパイスがあれば良いのだが・・・。

個の答えを求めたら私の中には“WMシステム”という答えになるのである。

WMフォーメーションには基本が満載

1870年代の初めにイングランドの2-3-5(ピラミッドシステム)システムが流行し成果を収めオフサイドトラップも流行した。3人のうち1人が上がればオフサイドが成立した時代であり、失敗しても残りの二人がカバーに入ればよいという戦術だった

1925年にメディアやファンの要望でオフサイドルールが変更になり、2人制オフサイドとなったと同時に得点ラッシュの時代へと入って行った。その時アーセナルのハーバード・チャップマンがWMシステム考案したというのは前回お話したと思う。

WMシステムは左図のような配置を指して言うのだが、FWとIN(インナー)を結ぶとWの字になりMFとDFを結ぶとMの字になるところからついた呼び名である。

では、WMシステムの何が良いかというと、その下の図2を見ていただきたい。もしあなたが図2のような右サイドライン際をドリブルで駆け上がって「さあ、ゴール前にセンターリングだ!」と言う役割を担った時に、味方選手にどこのあたりに入り込んでほしいですか?言い換えるならあなたが指導者ならどこへ入り込むように指示を出しますか?ということです。

一つはニアサイド、もう一つはマイナス、それとGKの裏、そしてファーサイドと答えなければならない!答えられたかな?この答えが出ないとまずは話が進まない。指導者になるならこのことは常識として知っておかなければならないし、その常識をレクチャーしなければならない。そのためにこのWMシステムを使うのである。それらのゴール前に入り込むべきポジションを結んでみよう。(図3)

すると興味深いことがわかる。結んだ線は“W”の字になっているのである。つまり点を取るためによく「ゴール前に詰めろ!」と言うが誰がどこに入り込むのか?また役割通りに入り込めなくても入らなければならないスペースがどこなのかを教え、徹底させることができるのがこの“WM”なのである。

ほかには2人ディフェンシブハーフの左右スペースカバーリングと前後スペースカバーリング、3バックの左右スペースカバーリングと前後スペースカバーリングを理解させるのにも良い。(図4)

ディフェンスもハーフもボールとマーク相手が両方見える位置まで戻り、ゴールサイドからマークしなければならないと言うことを忠実に実行させるにはもってこいなのだ。スイーパーと言うカバーリング専門の選手を配置しないことでディフェンスプレーヤーに負荷を与えるのである。「しっかりポジションをキープしないと背後を取られ失点するよ。」と。
(1) 黄色ライン(ハーフバックのノーマルポジション)が相手の攻撃具合によって(2)の
黄色ラインのように下がりながらなおかつ斜めになってカバーのできる位置を取ると言う基本である。あぶないスペースを埋めるために戻ってくる・・・そのためにはステップワークも必要である。戻ってくるのも周りを見ながら・・・周りを見る力・・・が必要であるということが自然と身につくのである。すなわち指導の現場では「こうしなさい!」と言って理解させるのではなく“自然にプレーしてしまう”という環境を作り上げてこそ“自由にプレーをしなさい”“自由だよ!”と選手に言う意義があるのである。ディフェンス、ハーフバック(今で言うミッドフィルダー)、インナー、フォワードのそれぞれのポジションごとの基本があって、そしてサッカーの基本を学ぶのである。

今流行のドイスボランチ、フラット3バック(3バック)、トップ下といわれるポジション。これらの役割は基本のポジショニングを理解すればこなせるのである。すなわちみなが俗に言う“基本”だったのである。

背番号10の不思議2004-06-27

サッカーの背番号について面白い話をしよう。
10番がなぜトップ下のエースナンバーになったのか?サッカーのシステムとの関係は・・・?

背番号10はエースナンバー

サッカーの世界でエースは背番号10番とよく言われる。マンチェスターユナイテッドのようにチームのエースは7番と独自の路線を暗黙のうちに作り上げ、球団もファンも選手自身も認めている例も極めてまれではあるが時折見受けられる。オランダ・アヤックスの14番もそうであるように・・・。

背番号10は本来センターフォワードの番号であった。ゆえに点をよくとる選手が多く、自然とエースナンバーとなっていったようである。では、なぜセンターフォワードが10番なのか?そしてなぜ現在ではトップ下のオフェンシブハーフが10番となり、エースナンバーになったのか?

なにやらシステムと関係があるのではないだろうか?

システムの変遷史

1850年ごろのFAカップの歴史を紐解くと、2-8システム(図1)と言うのが主流でまだまだラグビーの色が濃い時代であった。1866年にルール改正が行われ3人制オフサイドの採用とボールより前に出ても良いと言うルールが採用されると飛躍的に得点場面が増え、ゴールラッシュの時代になった。それに対抗するために1874年以降は1-2-7システム(図2)が流行した。1870年代の初めにはスコットランドで2-2-6システム(図3)が考案され、言うなればドリブルのサッカーからパスのサッカーへと変貌していった時代であると言える。

一方でライバルのイングランドでは2-3-5(ピラミッドシステム)システム(図4)が考案され、ケンブリッジ大学などで使用されていた。これは中盤のセンターハーフがロービング・センターハーフと呼ばれ、広く動くポジションとなりチームの花形としても活躍するようになったところに興味深いものがある。結果、半世紀以上このシステムは使用されることになった。このころのイングランドは大英帝国の全盛とも言われ、もはやシステムも完成の域かと思われていた。しかしながらこの頃、オフサイドルールを逆に利用したオフサイドトラップが流行した。3人のうち1人が上がればオフサイドが成立した時代である。失敗しても残りの二人がカバーに入ればよいのである。ある意味オフサイドとラップと言う戦術が発明されるのは当然の流れだったかもしれない。

1925年にはメディアやファンの要望でオフサイドルールが変更になった。2人制オフサイドの登場である。これによって再度、得点ラッシュの時代へと入って行ったのである。アーセナルのハーバード・チャップマンがWMシステム(図5)を考案し、攻撃的なサッカーを展開した。ここから1950年代までWMシステムとアーセナルの全盛期が続くことになった。

このWMに対抗してスイスではカール・ラッパンがヴェロウシステム(図6)を、イタリア代表は2-3-5から発展した2-3-2-3システムを、ハンガリーは後のブラジルの4-2-4システムにつながっていったと言われるシステムでイングランドを二度に渡り撃破したという。各国で様々なシステムが考案されていったこの時期、中でも1954年スイスワールドカップでWMをベースにした3-2-3-2システム(MMシステム)と呼ばれるシステムを考案したハンガリーは、当時無敵を誇り「マジックマジャール」と言われ、世界を震撼させた。

1958年スウェーデンワールドカップでブラジルが見せた4-2-4システム(図7)は2-3-5を発展させたものだと言われ、今でこそ当たり前だと思われるサッカーの醍醐味である”即興性“を産むものであった。この4-2-4システムはパラグアイ人のフレイタス・ソリチが発明したものだといわれ、このシステムの登場により中盤の役割が明確になって言ったといわれている。このシステムはもう一つ、ゾーンディフェンスの概念を産む事にもなった。それまでは守備と言えばマンマークの概念しかなく、ゾーンなどと言う発想は全く無かった。2バックの横に2人のハーフバックを下げて配置し、自分のエリアを守ることをフルミネンセが実践し成功を収めたのであった。1962年のチリで行われたワールドカップでは大半のチームが4-2-4システムを採用していた。しかし他の国より先んじて4-2-4を採用していたブラジルはこの大会で左ウィングのザガロが中盤の選手のように下がってプレーをしたために、4-3-3システム(図8)のような形をとっていた。

4-3-3システムと言えば1974年、西ドイツで行われたワールドカップで見せた西ドイツとオランダのサッカーが何よりも特徴を物語っている。リベロと言う当時においては斬新なポジションを確立したベッケンバウワー率いる西ドイツとクライフを中心とした現代サッカーに極めて近い、ポジションチェンジをめまぐるしく行う、言うなればポジションが決まってないかのようなサッカーを展開したオランダが基本的には同じ4-3-3を採用していたのが興味深い。オランダはパスワークに秀でた戦術を持ち、守備ではディフェンスラインを高く保ち、ボールを複数で奪いにいく戦術を展開した。いまでこそ当たり前のようになっているが、運動量、安定したコンディション、高度な技術、判断力が要求される大変難しい戦術であった。しかし、結果オランダは優勝できなかったのである。それはなぜか?速攻に弱いシステムの4-3-3であったからである。そういう意味ではリベロと言うポジションの選手(ベッケンバウワー)を配置し、ピンチを防いでいったことそのものが「リベロを確立した」と言う評価を呼び込んでいるのである。

オランダのプレッシングサッカーにより徐々に前方にスペースが無くなり、悠長にボールを保持し、時間をかけて攻めていくことが出来なくなっていった時代を反映して、フランスやブラジルが4-4-2システム(図9)を考案していった。これは前にスペースを作ることにより、中盤よからスペースに走りこんでいってチャンスを作ることを狙ったものであった。が、今度は2人しかいない相手FWに対して4人もディフェンダーを配置し戦うことが非効率的になり、マークを持たないDFが一人中盤に上がっていった。こうして今度は3-5-2システム(図10)が誕生していったのである。

トップ下10番誕生の時代背景

さて、大まかな戦術に見るシステムの変遷はお分かりただいたと思うが、要はなぜ10番がエースなのか?である

先にも述べたが、大前提は得点を良く決めるエースであったことである。1850年ころのルールの統一もまだ行われていない時代やFIFA の設立(1904年)のころはまだ現在のようなメディアも発達しておらず、限られた地域で、そのご当地スターはいたにせよ、世界的スターの出現はもっと時代を待たなければならなかった。1958年スウェーデンワールドカップの時のペレでさえ背番号17番であり若干17歳であった。まだまだ神様になっていないころである。

1974年にアベランジェ氏(ブラジル)がFIFA会長になって初めてマーケティングに力を入れだしたFIFAはそれまでは伝統と格式のイングランド出身の元教師であったスタンリー・ラウスから全く違う路線を歩みだしたのである。オフィシャルスポンサーをつけTV放映権を売却することでメディアにサッカーを載せ、全世界に普及させると同時に潤沢な資金をFIFA内に残していったのである。これが1974年西ドイツワールドカップのころ、アベランジェ氏が会長に就任してからの話である。

ポジション移動の事実

システムの変遷史をもう一度見てほしい。1974年は4-3-3システムから4-4-2システムへの変換期である。そして当時から背番号は野球のポジションのごとく、ディフェンダーからフォワードにかけて、そして左サイドより背番号をつけるのが習慣であった。つまり4-3-3-に当てはめると下記になる。それが4-4-2システムになると右側のように変わっていているのである。

となる。先にも述べたようにFWを2人に減らす時代のときに下がって行ったのが技術的にも秀でたエース、すなわち10番の選手であった。

こうして時代と共に変わって行ったシステムに対して背番号というものは大きな関係を持って今日に至っている。今でもなんとなく名残がある番号は多い。たとえば2、3はストッパー、ディフェンダーが多い。6はディフェンシブハーフが多く、7はサイドの選手が多い。11はフォワード、しかもスピードのあるタイプで昔で言うウィングタイプの選手が多い。これは今でもそうである。

少年サッカーではWMシステムがサッカーを学ぶには良い、と言われているがなぜだかわかりますか?

では次回はWMシステムの話しをしよう。

神戸市協会技術委員会改革2004-05-18

2004年度から指導者の資格制度が変更になる。日本サッカー協会公認指導者資格をお持ちの方はサッカー協会から詳しい案内・届出用紙などが送られてくるためご存知であろう。しかしながら資格をお持ちでない方や、指導者以外の方法でサッカーを楽しんでおられる方々は、サッカーの指導者の仕組みが変更になることなど知る機会がないのではないか?ましてや神戸市サッカー協会が、この2004年度の年度替りから4種指導者に向けていくつかの改革を実行することは知る由もないのではないだろうか?

今回はそういったお話をしようと思う。

JFA指導者養成事業改革

日本サッカー協会の指導者制度は近年急速に整備され、内容も充実し、実際に資格を取得される方が急増している。2003年度11月現在で公認S級166人、公認A級100人、公認B級478人、公認C級1,183人、地域スポーツ指導員C級9,959人、公認準指導員8,981人、公認少年少女サッカー指導員18,228人の登録となっている。しかしこれに満足することなく、こういった指導者達と、将来の方向性を共有しベクトルを合わせること、指導者たちの活動の場を広げること、再教育の機会充実などの環境整備を推し進めることを目標に日本サッカー協会は2004年度より大改革に着手したのである。

大きな改革のポイントはライセンス制度の変更、指導者登録制度の導入(コンピューターで登録管理し登録の簡略化、情報の共有・交換の提供)、リフレッシュ研修会のポイント制導入、GKコーチングコースの開催、2015年以降の日本サッカー界充実に向けてのキッズリーダーコースの開催である。JFAは世界のトップ10入りを新たな目標に掲げ走り出したと言うことである。

コーチングスクールの歴史

では今でこそ充実したシステマチックな制度だが、こういったシステムができていく過程はどうだったのだろうか?下記は日本のコーチングスクールの変遷史である。

1960年 日本の代表選手初の欧州遠征で、デッドマール・クラマー氏のトレーニングを受ける。10月、クラマー氏初来日。
1969年 7月より3ヶ月にわたって、FIFAコーチングスクールを検見川グラウンド(千葉県)で開催。アジア13カ国から42人(日本人12人)が集まる。
1970年 第1回コーチングスクールを開講。
1971年 「公認リーダー」の養成を開始。
1977年 日本体育協会・公認スポーツ指導者制度(旧制度)創設。日本サッカー協会ではこの制度に準ずる形で「リーダー→コーチ→上級コーチ」の図式を完成。
1987年 文部省が「社会体育指導者の資格付与制度」をスタート
1988年 日本体育協会「社会体育指導者の資格付与制度」創設により、公認スポーツ指導者制度を改革、新制度をスタート。日本サッカー協会ではこの制度に準ずる形で「公認C級コーチ→公認B級コーチ→公認A級コーチ」の図式を完成させる。
1991年 都道府県レベルでの指導者不足や少年・少女への指導を充実させる目的で、独自に「公認準指導員」資格を創設、養成講習会をスタート。
1992年 93年のプロサッカーリーグスタートを控え、プロチーム・選手を対象にした「S級コース」のライセンスを日本サッカー協会独自に創設。
1994年 5年間で公認準指導員を9,000人要請することを目的に「公認準指導員、5カ年計画をスタート。
1996年 S級ライセンス取得者(S級コーチ)のさらなる資質の向上を図るため、筑波大学大学院にJリーグと共同で「寄附講座」を開設。
1997年 サッカー指導者の質・量の確保を目的に、日本サッカー協会独自のライセンス「公認少年・少女サッカー指導員」を創設、養成講習会をスタートさせる。
1998年 インストラクター制度スタート。「公認B級コーチ養成講習会」「公認C級コーチ養成講習会」の講師(インストラクター)の養成を開始。
2000年 「公認少年・少女サッカー養成講習会」「公認準指導員養成講習会」の講師(インストラクター)の養成を開始。

こういった歴史を踏まえ、現在のコーチングスクールが形成されていったのである。
1992年に私が公認C級、現在のB級を受講したときはJリーグ開幕の前年でコーチングスクールの旧態依然とした体系からの脱却の時期であった。現在はJヴィレッジや千葉のエアロビクスセンター、千歳キロロリゾート、宮崎シーガイアなど環境の整った、いわゆるオンとオフの区別のつけやすい環境での講習会が当たり前となっているが、当時は検見川合宿所であった。ちなみに検見川合宿所の説明を少しすると、そこは日本サッカー界のメッカであり、検見川を知らないものはサッカー人ではないとさえ言われた(?)極悪環境で有名なところであった。そもそもそこは千葉の検見川と言うところにある東大の施設であり、ゴルフコースのある広大な敷地でアップダウンのきついそれはもう走る(鍛える?)には打って付けの場所であった。日本代表やユース代表は必ずそこで合宿をしていた。当時はそういった環境に耐えてこそ一人前と言われ、今となれば苦しかったが懐かしい体験だった。なんせボールや用具の運搬当番を決めていたにもかかわらず必ず宿舎を出るときは何かが取り残されており、最年少の私はアップダウンのきつい検見川を何往復もして講習会用の用具を取りに行ったものだった。片道600〜700Mを何往復も・・・。そして今はA級を取得できた・・・。

再研修の必要性

そういった旧態依然とした講習会もやがて田嶋幸三氏の出現により改革されていった。現在行われているカリキュラム、システムの祖にS級講師ゲロ・ビザンツ氏(ドイツ)がいる。ビザンツ氏を招聘しS級指導者を養成するとともにコーチングスクールのカリキュラム作成に力をいれてきた。それから10年近くたった昨今、資格取得者は前出のとおり増加の一方だが、反面資格を取得した指導者の再研修がおろそかになりだした。
日本サッカー協会は資格を取ったら終わりではなく再研修を重ね常に学ぶ姿勢を絶やさないようにとアナウンスしている。資格更新には4年で40ポイントを上げることが義務つけられている。旧指導資格と改革後の指導資格の対比をしてみると

資格更新に必要なポイント
公認S級 公認S級 2年間 40ポイント
公認A級 公認A級 4年間 40ポイント
公認B級 公認A級 4年間 40ポイント
公認C級 公認B級 4年間 40ポイント
地域スポーツ指導員B級 公認C級 4年間 40ポイント
地域スポーツ指導員C級 公認C級 4年間 40ポイント
公認準指導員 公認C級 4年間 40ポイント
公認少年少女サッカー指導員 公認D級 なし

となっている。
日本協会はエメ・ジャケ氏の言葉を借りて啓蒙している。
“学ぶことをやめたら指導することをやめなければならない”・・・と。

神戸の現状は

神戸市サッカー協会では開催してからすでに30年近くはたっているだろう“神戸市指導者講習会初級コース”と“神戸市指導者講習会中級コース”といわれる独自の少年サッカー指導者の講習会が存在する。神戸・兵庫のサッカーを支えてきた先輩たちが独自の視点で本当に初心者のお父さんコーチから少し自分でサッカーの経験のある指導者など様々な環境の指導者を対象に開催してきたのである。数年前より日本サッカー協会主催の少年少女サッカー指導員資格が開催されだすと内容も少しずつ変えていき現在も継続して開催している。受講者も増え充実度は増してきた。

しかしながらこれらの少年少女指導員は日本協会が、初級コース・中級コースは神戸市協会が再研修を義務つけてきたかと言えばそうではない。日本協会が資格の再研修を義務つけるようにしていった状況にもれず神戸市協会内でも十何年も前に初級コースを受講して以来、まったく学ぶことなく独自の感覚のみで現在も指導をしている人がいることは事実であり、それはまた非常に危険なことであると感じてきた。その人が悪いとかよいとか言うのではない。とにかく聞く耳、受け入れる心を持って自分のサッカーを振り返る、外部の情報にヒントを見つけようとする姿勢がなければ子供が不幸である。
そこで、少年少女指導員、現在で言う公認D級と初級コース、中級コースの再研修を2年に1回は受けるように義務つける決議がこのたび神戸市サッカー協会4種委員会総会にてなされ、実施されることになった。

初級・中級コースと再研修会の複数開催

しかし、神戸市サッカー協会4種委員会のみでこの事業を展開することは難しい。そこで市協会技術委員会がタイアップしてこの事業を推し進めることになった。

まず、初級コース・中級コースがそれぞれ年1回ずつの開催であったのを上半期1回、下半期1回に増やし、同時に市内東西南北4地区にて各1回ずつを加え合計初級コース6回・中級コース6回を開催することとした。これはまず新規受講者の拡大を目指し広くサッカー指導者の増大を願ってのことである。

そして、日本サッカー協会公認S、A、B、C級コーチならびに2003年度初級コース修了者をのぞき初級コースを過去受講した指導者を対象に再研修(リフレッシュ講習会)を行うこととした。規定としては

☆リフレッシュ講習会を2年間で4単位以上を受講しなければならない。単位数は下記の通り。
(1)トレセン指導者研修会参加2時間(実技見学のみ) …1単位
(2)選抜練習会実技と講義参加4時間(実技見学と講義)…2単位
(3)神戸市サッカー協会公認リフレッシュ講習会参加2時間につき1単位
例)2004年度に初級コースに合格した者は合格した日から2007年3月31日まで資格が
有効となる。この間に4単位以上のリフレッシュ講習会を受講すれば2007年4月1日から2009年3月31日までの資格が有効となる。

を制定した。

再研修(リフレッシュ講習会)をもう少し具体的にすると
(1):土日コース …1単位   神戸市選抜練習会(毎月第2・4土曜日・小野浜球技場)の練習見学のみ
(2):土日コース …2単位   神戸市選抜練習会見学と講義をセット
(3):平日コース�…1単位   毎月第2金曜日19:00三宮磯上球技場で開催する神戸FAコーチングスクール(旧トレセンスタッフコーチングスクール)への参加
平日コース�…2単位   市内東西南北4地区にて1回ずつ開催を企画

を考えており、いずれかの研修に参加することで必要単位を取得し更新してもらうと言うことである。実際に多数開催は大変な事業である。しかしこうやって多数開催し、神戸の少年少女サッカーの指導者を増やし、勉強する機会を提供することが子供たちの幸せなサッカーライフにつながるのであれば言うことない。

一方でこういった事業を展開するためにはインストラクターとなる講師陣を充実させなければならない。そこで技術委員長任命として21名のインストラクターを養成することとした。基本としては新公認資格で言えばB級以上を基本として数名のC級を交えて編成した。それらのインストラクターの教育とベクトル合わせを行うために下記のような規定を策定した。

☆神戸市サッカー協会少年少女指導者公認インストラクター
(イ) 初級コース、リフレッシュ講習会を開催するインストラクターを養成する。
(ウ) インストラクターは6月5日、6日に開催されるインストラクター研修会を受講しなければならない。
(エ) インストラクターの任期は1年とする。
(オ) インストラクターは日本サッカー協会公認S、A、B、C級コーチ資格を有する者が行う。

とし各講習会・再研修会へインストラクターが赴き開催するように計画している。実際にインストラクターの方々に支払う謝礼がない。できれば研修に際しては参加費を徴収して必要経費を計上していきたいと考えている。何かとお金がいることばかりでサッカー界は何を考えている?お金を取りすぎだ!という意見もあろう。しかし物事の充実には経費が必要である。これはすべて子供のためと理解をいただきたい。

技術委員長として感じたこと

2004年度から技術委員長に就任することになったのだが、さて何をどうやって神戸のサッカーを、ひいては兵庫県のサッカーのレベル向上に寄与できるか考えたまず一つ目がこういった事業である。私一人ですべてをやってきたわけではないのでお間違え無い様にしていただきたいのだが、まずはこうやって4種委員会が再研修の必要性を感じ動き出し、動いたことに敬意を表したい。インストラクターに就任していただく方々も快く引き受けていただき感謝している。5月14日(金)に2004年度第1回神戸FAコーチングスクールを開催した。77名の参加を頂き、過去最高参加者数だった。先般のスクールを経て感じた。インストラクターだの技術委員長だのと言っても結局は我々も指導者の皆さんに育てていただいているのであると言う思いがした。そういった77名もの指導者の前でしっかり話をさせていただく機会はそうそうないのであるから。やはり日々勉強である。私も偉そうにいろいろ話をしているが本当に皆のためになっている・・・?

ぜひ皆さんかえら感想をいただきたいとおもっている。協会へメールください。ホームページから書き込みできます。このコラムの感想もあればぜひ!

環境に染まる事が上達?2004-04-10

まずは恒例の言い訳から・・・

いや、本当に長い期間コラムを書けずにいて申し訳ない気持ちで一杯である。この間にいろいろな事があったのだが、どうも他のことに気をとられ、パソコンに向かって落ち着いて自分の思いを綴れなかった。おそらくひと時に仕事が集中してしまい、私のキャパではそれらを消化しきれなかったのだろう。県クラブ・ユース・サッカー連盟の総会の準備、神戸市技術委員会の改革(新技術委員長就任に伴う所信表明とその実行、4種年代指導者のコーチング資格リフレッシュ義務化etc)、2006年国体関係(2006年兵庫国体のスタッフ選考)、我が大学のスキー実習及びサッカー部の進入部員受け入れ準備とリーグに向けてのチーム作りなど、年度替りに集中しそうな仕事がかたまってしまった。少々バテ気味ではあるが何とか新年度を迎えられそうなところまで漕ぎ着けた。言い訳はともかく・・・・。

何からはなしをしようか・・・。

スキー実習の成果

2月14日・15日のJFAインストラクター研修が終わってから、その日の22:00梅田発の夜行バスで長野の戸隠高原まで行った。大学のスキー実習が例年のごとく行われたのだった。学生は16日の22:00に姫路を出て、翌17日の早朝に戸隠に着くというスケジュール。一方教員は事前にコースの下見をするために前々日の15日の内に現地入りし、翌16日に下見をすることになっていた。だが私は研修があったので先発スタッフを追いかける形で夜行バスに乗っていき、16日の早朝7:00に現地に着いて仮眠をすることもなく9:00発16:00帰りの下見ツアーにでかけた。

今年の実習は“歩くスキー”と言うジャンルのものを担当した。来年以降、私は一人で10人くらいの班を受け持つことになるため今年はその引継ぎを兼ねてある先生について行動した。“歩くスキー”と言うとなんとなく楽そうなイメージがあるだろうが、実は結構大変なのである。履く板はクロスカントリー用のスキーで靴もクロカン用であり、踵が固定されていない、つま先だけが板に引っ付いている状態のスキーである。アルペン用のスキー板に比べたら幅は細く、エッジがついていないため操作が難しい。加えて私が戸隠に向かった15日の夜中はかなりの降雪であったため、16日の下見の日は膝上まである新雪の中を一歩一歩踏みしめ歩いていかなければならなかった。まるでモモ上げ前進である。実際には3メートル弱の積雪である。スキーを履いているために膝上くらいまで埋まるだけですむのだが、一旦板をはずそうものならズボズボっと足は埋まっていくし、転んだりしたら大変である。ストックは支えにならない上に、起き上がるとき手を付いても埋まっていく。立つのは困難を極める。

そう、歩くスキーとはゲレンデが活動場所ではないのである。林や森といった道なき道をどんどん開拓して歩いて回り、日頃見ることのない風景や動植物、自然を探索していく活動なのである。それらを見て何になる?といった感じがしないでもない。しかし、経験して見るとわかる。自然の中に入ると摩訶不思議な世界が待っている。音もなく静かである。誰も入った事のない森の中を自分のスキーの跡だけがついていく。よくよく注意をしてみると、ウサギや狸の足跡が新雪に付いていたり、熊が秋に木の実を食べるために木に登った時の爪の後などを見る事が出来る。写真はかなりの積雪のおかげで、日頃頭上高くにしか見ることのできない鳥居が目線にある風景である。またウサギの足跡と熊の爪あとである。動物によって足跡は特徴がありすぐわかる。ウサギは後ろ足が前足より前に着地するのでわかりやすい。

昨年は雪中一泊体験をした。本当に物音一つしない外に昼間に作った寝床(縦・横穴式住居、自分で自分の命を守る穴を掘るのである)に一人で寝る体験は、わが身を振り返らせる。今回はグループでの行動とは言え、誰もいない森の中にコンパスを持って方向を調べながら進んでいく。もちろん事前に下見をした私たちは目印を道中の木々につけ、大体コースを見ては来ている。しかし建物とかの目印があるわけではない。似たような景色がずっと続くのである。今回のように天気がよければまだ良いのだが、もし吹雪いていようものなら、下見でつけた我々の目印さえも当てにはならない。山の中で迷ってしまう危険性もある。学生にとっては大変な作業である。

そうやって日々の生活の安全性や便利な生活への感謝を感じること、個人・友人のありがたさを感じること、自分で自分の状況を切り開いていくことなどを体験してもらうのが狙いである。結局プログラムが全て終了して帰る日には学生たちは口をそろえて言う、「来てよかった」「また行きたい」「自分を振り返られた」と。

上海文化はアジア文化 日本文化ではない

近頃の子供たちは「自分では何も出来ない」「自分で自分のことをする事が出来ない」「人任せだ」などと聞く。いやいやそんなことはない。要はさせてない、する機会がないだけである。実は3月26日から30日まで神戸市U-12選抜(4月から中学1年生になる年代)の上海キャンプに帯同した。どちらかと言うと子供たちに中学のサッカーへの準備、指導者の視察、技術委員長としての上海との顔つなぎを主たる業務としていったのだが、サッカーの内容の詳細は次号に掲載するとして、中国と言う国を見て感じたことの一つが次のことである。

よく言われる“欧米人は自己主張が強い。アジア人は自己主張をしない”ということは違うのではないかということである。つまり自己主張をしないというのはアジア人という括りではなく日本人だけではないか、そんな気がしたのである。韓国人も中国人も遠慮はない。遠慮がないといっても社会生活の中で目上を敬う、ものを譲ると言ったことは当然日本のように、いや日本以上に持ち得ている。そういうこととは別に、日常生活における交通ルールだとか信号を待つだとか車の運転のしかたなどに見られる独特の“遠慮”である。何せ車の鼻先5センチを割り込ませたら、そこにはすでにルールが成立しているのである。割り込まれたほうも割り込まれまいと粘るのだが、入られたらしょうがない。そんな感じである。今中国では高速等の合流地点では、1台ずつ交互に入って行こうキャンペーンをしていると言う。基本的には割り込みをされてしまうのか、それともさせないようにするのか必死なのである。そういったことをはじめとして道路の横断は信号が有ろうと無かろうと、車が来ようが来まいが渡るのである。しかも現地の通訳の顧(コ)氏に言わせれば、「車が来るからといって走って渡ってはいけない」と言うのである。走るとその分、車がスピードを上げてくるらしい。だから街中はやたらとクラクションが鳴っている。騒々しいのである。人のことはお構いなし、自分の都合なのである。関空について三宮まで帰ってくる時、「なんと静かで、きちんと交通ルールを守った、理路整然と車を走らせる国なんだ!」と感じた。

サッカーに向いてる文化?

話はそれていったが、つまりそんな国に行けば行ったで、神戸の子供たちも車に轢かれないようによく周りを見て注意しているし、信号が無くても6車線くらいの道を渡っていくのである。自分で自分をコントロールしているのである。日本の教育は「右見て、左見て、もう一度右見て手を上げて渡る」のが社会生活の最初に教わる基本である。そんなことは中国、韓国、香港、イタリア、ドイツ、ベルギー、ブラジル何処にも無いように見受けられるのである。日本以外の国々はいちいちルールを遵守することをせず、要は事故が起こらなければ良い、見つからなければ良いといった精神である。これは日本社会では最も嫌われる教えではないだろうか。(嫌うのはうちの嫁さんかな?)

サッカーをする上でよく“ハングリー精神”などと言うが先の交通ルールの実態と照らし合わせてみると、ハングリーな環境でないのは日本だけのような気がする。サッカーの競技の特性として周りを見る必要性、周囲の情報収集といった事がよく言われるが、これすなわち日本以外の国々は得意分野であり、日本は極めてそのことに逆行した生活環境であるといわざるを得ない。そう思えないだろうか?外国では常に周りを見て車の動向を考え「隙有らば渡るぞ」としている文化なのである。物心付いたらそんな環境で育っているのである。日本は車が来なくても信号の色で物事の判断基準はゆだねられる。ましてやサッカーに限らず、大学生にいまさら自然に帰って自分で自分のことをするなんてことを教えているようでは・・・。本来スキー実習で行うようなことは小さい頃より訓練されていかなければならないことなのかもしれない。ただ今の現実問題としてそれでも大学生に実習経験をさせることは大いなる意義があるのは事実である。

だからせめてサッカーのトレーニングでは自分で判断すること、自分で考えること、自分で考えるといっても無から考えはなかなか発展しないのでいくつかの方法を明示して考えさせること、言い換えれば選択能力を向上させていく要素を取り入れなければならない。今してよいのか悪いのか?していけないのはなぜ?してよいのはどんなとき?こういう状況ではじゃあどんな技がいい?といったことである。社会のルール、交通文化はもう変えられないので教育の現場と家庭の教育、サッカーのトレーニングで子供たちを変えていかなければならない。我々指導者は大きな責任を担っているのである。

マニュアルの隙間2004-02-01

まずは恒例の言い訳から・・・

年明けのコラム19号から約1ヶ月ぶりのコラムになるが年初に「月2回」と宣言しておきながら・・・と言う感じだ。

私もこう見えても本職があり、本来なら専門職に関する“研究活動”をしなければならない。専門研究と言っても私の場合はサッカーの研究となるのだが、サッカーといってもいろいろな捉え方がある。サッカーにおける選手個人個人の生理学的な解明もあれば、サッカーのゲームにおける選手のパフォーマンスといった、なかなか数字に出にくいものまである。あるいは、相手選手との体の入れあい(競り合いの場面)を例にとって見よう。どういう方法・手法・個人の特性が身に付けば相手に勝ることができるのか・・・タイミング?判断?身体的スピード?身体的スピードでも下半身?上半身?それとも体幹の強さ?と言った漠然としてよくわからないが、「これが分析できればトレーニングに生かす事が出来る」と言ったものもある。

感覚的なもの・主観的なものを体系付けて、文章化するといった作業が必要であり、俗に言う世に役立つものを研究しなければならない。いま、“3人目の動きの効果的なトレーニング方法”の解明をテーマに研究しているのだが、手間隙がかかる。自分の頭の中には今までの経験の中で、手法・順序・重要ポイントなどはまとまって出来ているのだが、いかんせん紙に落とす・まとめるのが大変だ。

まあ、前置きは長くなったが、要はそういった最低、年1回は“紀要”といって研究成果をまとめた冊子を作らなければならないのだが、今回の原稿締め切りが1月31日で、その原稿つくりに追われたというわけである。今回は、論文と言えるものではなく(論文にもランクがあり、査読が入る物はポイント・ランクが高く、評価が高い。昇任人事のときのポイントになる)大した事はないのだが、私にとっては大変な作業であった。どちらかと言えば、紙に落とすより実践型な方だから・・・。

一応、A4・20字×30行くらいで26枚の物になった。テーマは「ワールドカップへの道」である。なぜ日本でワールドカップを開催する必要があったのか? 開催する上での必要条件は何なのか? なぜ共催になったのか?いざ開催する上での問題点はなかったか? チケット問題はなぜ起こったのか? などを分析してみた。いざ紙に落とすのも大変な作業なのだが、文献を読み資料を入手することに時間がかかる。研究室に泊り込むことも、さて、何回ぐらいあっただろう?おかげで奥さんは最近、根掘り葉掘り聞いてきて困る。研究室棟の守衛さんに聞いてくれ!!!

上間先生のコラム

皆さんはサッカークリニックと言う雑誌をご存知だろうか?その中に奈良育英高校の上間先生が毎回、「the voice・・・from the field」というコラムを書いている。クリニック1月号に「マニュアル化という危険性」と題して指導者のあり方を示唆している。要はこうだ。「ライセンスを取得する指導者が増え、コーチングメソッド、ノウハウが広く知られるようになり、方法論を知っている人は増えた。しかし、次第に“知っている”という事が重要になってしまい、選手たちが何を得たか、どのように上達しているかというところから焦点がずれているのではないか」と言うことである。私もこのコラムを読んでなるほどそうだと感じた。

兵庫県協会と地域協会の場合

その前に少し兵庫県、神戸の話をすると、兵庫県の場合は他府県に比べてJFA公認C級(競技力向上コーチC級)以上の資格を取得した人が多い。そして兵庫県では県内を13の地域に分け、それぞれの地域に専属インストラクターを配置し(インストラクターとは、県内の公認C級以上の資格を取得した者の中からJFAのインストラクター研修を受講し、JFA公認インストラクターとなった者)、その担当地域での少年少女指導員養成講習会を主任講師として開催し、加えてその担当地域のトレセン活動を手助けするという仕組みが編成されている。私の場合は昨年までは明石地区担当で、今年度から姫路地区担当になった。

さらに仕組みを言うなら、県下の各年齢別に兵庫県トレーニングセンターと言われる“選抜”、言うなれば優秀選手の合同トレーニングシステムがある。1種(19歳以上)・2種(18歳以下)・3種(15歳以下)・4種(12歳以下)・女子(女子の中にも年齢別のカテゴリー分けがある)においてそれぞれ設置され、そこには種別技術委員長の下、有資格者が中心となって学年ごとにスタッフが割り振られている。県技術委員会の中には委員長の下、強化部会、指導者養成部会、トレセン統括部会という部会があり、トレセン統括部の傘下に各種別トレーニングセンターが位置付けられていると言うわけである。

一方で、各地域協会も活性化していかなくてはならない。選手皆が県トレーニングセンターに集約されていくわけではなく、地域協会での充実したトレーニングセンター活動が選手の育成、レベルアップ、普及を成し遂げるのである。そのため県協会にあるようなシステムが各地域協会にあるのが望ましいのであり、先に述べたインストラクターが各地域協会の活性化に協力するようにシステム化されているのである。しかし、実際には各地域協会にはまだまだ温度差があり、システム上では3,4種しか確立できていないと言う地域もある。

神戸の場合は各種別のトレセンが確立され、その現場のコーチ(トレセン担当コーチ)たちはベクトルを合わせるべく月1回、持ち回りで指導実践を行い、互いに意見を出し合い、よりよいコーチング、方法論の模索・作成に重点を置いている。

コーチングメソッドに踊る

さて最初の上間先生の話ではないが、昨今、コーチングメソッドがあふれ出ており、有資格者だからと言っても、何かしら目新しくて斬新な練習方法でもやっていないと良いコーチとみなされない、と言った風潮があるように感じられる。それゆえに方法論ばかりが踊ってしまって、結局選手個人において何が出来て何が苦手なのかを見失ってしまっているのではないかと思う事が多々ある。昔の少年サッカーでは蹴って走る、バックは上がらず来たボールをクリアーすればよい、などといった指導が目に付いていたが、現在ではとんでもないというのが当たり前になっている。

余談だが昔こんな台詞の少年サッカーの応援歌があったのをご存じないだろうか?「フォワード・シュート!ハーフはカット!バックはクリア!み〜んな頑張れ、○○イレブン!」といったような・・・。つまり当時は蹴る事がサッカーだった。だが、現在では判断・コンタクトスキル・クリエイティブ(状況に最適な技術の発揮)などと言った事が要求されている。

キックのドリル

しかし、いまだに言える事がある。子供の、回りを見る能力・範囲はキック力に比例すると言うことだ。蹴っても届かないところを子供は見ようとしないのだ。見る必要性を感じないのだ。もちろん100%と言うわけではない。中には「遠くへボールを蹴れないから隣の○○につないでもう一つ向こうへ展開させよう」・・・と考える選手もいるだろう。やがては自分の技量に比例して思考力がアップするということになるだろう。しかしU-17、U-20の代表レベル、プロに昇格するユース選手レベルにおいて、代表に選ばれるか選ばれないかの決定的違いも、少年時代に徐々に試合に慣れてきたといったレベルの選手でも必ず勝敗を左右するもの・ゲームの良し悪し(コーチにとっての)を左右するものというのはキックの精度だと私は思っている。試合中・試合後に指導者も観客も「ア〜ッ」とか「残念!」と思うところは大方キックミスの場面である。(もちろんこれだけというわけではない。コントロール・判断など必要要素はたくさんある。)

いや、そうではないかも、言い間違いだ。キックは最低限の必要要素だ。これなくしてサッカーにはならないのだ。と言うことは、なおさらキックが必要だと言うことだ。使い古された・古典的な基本練習もドリブル練習と一緒で、一つのドリル練習なのだ。必ず反復しておかなければならないのだ。柔軟なボールタッチ・小刻みなボールタッチを養うのに重要な年齢・状態があるのと同じで、この数多くボールを蹴ると言うことをおろそかにしてはいけないのではないだろうか。小柄でも瞬間の速さ、パンチのあるプレー・キックを持った少年に伸びしろを感じるのである。

隙間を埋める作業

上間先生が言う「教えていく中で選手はこういう事が出来るようになったが、逆にこういう問題が出てきた」とか「マニュアル通りに進めるのではなく、日々の選手たちの動きを自分の目で見て、考えて、検証していく作業の中から出てきたものはマニュアルでも何でもない。そうした経験を増やすことで、マニュアルの“隙間”を埋めていく事が出来るのではないか。」と言うことは我々指導者にとっては常に気にしておかなければならないことなのだろう。我々もそうだが若い指導者に対しても選手に対しても同じだ。もっと自分で考えトライする必要がある。選手に対しては答えを先に与えてしまっては考える力がつかないだろうし、目の前で見ていてあれこれ言われたら、良い指導をしなければと、それこそコーチもマニュアル化してしまう。指導者はあるときは根本の問題にまで言及しなければならないほど大切な任務を負うが、あるときはファジーで“待つ”事が必要。教えることは大切で、教えなければ選手は成長しないのだが教えすぎはダメだ。“隙間を埋める作業”が大切なのだ。私はヴィッセル時代を振り返ってよく思う。「ちょっとあれこれ教えすぎてたな。選手には良くなかったかな?」と。そして今では小6年から中3までは教えることと教えないことのバランスが大切ではないかと思っている。(しかしその極意はまだつかみきれないが・・・まあ、もしかしたら掴んだ時は指導者を引退する頃かもしれない。)

そして私は思うのだ、トレセンのスタッフとは隙間を埋められるバランス感覚のある指導者が必要な場所だ。「あの選手を私は○○年生のときに指導したんだ。あの時はまだ○○だったよ。でも指導をしたら△△になったんだ。」とあたかも自分の手柄のように言っているようでは論外だ。厳しいことを言うようだが本物は見ていれば解るし、人はよく見ているものだ。指導者は成長しようとする選手を助けてあげるのが仕事であり、選手を使って手柄をあげる仕事ではないのだ。

指導者は隙間を埋めるバランス感覚・・・つまり理屈であれこれより実践の現場での自分の目、完成に磨きをかけること・・・なのである。しかし、私は今、物事を理論立てて感覚ではなく、実証させるという作業の世界・・・論文・・・と言う世界に身を投じてしまったのだ。このギャップに泳がされ漂うのである・・・。この隙間を埋めるのは果たして感性?理論?経験?

高校選手権に見たサッカーに必要なもの2004-01-07

新年明けましておめでとうございます。旧年中はお世話になりました。本年もよろしくお願いいたします。

このコラムを始めて1年4ヶ月が過ぎようとしています。年月の割には号が延びていないのが悩みなのですが今年も1ヶ月に2回のペースを維持していくことを目標に頑張ります。

全国高校サッカー選手権大会に帯同

今、2004年1月5日(月)20:05。駒場スタジアムでの全国高校サッカー選手権大会準々決勝、滝川第二高校vs初芝橋本高校(和歌山県代表)の試合を視察した後の帰りの新幹線の中である。2004年度幕開けの日、1月1日から5日までの5日間、私は滝川第二高校に帯同して第82回全国高校サッカー選手権大会の視察をしてきた。と言ってもチーム、選手にとってはとても大事な全国大会である。部外者がうろうろして選手たちの集中を削いでもいけないので、選手権に出場しているAチームには帯同せずB、Cチームの宿舎に帯同しB、Cチームの練習試合・ミーティングに参加しながら選手権を視察した。

滝川二高B 対 川崎市立橘高校戦
滝二選手のシュートをGKが弾いた。

実際、大会に参加しているメンバーのミーティングとかチームのコンディションをどう作っていっているのかなど、見たい・聞きたい事はたくさんあったのだが、やはり優先するべきものはある。無理は出来ない。しかし結果的にはB、Cチームに付いたことはそれはそれで大変有意義であった。とても明るく、元気が良く、それでいてサッカーに取り組む前向きな心を持った選手たちとの5日間は、最後、名残惜しい気がした。私に「早くサッカーがしたい」と言う気を起こさせてくれた。(ただいま大学はオフ期間中で練習がない時期)

聞きたい気持ち

では今回なぜ私は滝川第二高校監督・黒田先生に無理をお願いして帯同させて頂いたかと言うと理由は二つある。

一つは地元に還元である。2年前まで私はヴィッセル神戸ユースで、同じ高校生年代のチームを指導していたのだが、同じ年代を指導していた時、指導者・選手・保護者の高校サッカー選手権大会にかける意気込みに驚き、クラブチームのレベルが上がったとはいえまだまだ高校サッカー選手権、高校サッカー部のレベルのほうが高いのではないだろうか?と言う疑問を持ち、同時になぜ市船だとか国見だとか、選手権常連校はいつも上位に進出する事が出来るしっかりしたチームを作れるのだろうか?と言ったことに興味を抱いた。そして兵庫のレベルとの(当時は自分のチームとの)差は何なのだろうか?と言うことを考えていた。これらはおそらく誰もが思うことであると同時に、なかなか答えの見つからないものであるということだけはわかっている。しかし当時は皮肉なもので、同じ高校生年代の指導をしているために、その疑問を晴らすべき選手権視察の時間が取れず実現できなかった。そして今、大学生を指導するようになったことで少し時間に余裕が出てきた。出来ればこの時間を有効に使い、疑問を晴らす手だては無いかと考えたのである。そうなると後は方法論である。となると思い浮かぶのは兵庫でも全国でも常連校である滝川第二高校である。そのようなすばらしいチームが身近にあるのであればぜひ少しでもお邪魔して全国に通用する選手育成、市船・国見の「なぜその“常連”になれるのか?」といった秘密を垣間見る事ができないかと考え、選手権県予選前に黒田先生にお願いに行ったと言う訳である。

そして二つ目の理由は“素朴な疑問”である。私は黒田先生に聞いた事がある。「滝川第二高校が全国大会でベスト4に2回もなっていますが(今年で3回目になった)その大会後に周りの指導者たちが黒田先生にいろいろと質問をしたり、勝つための大切なこと、育成に対する大切なことなど聞いてきますか?」と。実はヴィッセルとしてJユースカップを制したときに、あまりにも周りの指導者がヴィッセルの優勝に無関心なのに驚いたことがある。「優勝するのにどんな苦労があったの?」とか「勝ち上がるためにはどんな事が必要なの?」とか「なぜ勝てたのか?」と言ったことを誰一人聞きにこないのに驚いた事があったのだ。

実際には高校選手権のほうがメディアへの露出が多く、メジャーであり競技レベルも高いと言うことは私もわかっているし、何も偉そうにする気など毛頭ない。Jユースカップなどと言う大会は、Jリーグの下部組織チームがメインになる大会(実際には各地域のJクラブ以外のクラブチームに対しても予選が行われ、全国大会に出場できる仕組みになっている。いわばクラブチームにとっての冬の全国大会である。)であり、たくさんの高校生が予選から出場して“身近”と言える大会ではない。加えて育成が狙いで勝負は度外視・・・といった風潮があるのも事実である。3年生より1,2年生で大会に望み、試合の経験をさせると言う考えが根強くある。ゆえに大会に勝てずに負けてしまうのもしょうがない・・・と言うことが無きにしもあらずが事実である。また、ヴィッセル神戸自身の認知度、地元のサッカー関係者に受け入れられているかいないかと言ったことも関係あるのか・・・私自身が嫌われているのか・・・などとも思い「そんなものなのか」と思うようにした。しかし仮にも全国大会である。優勝することの大切さ、むつかしさは変わらない。レベルが少し劣っていたにしても、あまりにも周りの指導者が無関心なのには少々驚いた。私自身は強いチーム、育成に秀でたチーム、常連チームどれも興味があるし、上手い選手、将来伸びる選手、戦える選手、やり遂げられる選手と言った、なにやら解りそうで解らない表現で現す選手の“能力”といった部分にものすごく興味があるために、余計に興味を持たない指導者を不思議に思ったのである・・・。

やり通す力と徹底する力

私は全国大会で優勝したことを人に自慢するとか偉そうにするとかそういったレベルでの“話し”として捉える気はない。ただ、優勝と言うものを体験してこそわかる“もの”があると言うことを知ったという事がうれしくて、自分の財産だと感じている。しかし私はただ単純にその財産と思ったことを少しでも回りの人にわかってもらいたい、感じてもらいたい、参考になるなら参考にしてほしい、どんどん持って行ってほしいと言った気持ちなのである。出し惜しみとか隠すという気はさらさらない。

では私は何を感じたかと言うと今回、高校選手権を見て“自分が思っていたことは間違いないな”と確信めいたものに変わったものがある。表現としては正しく的を獲ているのか、もっと適切な表現があるのかわからないが、つまり一つ一つのプレーを“やり通す力”“徹底してプレーする力”がサッカーにはとても必要だと言うことである。年齢に応じて身に付けていく“物”や“段階”と言うものがあるので今述べたようなことは中学2年生くらいになってからの事柄かもしれない。しかし基本的には小学生の頃からこつこつやり通す力、ほかの事に目移りせず集中する力は養っていく必要があると思う。だからわざと短い練習時間が良いのでは・・・などと思ったりする。ただそれ以前に、前提として技術だの戦術だの体力と言ったベースとなるものが必要という事はある。しかしここで言う一つ一つのプレーをやり通す力、徹底してプレーする力と言うものは技術、戦術、体力が全国ベスト8以上のレベルになってからの話だとか、県予選を突破するレベルになってからの話であるといったように“限定”するようなものではないと思う。レベルは高いなら高いなりに、低ければ低いなりに拮抗するレベルと言うものがある。私が言う“やり通す力”“徹底する力”と言うのはそういった“拮抗したとき”にゲームを左右するものであり、ましてや全国レベルや国際レベルになればはっきり違いとして出てくるものだ。

滝二、国見とも持ちえていた

今、2004年1月7日17:00。準決勝 滝川第二高校vs国見高校戦を観戦した後である。0-4という差が付いてしまったがここの差は先に述べた“やり通す力”“徹底する力”といった点で国見高校のたくましさを感じた一戦であった。しかし初戦、3回戦、準々決勝を見る限り滝川二校も“やり通す力”“徹底する力”という点で昨年よりもはるかに高レベルでのチームになっていたように感じた。

2回戦 滝川二 対 長岡向陵
(等々力競技場)
準々決勝 初芝橋本高校戦 前
(駒場スタジアム)
初芝ゴール前へ攻め込む滝川二
準々決勝 初芝戦 延長1-1
PK戦 5人目のゴールが決まった瞬間
試合終了後、選手・スタッフが応援席まで勝利報告

国立へ連続して進出した“経験”と言うものはこうも選手、チームを成長させるのかと思うくらい2ランクくらいレベルアップをしたように感じた。少々押され気味の試合になっても動じず、淡々と自分の役割をこなしパニックになることなく慌てずボールをまわし、偶然による得点ではなく必然による得点で試合を決めようと言う意思が伝わるチームになっていたように感じた。

国見高校はこの準決勝戦において、準々決勝の四日市中央高校戦のときより良い場面がたくさん出ていた。

国見高校 対 四日市中央工業 戦
(準々決勝・駒場競技場)

守備面ではマンマークとカバーの徹底度の高さ、滝二FWにボールが渡った時のマンマークDFとMFの挟み込みの徹底具合(速さと強さと連続してやり遂げるタフさ)は相当に高いレベルである。たまたまではない。いつも滝二の選手に対して二人でボールを奪っていた。滝二の選手は後半に入り落ち着きを取り戻すと寄せてくる相手選手を良く見て二人来たら叩くと言った相手の動きを利用して局面を打開する余裕を見せ始めていた。しかしその矢先に2点目を奪われたことと、ミスが起こってしまったためリズムに乗り切れなかったようである。相対的にやり通す強さと徹底する強さにおいて国見高校のほうが滝二より少し強かった。

リズムの乗るとは・・・?

我々はよくリズムに乗り切れないと言った表現を使うことがあるがどういったことなのだろうか?今、目の前で戦っているチームの日頃の練習や試合を見た事も無くどんな戦術をしかけてくるかも解らないのに「リズムに乗り切れていないな!」と解ったようなことを言う事がある。それすなわちミスが頻繁に起こる、あるいは“ここ”と言う決定的な場面でミスをしてしまう時に使う言葉ではないだろうか?ゲームの中で劣勢になるチームは逆境局面でミスを犯す。ミスを犯すから逆境になる。どちらが先にしても、ここが肝心なところである。しかし、優勢のチームは逆境の場面でもベストなパスを出せないにしても、なんとか味方に繋げたりラインを割って簡単に相手ボールにしないし、ゴール前のピンチではクリアーを大きくするなどと相手にとって嫌な事をきちんとしてくる。つまりこう言った物事をやり遂げる強さ・・・こういう点で兵庫の子供たちには非常に弱いと感じるのである。

協会として・・・

先にも述べたが年齢における習得課題と言うものがあるので、今回述べてきた事がすべてだとか先に優先するべきだと言うわけではない。当然他にもやらなければならない事がある。ただ、どうもボールコントロールだとかドリブルだとかオフ・ザ・ボールの動きだとか、昨今強化指針にてうたわれていることばかりが先に来て、挙句にはそれを指導しているから“物事をやり遂げる強さ”は後回しにしていると言う風潮がある。後回しなら良いのだが感じていない指導者がいるのではないだろうか・・・。雨の日でないと雨の日サッカーの練習はできない、理屈ではない、フィーリングで感じる事が必要なときがある。いちいち技術と戦術、体力を分けてトレーニングしていてはいけない。動きながらのボールコントロール、動きながらのボールコントロールを繰り返せる体力は、動きながらボールを触らないと養えないのである。雨の日のサッカーと同じである。だからこそ指導者はこう言ったところを肌で感じなければならないし、感じる事が出来るように全国レベルの大会(全国高校選手権やU-15クラブユース選手権全国大会)などを視察に行って、しっかり分析する“眼”と“分析結果”をもちえる事が必要と考える。そしてもしかしたらもっと大切なことは、指導者とは分析する目と結果を持ち得るまえに、如何に言葉にし選手に伝えるか・・・これに長ける事がまず何より大切ではないかという気もする。

兵庫に長けた指導者がどれだけいるかはわからないが、私はそういった選手、コーチを育てたいとおもう。だから協会としては組織だって次期幹部候補生を選出し、長期計画で指導者、役員を育てなければならない。自分のチームの選手を育てるのと同じように協会もそういったプランが必要と感じる。そうでなければ何年経っても兵庫のサッカーは強くならない。いい加減自分の固定概念サッカーを一度切り離し、外のサッカー、全国レベルの経験者の話を良くも悪くもすべて含めて吸収する姿勢が必要である。いつも自分のサッカーのみ語っているようでは先は無い。兵庫の体質の良いところでもあり改善するところでもあると思う。もっと黒田先生の話を聞かなければもったいないのである。

日々勉強、物事改善するにはまず自分から・・・。聞く耳・・・である。

温故知新的今の自分2003-12-10

よくやった日本ユース代表

今、12月9日(水)午前2時。ワールドユースサッカー選手権大会決勝トーナメント1回戦、日本対韓国戦をスカパーで観た後である。

ワールドユースサッカー選手権大会・1次リーグ、緒戦のイングランドに2-0で勝利を挙げた日本ユース代表は続く第2戦、南米の雄・コロンビアに1-4と大差による敗戦を喫した。しかし決勝トーナメント進出をかけた第3戦のエジプト戦(エジプトは確かアフリカチャンピオンだったと思うが・・・)では高校生FW平山のゴールで1-0としぶとく勝ちあがりグループ1位での決勝トーナメント進出を果たした。

決勝トーナメント1回戦の今日、アジアユース選手権(アジア予選)決勝で0-1と敗れた韓国と対戦した。日本ユース代表は前半38分に先制点を許し苦しい展開となったが後半28分より途中出場した坂田大輔(横浜マリノス)の同点ゴール(82分)で延長戦に持ち込む。延長前半15分、坂田のこの日2点目、今大会通算4点目となるVゴールで2-1と逆転し、この世代4連敗をしていた韓国に世界大会という大きな舞台で初勝利、初得点を挙げ(この世代同士の試合では韓国にアジア予選決勝を含め過去4戦とも0-1で敗戦)大きく成長をする機会を勝ち得たのである。

Vゴール後集まって喜ぶ日本ユース代表

*この号が出ている時には準々決勝、ブラジル戦が終っているかな?
(実はトーナメント1回戦・ブラジルvsスロバキアは今日、9日日本時間23時に行われるので今の時点で日本の相手は分からない。)

テレビを見て思い出した・・・

私にとって実はこの世代の選手たちにはちょっとした思い出がある。

一つは、今の大学2回生に当たる年代が今年のワールドユース大会出場資格のメイン学年になるのだが、この世代がちょうど中学生であった1998年頃、私はヴィッセル神戸のジュニアユースを指導していた。そのころ私が指導していた選手たちは高校進学時にユースに持ち上がってからも指導をした者もいれば他の高校サッカーチームに行ってサッカーを続けた者もいた。やがて3年経った2001年に兵庫県国体少年選抜チームのコーチをすることになった私の下に1998年当時、高校進学時に別々のチームでプレーすることになったメンバー達が再び集まり国体選抜という一つのチームとして戦う機会に恵まれたという経験がある。加えてそれ以前(この世代が小学5・6年生のころ)に私は小学生兵庫県選抜の指導もしていたのだがその頃に指導をしていた数人ともこの時の国体チームで一緒に戦う事が出来た。さながら同窓会的に懐かしさとうれしさとをモチベーションにして戦ったのを覚えている。このときの国体メンバーの陳賢太(ヴィッセルトップ→甲南大)、新保和也(ユース→関学大)、長手良平(ユース→大教大)は中高とヴィッセルで、高校チームに進学した名倉佑(滝川第2→浜松大)、黒田達也(滝川第2→東京学芸大)、藤田祥史(神戸国際→立命大)は中学時代まで指導をしていた。他に三木章嗣(三木中→小野高校)などは小学校時代から県トレセンでずっと見ていたしジュニアユース時代、ユース時代に対戦を何度もしたおかげで知り合った日比野崇(神野ジュニアユース→滝川第2→東海大)、梅澤英明(吹田六中→神戸弘陵→関西外大)、堀裕介(セレッソ大阪ユース)らもいた。彼らは皆今、20歳を迎える世代であり少しばかり昔を懐かしく思い出した。

頼もしい姿

二つ目はこの世代を指導していて彼らが中学3年生のときのことである。ヴィッセル神戸ジュニアユースとして第14回日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会に出場していた我々は第3位と言う成績を収めた事があった。準決勝で清水エスパルスに敗れたのだがヴィッセルとしてはチーム創設以来初の日本サッカー協会主催のビッグタイトル入賞を果たしたのであった。

現在も続いているのだがその全国大会の大会期間中、活躍した選手を優秀選手として表彰し、9月第1週の日曜日にその優秀選手による東西対抗戦が行われている。その年、私が教えていた選手の中から新保和也と黒田達也の2名が西軍チーム(西軍は静岡県より西に所在地があるチームで編成されている)優秀選手に選ばれ、名古屋の瑞穂球技場にて行われた東西対抗戦に出場した。その際の東軍、西軍の監督、コーチは大会の成績上位チームの監督が勤めることになっており、清水の大石監督(当時)が監督、私がコーチを務めることになった。その西軍チームとしてセレクトした選手はというと今回のワールドユースに出場している永田充(エスパルスJrユース→静岡学園→柏レイソル)、菊地直哉(エスパルスJrユース→清水商業→ジュビロ磐田)がおり角田誠(サンガJrユース→サンガユース→サンガ)もいた。他に代表には入っていないが長沼圭(グランパス)、深沢良輔(エスパルス、現在は退団)などもいた。当然のことながらとても上手い選手であった。永田と菊地は確か年は一つ違いだったと思うが彼らはエスパルスユースには進級せず高校サッカーを選択している。そしてエスパルス以外のチームにプロ選手として入団しているのが興味深い。あの選手育成に定評のある清水でさえそんな現象が起こっていたのである。

彼らを預かり、たとえ1試合だけとは言え一緒に戦えたのは私にも貴重な経験であったと同時に今でもとても気になる選手である。今ではなかなか話をする機会はないのだが気さくな笑顔をみせ会話をしたものだった。テレビの画面での様子ではあるが彼らの勇姿を見て頼もしく感じたのであった。

決勝ゴールの坂田大輔

今日の決勝ゴールを決めた坂田大輔。彼に関しても思い出がある。1999年Jユースカップで優勝を成し遂げたときの決勝の対戦相手が横浜マリノスであった。そのときFWとしてマリノスの攻撃を支えていたのが坂田であった。何せマリノスと対戦する私にとっては相手チームの戦力分析、試合における作戦を考えるために何度も試合、ビデオを見たのだから覚えていないわけがない。しかし当時の印象からすると今のプレー振りの方がはるかに迫力がありスピードもある。プロになり代表になるのだから当たり前のことなのだが当時から良い選手だと言われてはいたもののここまで成長するとは思わなかった。少し華奢な選手で何処となく弱さも感じられ「これが取れれば・・・」と言う感じであった。いつも見ているわけではないがしばらくぶりに画面で見たら頬がこけ精悍な顔つきに驚いた。やはり高校生から20~22歳頃までの鍛え方、経験と言うものは大切であり、言い換えればこの年齢になってからが大切であり大いに成長するのだなあと感じた。証拠に坂田はこのユース代表にチーム立ち上げ当初から選ばれているわけではなく、しかも世代は一つ下なのである。

兵庫での選手育成は

今回のワールドユースを観戦し思うのである。前出の永田しかり、菊地しかり坂田しかりである。なぜに素晴らしく成長し期待の大きなグッドプレーヤーになっていくのか?

兵庫県では2006年に国体がある。今日(12月8日・19:00より)偶然にも県技術委員会が開催され将来的な話も少し話題に上がった。結局国体など全国レベルの大会で成績を収めようと思えば日の丸をつけるレベルの選手が数人いなければ勝てないだろう。しかし、勝て勝てと言う反面、兵庫県トレセン(選抜選手の集まり)では普及的な要素も多少含まれているのも事実である。今のままではなかなか日の丸選手は輩出できないのではないかといった意見も出た。ではどうしたらよいか?

指導者が変わり環境が良くなることだ。とはいえ今すぐに環境は変わりにくい。しかし指導者は変われる。頭の中一つ変えればよいのだから。しかしながら「現トレセンにおいては普及的要素があるうえに実際には他に自分の仕事があり自分の指導しているチームもある。だから実際には選抜の指導は物理的に難しい・・・」といったような意見が出た。そんなことを言い出したらどの県も同じである。そして選手と言うのは「あの人は教師だから適当に○○しといたらいいや。」などと人の職業を見て本気になったり手を抜いたりしない。子供にとって目の前に現れた指導者はどんな職業であれ指導者である。職業により見る目を変えたりしない。本質的に子供達にとって大切なことは指導者の存在そのものであり指導者の人間性であり指導内容である。「昌子さんはプロで指導しているからサッカーを優先できるだろうし自分のチーム以外の指導をしようと思えば出来るでしょ?でも私らは本来の仕事があってその合間を見計らったり時間をやりくりしたりで選抜の面倒を見ているのですよ。しかも交通費などいくらも出やしないし・・・。」といったことを以前によく言われた。確かに交通費としては所属クラブが負担してくれたこともあった。しかしあくまでも本業は自分のチームの指導でありいつも選抜の指導に行ける訳ではなかったのは私も同じだ。まあ当時の状況はどうでも良いのだが今現在はそう言っていた人たちと同じ職場状況に私もなったのだ。だから余計に私は選抜関係の仕事をやらなければと考えている。私がやり出せば他の指導者は文句を言えないだろうから・・・。

人前であまり愚痴を言ってはいけない。出来ないことがあればなぜ出来ないのか理由の分析が必要なだけで文句や愚痴は要らない。できなければやらなければよい。やるなら建設的意見を言い実際にやるだけでよい。兵庫県技術委員会もしっかりと2006年まででなく将来を見据えたきちんとした強化策を考えなければならない時期が来ている。私も技術委員会の一員である以上責任を持ってやらなければならない。出来なければ引き受けるべきでないと言う気で・・・。

古きを尋ねて新しきを知る・・・昔の経験、自分がしてきたことを振り返ってみるといかに自分のしてきた事で成果が出ていることが少ないか・・・それを諸先輩がしてきたことと比較するとなんとも頼りないものか・・・そういったことがとても多いものだ。しかしこのことそのものがまた自分への経験となって新たな自分を創り発見するのだろう。そうやって変わる事が出来たら兵庫県の為に役に立つことをもっともっとしたいものだと思う。

・・・でも このコラムが愚痴だったりするのかな????

兵庫の女子サッカーの積み重ね2003-12-01

過日、11月21日(金)から24日(月、祭)までの4日間、清水ナショナルトレーニングセンター(通称:Jステップ)にて第15回全日本レディースサッカー選手権大会が開催され昨年に引き続きコーチとして前年度優勝チームアジュール兵庫(A’ZUL HYOGO)に帯同した。

その中から少し・・・。

第15回全日本レディースサッカー選手権大会とは

昨年度優勝チーム・・・として参加したアジュール兵庫。昨年までのこの大会は“全国ママさんサッカー大会”として開催され14回を数えていた。

昨年、川渕さんが日本協会会長に就任した際、広くサッカーマンに愛されるようにと言う理由でキャプテンと言う名を使い、同時にキャプテンズミッションと言う施策を発表した。これは10からなるもので既にご存知の方も多いと思うが

  1. 登録制度の検証・改革
  2. 施設の確保・活用
  3. 幼年時代からの普及・育成体制の整備
  4. 中学年代の活性化
  5. 強化指定選手制度の見直し
  6. レディースサッカーの活性化
  7. ファミリーフットサル大会の創設
  8. リーグ戦の導入
  9. 地域/都道府県協会の活性化
  10. 新たなミッション

と言ったものである。

その中の6番目にあるレディースサッカーの活性化に関する内容の一つが今回の全日本レディースサッカー選手権大会である。

昨年までのこの大会は前出の通り「全国ママさん大会」と言う名で14回の開催を誇っていた。熱心な参加者が集い、地域予選も行なわれ、これはこれで盛大な大会であった。ママさんの大会と言っても競技レベルは予想以上に高く、元Lリーガーもいたりする。一方で子供がサッカーを始めたから一緒にサッカーを始めたと言うママさん選手もいて何処となく和やかな雰囲気も無くはない。しかしながらこと選手権となれば話は少し変わってくる。やはりと言うか、なりふり構わず補強して勝ちに行くチームが現れるのが世の常。そこでこの“ママさん大会”はいくつかの出場条件が設けられ、皆が大きな競技レベルの格差(Lリーガーと素人)に悩まされること無く、比較的公平に競技に参加できるよう工夫されていた。これがまた絶妙なルールで非常に興味深いものであった。

  1. 地域によっては競技人口差が大きいので地域代表チームは単独、補強、選抜のいずれの方法でも編成できる
  2. 11人の出場選手の年齢合計が400歳以上であること
    (ピッチ上の11人の合計年齢が400歳と言うことである。つまり若手を起用すればその分ベテランを配しておかなければ年齢が足りないと言う事態が起こる)
  3. 20歳以上のママさん、または平成○○年11月○○日(その大会当日)の時点において35歳以上で無ければエントリーできない
    (つまり、20歳以上の人が出場する場合は経産婦であること、経産婦で無い場合や独身の場合は35歳以上であれば出場できるということである)

と言った参加資格が課せられていた。

実際にマッチしない企画

川渕キャプテンは広島で開催された昨年の第14回大会にゲストとして視察に来た。中日の懇親会は「選手の皆さんとお話をして今後どんな大会にしていくか意見がほしい」といって和やかに行われた。キャプテンズミッションが発表される前年であったのだが今から思えばその時の懇話会の伏線にはキャプテンズミッション・レディースサッカーの改革があったと考えられる。当時、11回大会から13回大会まで3連覇中だったフローレンス広島や過去に優勝経験豊富な清水FCママなどの常連選手からは「優勝チームは韓国のママさんチームとの選手権が出来ないか?」などとおもしろい意見がたくさん出た。ママさんサッカーを今後もますます発展盛大にしていくような旨の発言もキャプテンから飛び出したため会場はヒートアップした。

が、しかしである、今年度になって発表されたママさん大会の要項は全日本レディースサッカー選手権大会と大会名が変わるにとどまらず要項まで変わり今までと趣向が変わった大会になってしまった。キャプテンは「ママさんと言う名はバレーボールみたいで嫌いだ。何か良いネーミングを考えたい。」とその時言っていた。先に上げたママさんならではのルールなど無くなり、18歳以上であれば誰でも出場OKとなった。ただ、Lリーグ登録選手と全日本女子サッカー選手権大会(男子で言う天皇杯レベルの競技会)への同時エントリーは不可という条件のみ付いた。こうなると元Lリーガーで固めたチームが出現し各段の力量の差を持ってダントツの強さを見せ付けることは容易に想像できる。案の定、今回優勝チームは高槻ラガッツァという数年前までにLリーグに登録していた選手のOGチームが30歳から33歳くらいまでの若い選手を揃え優勝した。準優勝チームも熊本の大津高校女子サッカー部のOGチームで固めた、年齢にしたらこれも30歳代前半、高校女子サッカー選手権大会で優勝したときのメンバーが大半と言うチームだった。

今回から45歳以上の大会を同時に開催し、いわゆる年代別の大会の整備を行った感があるレディースサッカー大会。正直、全国各地の関係者からは批判的な声が続出した。小刻みに20台、30台、40台と年齢別の大会を行うには競技人口の絶対数が無い。かといってこのように20台やL経験者とママさんが競い合うにも無理がある。45歳以上の大会を併設したとはいえ10分ハーフのハーフコートで8人制と言う形式にも不満が続出。

日本協会は現場の選手までとは言わないがせめて指導者、各地地域協会の主たる役員などに意見を聞いているのだろうか?もっと現実・実際にマッチした企画が出来ないものか・・・。リサーチをきちんとしているのだろうか?誰が何処で大会検討会議を行ったのか?はなはだ不満で遺憾である。もちろん誰かがある種、強引に物事を変えていかなければ物事は変わらない。いちいちお伺いを立てていたらきりが無いのも分かる。しかしである、この大会は少しやりすぎである。現地で数人の方に聞いたが大会前の年度当初、日本協会は大会参加チームに対して交通費か何か資金援助をすると言うような発言をしたらしい。確かにわずかながら捻出されているらしいが援助が出ていない地域もある。こういう事が事実であれば由々しき問題である。軽々しく行うべきではない。援助云々と言うことを公言しても良いが十分煮詰めてから、いよいよGO段階になってから言うべきである。

我々からすると昨年の突然開催された大会期間中の懇親・懇話会で実はヒアリングされていたのか?と憶測してしまう。「聞くだけ聞いたじゃない、言わない君達が悪い」と協会筋に言われているようで、気が付いたら勝手に大会形式を変えられたという感じである。私の周りの誰一人意見を聞かれていない、今後の大会についての意見など・・・。

では、百歩譲って「前身のママさんサッカー大会の継承大会だ」と主張するのを理解したとしよう。それなら・・・ましてや第15回全国レディースサッカー大会と名前を付けたのなら・・・大会パンフレットに“過去の記録”として第1回から第14回までの栄光を記載するべきである。昨年までのパンフレットにはきちんと記載されていたものがどうして今年になり削除されているのか?日本協会が悪いのか地元協会が悪いのか印刷屋が悪いのか・・・。まるで『全く新しい大会ですよ。今までとは関係ありませんよ。』と言っているようである。それなのに大会名には”第15回・・・・“とネーミングされているのは何なのか。原因は何であれやる事と言うこと、主張することに一貫したものを感じ取れない。ママさんがいてサッカー人口は拡大する、サッカー好きのママがいるから子供もサッカーを始めるといったキャプテンの話はどうなんだと言いたい?たかがママの大会、されどママの大会。もう少し現場の声を聞く機会を作るべきである。特に日本協会内の女子関係役職の方々に・・・。

アジュール兵庫は昨年度優勝チームとして予選を免除されての参加。結果第3位という成績であった。1,2位のこういったある種違う性格を持ったチームを相手にママさんチームが3位に輝いたと言うことはとてもすごいことで”偉業“といえるような気がしてきた。3位決定戦の清水FCママもいわゆるママチームであったことから3位決定戦は昨年までの”ママさんサッカー“に置き換えればいわば決勝戦ともいえるようなものではなかったかと・・・。選手達のこの頑張り、栄冠に敬意を表したい。

しかしながらこうやってママチームがキャプテンズミッションによる変革元年の今年、頑張れば頑張るほど「この大会形式で“間違いではなかった”」という認識を協会内に植えつける皮肉な結果にならなければよいのだが・・・。

A’ZUL  HYOGO  の戦い

4チームずつ4グループに分かれての予選リーグ。第1戦は関東第3代表・北坂戸レディース。前半は0-0であったが後半に入り兼吉(旧姓・尾板)が得点、終了間際には昌子が加点し2-0で初戦を飾った。アジュールの鬼門はいつも2試合目。第2戦、東北代表・リトルスターズ戦では選手自身がそこを注意し、開始より前がかりでよいゲームを展開。前半16分に坂本が先制点を挙げると続けざまに昌子、坂本と得点し前半を3-0で折り返す。後半に入っても吉田(万帆)が加点しトータル5-0の勝利となった。この試合後宿舎にてミーティング。試合にてよく言う“良いスタート悪いスタート”とは何処がどう違うのか?そして明日はどうして行くのかをビデオで確認して初日が終った。

二日目、予選リーグ最終戦は全勝での決勝トーナメント進出をかけて四国代表のFCカルメンと対戦。この日初出場の平井の活躍などで5-0の勝利。午後からの1位トーナメント進出を決定した。

決勝トーナメントは各グループ同順位同士4チームでのトーナメント、つまり1位は1位の4チームで、2位は2位4チームでトーナメントを行う形式であった。と言うことは予選1位になった時点でベスト4進出を決定した事になる。準決勝は前出の大津高校OGメンバーで固めた熊本大津マリノス。平均年齢も若く最高齢で37歳、29歳から32歳までがチーム総勢18人中13人。

***ここで我がアジュールを少し解説・・・。***

最高齢は54歳、最年少が32歳2名、あと30歳代が7名、40歳代が9名とバランスの良い好チーム。エントリー選手18名中12名は神戸市少年リーグ女子の部経験者ないしは高倉中学校女子サッカー部経験者あるいは神戸フットボールクラブレデーズでのサッカー経験者であり、中には小中高とサッカーを続けてきた選手までいる。言い換えれば皆、昔一緒にプレーしていた旧知の中であり、実際には互いに旧姓で呼び合っているという現象まで起きている。これにママさんになってから出会った選手達が何の違和感も無く融合して出来上がったチームである。平成12年度に初結成してから4年・・・

【過去の成績】

1年目;平成12年

[予選リーグ]
第1戦 ○2-0 vs長野選抜
第2戦 ●1-3 vsフローレンス広島(前年度優勝チーム・結果この年も全勝優勝)
1勝1敗・1次リーグ敗退
*当時は3チームでのリーグ戦で1位のみ決勝トーナメント進出

2年目:平成13年
[予選リーグ]
第1戦 △0-0 vs清水FCママ
第2戦 ●1-2 vsLFC清水(北海道代表)
1分1敗・1次リーグ敗退
*当時は3チームでのリーグ戦で1位のみ決勝トーナメント進出
この年もフローレンス広島が優勝を飾り大会3連覇を成し遂げた

3年目:平成14年
[予選リーグ]
第1戦 ○1-0 vsフローレンス広島(大会3連覇チームに3年目にして初勝利)
得点:田村
第2戦 △0-0 vs城山FC(九州代表)
[決勝トーナメント]
準決勝 ○3-1 vsFCヴィクトリー(関東代表)
得点:坂本2、中谷
決勝 △0-0
PK4-3 vs高知選抜(四国代表)
初優勝

大会MVPに坂本里加子が選ばれると言う3年間の戦いの中で3連覇のフローレンス広島を破ったこと、年を追うごとに選手が本気になり自己犠牲を払ってでも勝利に邁進していく姿がとても印象的で素敵なレディーに出会えた実感がした。

昨年の優勝した後のスナップ(キャプテンを囲んで)

さて、準決勝に戻るが・・・、準決勝は先手を取ったものの結果逆転されて1-2で敗れ3位決定戦に回った。この試合は相手の粘り強い守備からの速攻注意と思いながらもまんまとはまり一本のロングシュートとハーフウェーライン付近からのFKを決められた。泣く選手、呆然とする選手・・・、守備を崩されること無く失点し敗れた選手たちは負けた気がしないだろう。しかしそれもサッカー。相手選手の前年度優勝チームに対する思い、準決勝を勝ちたい気持ち・・・それら全てを受け止めた上で勝っていく立場である事が今年のアジュールだったのだ。こうやって勝ったチームは更なる勝利を、負けたチームは悔しさを胸に刻んで頑張るのだ。我々は少し忘れていたのかもしれない・・・そういうチーム・選手の気持ちを・・・、我々が4年前に悔しい思いをして帰ってきたときと同じことを他のチームはしているのだということを・・・。

3位決定戦はママさん対決となり是が非でも勝ちたい試合。前半は0-0で互いに一進一退。後半に入り右からのロングクロスボールが直接入り先制点を許してしまった。しかし、すぐさま坂本、兼吉のトリッキーなFKより兼吉が直接ゴールイン。1-1の対に追いついた。この試合では前半守りに入ったのか相手選手のマークに気を取られ守勢に回っていた。そこでハーフタイムには後半点を取るための作戦を授けた。そのために必要なキーワードが実はひとつあった。私はこのあるポイントにおいて計算できるものがあれば勝てると睨んでいた。勝てるとはいわないまでも点は取れると思っていた。

まず前半の中盤における数的不利におけるカバーをいかに修正するかということであった。そしてその方法としてシステムを大きく変えるのではなくバランスを維持しながらなおかつ中盤で数的有利を作り、そして点を取るために少々のリスクを犯してでもゴール前に人数をかけていくること・・・そのためには右ワイドハーフの8番を抑えることであった。先手を取らずに釘付けに出来たら・・・しかし2人で抑えるのでは意味がない。如何に少ない人数で抑えその余った分を攻撃に費やすか・・・。その仕事をきっちりしてくれたのが平井であった。彼女は目立たない地味な仕事をきっちり行ってくれた。8を押さえることで全体が押し上げにくくなった清水に攻撃の糸口はカウンターのみとなる。そういった目に見えにくい”流れをつかむ“為の作業をよくやってくれた。影のMVPと言えるのではないだろうか。
延長も0-0で決着付かず勝負はPK戦へ。先攻はアジュール。1人はずしたものの兼吉、井口、幸田、水田が決め5人目先攻アジュールが終って4-3。5人目後攻の清水FCママ、センターフォワード�番の選手にプレッシャーがかかる。はずせばアジュールの勝利となる。助走をとって・・・キック!!  見事GK高貝がキャッチ!!  この時点でアジュール兵庫の3位が確定し、前日とは違う涙・涙・涙・・・。スタッフ、リザーブ選手、応援に来てくれた45歳以上大会に参加していた選手・・・皆、歓喜の渦に巻き込まれた。

3決前のベンチ(後ろは45歳以上大会出場選手の応援)
3決前の円陣

悲喜こもごも・・・この大会も終った。

ここからはこの場を借りてジュールの選手に贈る言葉を少々・・・。

アジュール兵庫の指導を手伝って4年。ママさんサッカーの取り巻く様子もよくわからずただ選手に合った練習メニューを提供することのみを仕事と捉え参加。徐々に全国大会へ帯同する事を前提に練習会にも出来る限り参加。しかしながらヴィッセル神戸の仕事とのやりくりに苦慮し難航。部長と言い合い、小言を言われながら地域サッカーのため、協会行事にヴィッセルが協力をすると言うスタンスでやりくりを続行。協会からの派遣依頼状にてしぶしぶ許可を得る。どうやらこのことは後々の私の状況に影響を与えたようである・・・。いきさつはどうあれ1年目、平成12年11月に初めてアジュールとして全国大会へ参加。私は前日から現地入りしたチームとは別に仕事を終えた後、翌日に現地入り。このとき、選手のサッカーに対する準備、考え方のレベルに愕然とする。浅野監督に相談し生活面のこと、サッカーに対する心がけのこと、相手に対する思いやりのことなどを大人としてレディーとして身に付けるよう注文。タバコ、スリッパ、サンダル、状況によるサッカー選手としての身の振る舞い、良い準備をする習慣作り・・・すべては大会に勝つため、自分自身が自分なりに努力をして勝利を求めていくと言うためである。それがなんなの・・・?それが目標だからである。

母として女房としてプレーヤーとして・・・いくつもの顔をやりくりすることは本当に大変なことであっただろう。しかしそこには協力者がいたと言うことを忘れないでほしい。そしてもっと忘れてほしくないことはその協力者を増やして言ったのは紛れもなく自分自身であることを。日々の努力があるからこそ周りの人はここぞと言うときに応援してくれるのである。日頃からサボって言いたいことを言う者に誰が応援の手を差し伸べるのか・・・。私は中学生・高校生・今では大学生にも言っている、「自分のファンを作る」ということの大切さを。この私の精神を少しでも伝える事が出来たらと思い始めたアジュールの指導。私としたら上手く伝わっていれば本望である。選手が理解してくれたのか最初から知っていたのかはわからないが今年のチームを見て本当にすばらしいチームになったと感じた。本当にサッカーに、試合に集中していた。楽しい会話といざ集中するときの切り替えの早さ、度合いは4年前には見られないものだった。落ち着いたものだった。
昨年の全国大会優勝、この事実は一生自分に付きまとう勲章である。人生に誇りを持てと人は言うが世の中の何人の人が胸を張れるものを持っているか?全国大会準決勝敗退、これも勲章である。この一瞬、一試合、一日のために長い年月をかけると言う作業を何人の人が体験できるのか?本当にサッカーをやっていて良かった、サッカーで皆に出会えてよかった、だから指導者は辞められない。

腹立つことも多く胃が痛くなることも多く、なぜゲームのリズムが悪くなるのか?なぜ狙ってボールを奪えない?なぜシュートを打てない?・・・と考え、やきもきしながら見届け・・・パーフェクトに出来れば苦労はない、そんな選手はいない・・・と言い聞かせ何度も待ち続ける・・・出来るまで。完璧に出来たら練習する必要がない、出来ないから練習が必要、練習するから感動は倍増。こう言った当たり前のようなことを改めて体験させてくれたチームであった。

本当に連覇は難しい。しかし勝てない時代から勝てるチームに進化することも難しい。最初、連覇をしていた広島に本気で勝つことを考えたのは監督だけだったかもしれない。何処となく「なかなか勝てないよ!強すぎる」と思ってはいなかったか。選手を鼓舞して広島を招待し、神戸で戦いくじかれて、何度も戦い分析し、勝利をもぎ取るこの熱意。監督の情熱に施されついには全国優勝を成し遂げるにまで至った。なんとも不思議な監督との4年間。

今年の3位は正直悔しい。勝つために清水へ行ったのだから。選手たちが「予選リーグで負ける訳には行かない。優勝をする事が目標。」といった顔をして、平然とリーグ戦を戦っていたことに正直驚きを感じ、同時にたくましさを感じた。経験とはすごいものだ。ここまで選手を成長させるものなのだと改めて学んだ。やはり勉強は負けてするものでなく勝ってするものだ。負けたときよく言うではないか、「良い勉強になったな!」と。違う。負けて勉強にならないとは言わないが勝ったらもっと勉強できるのである。自信と言う産物を手にしながら・・・。

本当に私がこのチームに対して役に立ったのだろうか・・・?何で役に立ったのか・・・?精神面?技術面?戦術面?と考える。   良くはわからない。これは選手が評価してくれれば良いことなのだがせめてマイナスでないことを祈ろう。私は最後に選手たちにこれをどうしても伝えたい。こうやってずっとサッカーを続けてくる事が出来た自身の努力と同じくらい皆さんに対して環境を与えてくれた・・・小学校の頃からサッカーをする事が出来たという環境を与えてくれた・・・周りの人たちに一緒に感謝しようではないですか。兵庫の女子サッカー界の努力の結晶であり宝である素敵な選手、素晴らしいレディーたちに感謝の気持ちを伝えたい・・・ありがとう。これ以上私には気持ちを言い表せる適当な言葉が見つからない・・・。

そして浅野正倫監督、金田篤佳コーチ、山田由佳マネージャーありがとうございました。

A’ZUL HYOGO PLAYER’S LIST

1 GK 高貝直美 (多井の畑キャロッツ) 11 DF 金田明子 (ポルト神戸)
2 DF 吉良慶子 (神戸FCマミーズ) 12 DF 山本喜子 (多井の畑キャロッツ)
3 DF 井口珠美 (多井の畑キャロッツ) 13 MF 吉田万帆 (ポルト神戸)
4 DF 水田明美 (ポルト神戸) 14 DF 清木環 (ポルト神戸)
5 MF 中谷明子 (トパーズ神戸) 15 MF 兼吉裕子 (ポルト神戸)
6 MF 吉田智美 (ポルト神戸) 16 MF 平井尚美 (バンヴェール兵庫)
7 MF 田村敬子 (多井の畑キャロッツ) 17 FW 安野みどり (バンヴェール兵庫)
8 MF 幸田純子 (木津ペッカーズ) 18 MF 山田由佳 (高砂FC‘72レディース)
9 FW 昌子直美 (神戸FCマミーズ) 22 GK 西川雅子 (夢野ファイターズ)
10 FW 坂本里加子 (トパーズ神戸)

音楽会での一場面2003-11-17

先般、ある小学校で授業参観をかねた音楽発表会があった。そこでの話から・・・。

音楽会での一場面

ある学年の順番が回ってきて発表を行った。その演目は合奏等のよくある演技であったらしい。その演目メニュウの中ほどに90人強いるメンバーを代表して30人あまりが踊りを踊った。その踊りがよほど良かったのかその学年の一通りの演目が終わった後にアンコールがかかり再度踊りを踊ったと言う。しかし、最初の演目メニュウ途中での踊りにおいてはメンバー以外の仲間はステージ横のカーテン裏に待機し次の自分の番を待つ仕草。いわゆる役割分担をしているかの如くの振る舞いで大きな問題はなかった。が、最後の突如のアンコールに対しての踊りは先生方も予想していなかったのか、踊るメンバー以外はとりあえずステージ横に座らせて・・・と、なんとなくと言う空気の中、仲間を観ていたと言う。

こういう一連の出来事は聞けば「だから何なの?」というたわいもないようなことなのだが実はこの中に人間模様があった。アンコールに対して踊っている子供の親はうれしさと自慢げな態度と・・・何処となく顔がほころぶ。しかし、踊っていないメンバーは「なぜわざわざアンコールにこたえるん?」と何やらやり方に対して不機嫌そうな顔。そう、面白くないのだ。聞けば横で待たされた子供は肘をつき、おおよそピリッとした様子ではなかったようである。ある親が「ずっと(音楽会を)見ていてこれか・・・!」と捨て台詞をはいて講堂を出て行ったらしい。おそらく残り60名の親の一人であろう。

どうやらこう言った我が子と他の子との“差”と言うものに腹を立てていたらしい。

競争社会

私も少し思う事がある。

昨今、何においても平等を唱える事が多い。運動会においても100m競争とか50m競争をしない学校が多い。聞けば「運動の苦手な子供が情けない思い、かっこ悪い思いをしないように」だとか「いじめにつながらないように」と言う配慮があると聞く。私もそれぞれの学校が考えているはっきりとした理由を直接聞いた訳ではないが多くの学校でそういう理由だと(外部から)聞く。

それについて確かにそういうことは起こりうるだろうしそういう事態に対する事前の対策は立てるべきであるし、「言われる事はもっともだ」と思う。しかしそう言って競争を行わないはずの方針が今回の音楽会では逆のこと(差をつける行為)をしてしまったような気がする。いうなれば・・・運動会において100m競争を行い“差”をつけてしまった・・・・このケースに類似する方法がとられたような気がする。

運動会方法でも音楽会方法でも良いのだが、要は方法が統一されていないことにまず私は少し疑問を感じる。私はどちらかと言えば運動会だろうが音楽会だろうが出来る者は出来る事を、出来ない者は出来る者に任せる、出来ない事・苦手なことをもさせていく・・・と言う必要性がもっと現在の教育の中には必要であると考えている。実際の現場の教員たちは「そんな簡単に保護者に言えませんよ。」と言うだろう。確かに現代の親子事情を考えるととても私が言うようなことはできないであろう。しかし間違いなく言えることは[世の中は競争社会である]ということである。

生活様式の変化と思考の良し悪し

私が大学で教えている学生たち。彼らも競争社会に巣立っていくのである。がんばれよ!!

私が大学で教えている学生たち。彼らも競争社会に巣立っていくのである。がんばれよ!!

ではなぜ現場の教員が親に対して“差”の付くことの是非を言えなくなるのか?教員は親に気を使っている。本来、対・親に限らず人に対しては気を使うものであり、気を使う事は必要なことである。人として必要な要素であるからして先生が気を使うことは何もおかしくはないのだが、気の使い方がおかしいのである。「文句を言われないだろうか?」と言う思いで教員は気を使っている。今では音楽会のやり方も運動会のやり方もPTA を通して相談し、内容を考えたりすると聞く。我々が小学校の頃や我々の先輩方の年代では考えられないことだ。しかし昔は昔で今がダメだと言う訳ではない。現在の社会情勢に合わせて音楽会、体育会のやり方はどんどん変わっていくべきだし、むしろ昔の方法のままではダメだということも実際には多い。昔は先生が子供を殴っても「先生、ありがとうございました。」と言う親はいても文句を言う親はいなかった。しかし現在はその方がおかしい時代である。殴ることの是非はさて置き、現在の社会情勢は多様化し情報があふれ思考、生活スタイルも変化に富んできているのは紛れもない事実。ちょっとボタンを押せば全世界のあらゆるジャンルの情報が何処よりも先に自分の家にいながら机の上で“パソコンの画面”というほんの10年前にはありえなかったもの(4~5年前でさえパソコンを持っている人はほんの一握り)で手に入れる事が出来る時代である。当然、親の世代も変わり思考も変わる。つまり音楽会、運動会への考え方は変わるのである。・・・当然である。

競争社会への逆行

が、である。変わって良いことと変わってはいけないことは必ずある。前にも述べたが世の中は自由競争の時代である。道路公団の民営化、郵政事業の民営化と世の中が以前にも増して動き出そうとしている。しかも自由競争の世界の方向へ・・・。それなのになぜ親が我が子を必要以上にかばい、競争の社会から逃れようと仕向けているのか。むしろ時代と逆行しているではないか。郵政事業の民営化が競争の社会である・・・ということを主張している訳ではない。いつの時代もそうなのだが個人で店を営んできた人はどうか?店を開いたときから競争の社会で生きている訳である。では個人商店というものはここ数年、このような情報社会になってから世の中に現れてきた新種の職業であるのか?いや違う。むしろ歴史はそこから始まっている。個人商店が大きくなり大企業になり・・・と言う歴史のすべてのスタートは自由競争の世界が背景にある。なのになぜ今の時代になって親は急に“差”を避けるのか。運動会、音楽会は大いに競争しなければ・・・、我が子を大いに戦塵の谷につきおとさねば・・・。可愛いい子には旅させろ(させなければ)・・・である。

将来大人になったときに困るのは結局その子供自身である。困ってからやるのでなく困る前に準備をしなくてはならない。これは良く考えるとサッカーでも同じである。良い選手は何が良いかと言うと準備、予測ができることである。そして実際困難に直面したとき耐えうる手立てを持っていることである。予測する頭脳にタックル、寄せる、クリアー、パス、シュート等サッカーの技量を併せ持つことと同じである。

回りに敏感になり、人の気持ちを察する能力をつけること

教育の思考の変化、現代の教員の気の使いよう、教員の質低下(私はそう思わないが)を叫ばれている昨今、この原因を作ったのは保護者であるような気がする(教員も人の子である以上、教員も保護者の一員ではあるが)。保護者は先生を信用できる、任せられると言う思いを持ち、教員は「任せなさい」と胸を張れる事が必要である。では、そうするにはどうしたらよいか?

互いにお話しする。もっと言うなら聞く耳を持つ、これが一番大切。聞くことで相手の話を聞きだす、考えを聞きだすのである。そしてその後に自分の考えを述べる。この順序を間違える人が多い。いわゆるコミュニケーションの能力である。そしてもうひとつ、日々勉強をすることである。勉強と言っても学問勉強でない。回りに敏感になり、人の気持ちを察する能力をつけること・・・であると私の考えを言いたい。

実は、サッカーの指導者はこの能力が特に必要であると思う。選手が自分の考え通りに動いてくれなければやりたいサッカーが実践できない。実践出来なければチーム成績は上がらずやがて解任される。つまり選手達に自分の考えを伝える作業が大きな仕事となる。選手も試合に出られなければ給料が入らないために監督の意図を知ろうとする。ここにはコミュニケーションがキーポイントとして目の前に大きな存在を現す。

自然に変わってきた世の中の流れを変える力は私にはないだろうがせめて私の周りにいる人たちには先生と仲良くあって欲しいし、互いの思いを伝え合える関係を作って行きたいと思っている。・・・そういう思いが今、地域型総合スポーツクラブの会長と言う仕事をさせているのだと思う。地域の教育力を上げたい、やがて帰って来たい・・・という故郷の匂いを持った町にすることで・・・。

と言っても実はこんなことをコラムで書いている自分こそが先生達の気を使わせてしまっている一番の要因のような気がしてきた・・・。